#20
ホテルの部屋へと案内された崇宏は、瑠依のいない室内をぐるりと見渡した。この部屋はひとりで泊まるはずなのに、なぜかツイン。
どういうわけか一緒に部屋へ入った未央子が片方のベッドの上に腰を下ろす。
「彼女、帰ったの?」
「はい。見送ってきました」
「ちゃんと、別れた?」
「は?」
崇宏は眉を寄せて未央子を見下ろす。
整った顔立ち、アップにした髪、白い首筋。にこりと微笑んだその表情でさえ、自身を引き立てる小物となっているように見えた。未央子は静かに立ち上がり、そっと崇宏の胸へ指先を滑らせる。
「この道を本気で進みたいなら、独占欲の強い女がいたら邪魔よ? それに、同じ道を歩く相棒がいたら、心強いと思わない?」
「はぁ……」
「あなたはきっと、これから伸びる。私が支えてあげる」
崇宏の身体から手を放した未央子は、バッグの中からクリアファイルを取り出し、手渡す。
「今日の夕方、浜辺で波の撮影をするの。楽しみにしてて。あなたが想像もしなかった世界を見せてあげる」
この女は、と、部屋を出ていく未央子を見送りながら思う。
まさかとは思うが、入賞したのは技術うんぬんではなく、単に男としてターゲットにされただけではないだろうな、と。
そういえば、たまたま家に父親がいたとき、特別審査員として蒲田未央子の名前が追加されたコンクールに入賞した話になった。そこで崇宏が出した写真を見て父親が首を傾げたことを思いだす。
たしかに崇宏も、最初はよろこんだが、日が経つにつれ不思議に思ったのだ。この程度の作品が最優秀賞だなんて、案外、写真の世界というのは楽勝なんだな、と。
父親も不思議そうではあったが、いい写真を撮る写真家だから、違う世界も見てこいと崇宏を送り出した。
事前にチェックしてきた未央子の写真は、風景がメインで人物がほんの少しだけ映りこむものが多かった。崇宏が得意とする風景写真と、苦手とする人物写真が融合したものは、興味がある。だから撮影同行の副賞を行使することにためらわなかったのだが、なんだかきな臭い。
訝しむ崇宏がこの考えが決定的に正しかったことを知ったのは、2日目の撮影が終わり、遅い夕食をとったあと。部屋に戻った崇宏は、ノックの音に気づきドアを開けた。ツインの部屋に初日はひとりという好待遇にほんの少しホッとしたのに。
「少し、飲まない?」
「未成年なんですけど」
「じゃあ、崇宏くんはこっち」
未央子はあらかじめ用意していたワインとオレンジジュースを手にするりと部屋へ入ってきた。
盛大に警戒した崇宏は、ドアロックを扉に挟み、完全に閉じないようにして未央子を追う。
サイドテーブルにグラスを置き、ベッドに腰掛けた未央子は、ワインとオレンジジュースをそれぞれに注ぎ入れ、崇宏に手渡す。
乾杯を促され、渋々グラスを合わせるが、とても飲む気にはならない。そんな崇宏とは対照的に、未央子は白い喉にどんどんワインを流し込んでいく。
大きく開いた胸元を扇ぎながら、未央子は潤んだ瞳で崇宏を見つめた。
「撮影、どうだった?」
「すごかったと思います」
あれだけ言い切っていたのだからと期待して臨んだ撮影は、まさしく想像もしなかった世界を見せつけられたとともに打ちのめされた。
動きにくそうな服装の未央子とスタッフたちにプロ意識はないのかと疑っていた崇宏だったが、その装いこそが“撮影”だったことにすぐに気づいたからだ。
未央子が撮る写真は、風景プラス人物。モデルだと思い込んでいた人物はすべてスタッフだったりカメラマンである未央子だったりと崇宏の想像をはるかに超えた。
ポージングは一切ない人の動きはまさに自然であり、景色に違和感なく溶け込む。これが蒲田未央子の力なのかと、ただただ茫然と見つめることしかできなかった。
目を細めた未央子は小さく首を傾げ崇宏を見上げる。
「崇宏くんは、人物を映りこませるの、苦手?」
「苦手ですね。被写体が動かないならいいけど」
「じゃあ、あと1日で1枚くらい、うまく撮れるようになってよ。私、アシスタントが欲しかったの」
「蒲田先生のアシスタントなら、なりたい人がいっぱいいるんじゃないですか?」
「やだな、今はあなたの師じゃないわ。未央子って、呼んで?」
長く細い脚を組み直し、妖艶に微笑む。
が、残念ながら崇宏にとってその姿は特に魅力的ではない。色気でいうならば、亜依のほうがよっぽどある。魅力でいうならば、瑠依のほうが比較しようがないほどある。
小さくため息をついた崇宏は、視線を落としたまま笑った。
目の前にいる未央子はたしかに師ではない。女だ。
向かい合わせで座っていた崇宏の膝に乗ってくる。そのまま押し倒されそうになった崇宏はなんとか片手で体勢を保ち、もう片方の手で未央子の肩を掴んだ。ゆっくりと未央子の唇が近づいてくる。
「あのさー」
「黙って?」
「いや、下りてくんない?」
ため息交じりで呟いた崇宏の声は、微かに怒気を含んでいる。
ピタリと動きを止めた未央子は崇宏の目をじっと見つめた。
「あんた、俺をどうしたいの?」
「欲しいと思っているわ」
「あっそ。俺はせんせーとやる趣味はないんだよね。っつーか、あんたの差し金で俺の写真、受賞したなんてオチ?」
「最初はそうでも、誰もあの決定に文句なんて言わなかった。つまり、あれがあなたの実力だと思うの」
「へー。未央子サン、そこまでして俺が欲しいの」
おかしそうに笑う崇宏に未央子は戸惑う。ひとしきり笑ったあと、崇宏はぞっとするほど冷たい眼差しで未央子を見上げた。
「下りて」
「え?」
「上に乗ってんだからわかるでしょう。あんたじゃ役不足。機能しないってば」
固まってしまった未央子の身体を押し退け、崇宏は荷物を手に立ち上がる。
「別の部屋とってくる。俺、あんたの写真は好きだけど、あんたは嫌い」
にっこり笑って部屋を出ると、自然とため息が零れた。
早く帰って瑠依を抱きしめたい。たくさん馬鹿なことを言って、怒る顔が見たい。憧れていた写真の世界が、こんなに汚れていたなんて知らなかった。知らないうちに絶望が崇宏を包んでいく。
翌日、撮影が終わると同時に崇宏は荷物をまとめていた。最後のディナーに同行スタッフとともに誘われていたが、帰りの航空券をキャンセルし、ひと足早く帰る便に変更したのだった。
荷物を抱えてホテルを出ようとした崇宏を追いかけてきた未央子は、慌ててひきとめる。
「勝手なことしないでよ!」
「3日間、ありがとうございました、未央子サン」
「あなた、写真の道に進みたいんでしょう!? だから人物写真だってあんなに練習して」
「技術を学びに来たのであって、あんたに跨れるために来たわけじゃない。そういうの、ほかを当たってね」
さっさと踵を返した崇宏は、もう振り向くことなくホテルを出た。つい数日前は瑠依とそれなりに楽しく歩いた道も、今の崇宏には何ひとつ心が動かない。ただひたすらに瑠依と会いたくて。どこをどうやって進んだのかもわからない。
気がつくと崇宏は、瑠依の家の前にいた。
チャイムを鳴らすと、少し疲れた顔の瑠依が出てきた。
「崇宏!?」
「ちょっと早めに帰ってきちゃった。びっくりした?」
「びっくりっていうか……どうしたの?」
「撮影、早く終わったんだ。瑠依に会いたかったから家に帰る前に寄ってみたー」
にこにこしている崇宏をしばらく見上げていた瑠依は、様子がおかしいことに気づき、部屋へと招き入れる。
ベッドに座らせ、両手をそっと握って顔を覗き込むと、崇宏は小さく笑った。
「どうしたの、瑠依ちゃん」
「なにか、あったの?」
「ううん? ただいろんな現実を見て疲れただけー」
「笑わなくて、いいよ……」
手を放し、ぎゅっと崇宏の身体を抱きしめる。
瑠依には崇宏になにがあったのかはわからない。技術の差に打ちのめされたのか、追いつけなくて返されたのか、わからない。けれど今、崇宏が傷ついていることだけはわかる。
応援できないと思っていたはずなのに、瑠依は必死で崇宏を救う言葉を探す。けれどどんなに探しても、それは見つからない。
「崇宏……」
「大丈夫だよ? ホントに、瑠依に会いたかっただけ」
小さく笑い、宥めるように瑠依の背中が撫でられる。瑠依もまた、崇宏の背を撫でる。
それしか瑠依にできることはなかった。




