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たなばたのはこぶね  作者: 比奈田美也


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#19

 本当は、こんな状況で抱いていいのだろうかと悩んでいた。今までもガマンしていなかったわけではない。けれども必死に抑えていたわけでもなかった。

 瑠依のペースで十分だったし、この旅行でなんとしてもと思ったわけでもない。もうすぐ終わってしまうような気がしていたからむしろ抱くのが怖かった。

 ただでさえ痛みを与えてしまっているのに、身体にまで痛みを植えつける権利が、果たして今の自分にあるのかと。

 そのわりにはしっかり準備していたが、これはマナーとして持ち歩いていただけだと信じたい。


 はじめて一緒に入った風呂から上がり、バスタオルを巻かれた瑠依はそのまま抱き上げられ、ベッドに運ばれた。せめて下着くらいはつけさせてと懇願するも、あっけなく拒否され、瑠依は崇宏に抱きかかえられたまま朝を迎える。

 少しだけ下腹部の違和感は残っているが、動けないほどではないらしいことがわかり、瑠依はホッと息を吐き出した。ぐっすり眠っているのに崇宏の腕は瑠依を包んだままだ。そっと顔を上げ、崇宏の顔を覗き見る。

 すやすや眠る崇宏の唇の両端は楽しそうに笑っている。いつもとなにも変わらない平和そうな顔に瑠依は思わず笑ってしまった。けれどその笑みは音もなく消えていく。

 昨夜、寝入るまでの間話していた言葉を思い出した。


「瑠依はどうしてあの大学を選んだの?」

「あたし……はじめは広報論が学びたくていろいろ調べてみたの。そしたら分析論とかすごく魅力的で、なんていうのかな……どうすれば売り出せるかって考える仕事に就きたかったんだ」

「ふーん……なんかすごく難しそうだけど、瑠依にピッタリ」

「崇宏は……どうしてあの大学を選んだの?」

「瑠依がいるから、が大前提だけどー。順当にいけば伝える仕事に就きたいかな、大ざっぱだけどね」

「写真、は?」

「趣味の範囲を超える才能があるなら、やっぱりずっとカメラの道にいたいよ。うちのおとーさま見てると羨ましくなる」

「……そっか……」

「でも。どんな道にすすんだとしても、瑠依が隣にいたら幸せだよ、俺」

「まあ、がんばってよ……」


 やっと言えたがんばれの言葉も、どこか棘を含み、それを崇宏がどう思ったかはわからないが、話は切り上げられてしまった。

 瑠依は身体を包んでいる腕からすり抜け、バッグの中からかなりよれてしまっている雑誌を取り出した。


 パジャマを着てそっとバルコニーへと移動する。

 朝日を浴びた海面はキラキラと反射し、穏やかな波が砂浜に流れ込む。白い気泡が砂浜で弾け、ゆっくりと海へ還っていく。

 瑠依は手に持っていた雑誌を開き、もう何度も見たページで視線を留めた。


 一番大きく書かれた、大好きな人の名前。

 作品への評価がぎっしりと綴られ、今後も期待しているとの言葉で結ばれている。瑠依が意識を奪われたのは、特別審査員の一人の名だった。

 蒲田未央子。それは姉の大学で学園祭を手伝った際、崇宏が撮った天の川のパネルを譲ってほしいと声をかけてきた女性の名だ。

 彼女はあのとき、なぜか一番最初に瑠依に声をかけてきた。戸惑い、天野に助けを求めたが、彼女が写真家と紹介され崇宏と握手を交わしているのを見たとき、瑠依は直感した。この人が崇宏を遠くへ連れて行く人だ、と。


 その予感は、崇宏が初めて応募したこのコンクールのこの発表ページで現実のものとなった。

 あの日、崇宏がパネルの譲渡を断ったあと。彼女は瑠依に向かって言ったのだ。

 『才能を認めて背中を押してあげるのも、恋人の役目だと思わない?』と。

 当時はまだ付き合っていなかったから、瑠依は曖昧に笑みを返すことしかできなかったが、今になって思うのは、離れていかないで。それしかなかった。自己中心的で、崇宏の人生を無視した言葉だ。


 そして瑠依は絶望した。

 応募要項にはたしか、特別審査員の名もなかったし、副賞があることなどひとつも書かれていなかったのに、受賞発表の崇宏の名前の横には副賞の文字と、彼女、蒲田未央子の撮影同行の文字。

 彼女が、崇宏を求めていることはすぐにわかった。彼女はきっと、崇宏を高みへと連れていく。

 素直に喜べない身勝手な自分。

 瑠依はぎゅっと雑誌を丸め、握りしめた。


「ごめん、崇宏……」


 やっぱり、背中は押してあげられない。

 そう口の中で呟いたとき、部屋とバルコニーを隔てた窓からカメラを持った崇宏が外へ出てきた。


「やっぱりいい景色だねー」

「うん……」


 カメラを構えた崇宏は、太陽の光を一身に受ける青い海を切り取った。

 胸の痛みはどんどん広がっていく。

 シャッターをきる音が。ファインダーを覗くその横顔が。こんなにも苦しかったことなんて一度もない。


「遊びに行こうか」


 瑠依は丸めた雑誌を背中に隠し、崇宏を見上げて微笑んだ。

 黒い感情が自分を埋め尽くす前に、洗い流したい。



 シャワーを浴び、着替えたふたりは朝食もそこそこに、ホテル近くの海岸を散策した。

 カメラをバッグにしまい、波打ち際で大はしゃぎの崇宏を砂浜に座って眺める。瑠依を呼び、手招きする崇宏に、笑みを浮かべて首を振った。


 崇宏は目を細め海のなかに足を沈める。もう、瑠依の心は限界だ。崇宏は自分がどうすればいいのかわからなくなっていた。

 明日、一緒に帰れば瑠依を安心させてやることができるのはわかっている。けれど、蒲田未央子に同行して彼女の技術を自分の目で見たい気持ちは隠せない。

 もうひとつ。

 昨夜瑠依と話した彼女の未来に、自分がいなかったことを、崇宏は少なからずショックを受けていた。そこに崇宏がいてもいなくても、瑠依は自分の道を歩める。自分もまた、写真の道に瑠依がいなくても歩めることに気づきたくなかった。


「別れたくね……」


 崇宏は小さく呟いて、笑った。そして振り向く。砂浜に座ったままの瑠依に大きく手を振る。


「……ごめん、瑠依」

「えー? なぁにー?」

「なんでもなーい!」


 ふたたび海の中へ水しぶきを上げて入っていく。


「瑠依は、ずっと笑っててよ」


 崇宏の呟きは波の音に攫われて消える。

 沖縄2日目。

 澄んだ青い空とは対照的に、曇ったふたりの心は、晴れない。



 翌日、荷物を抱えたふたりは那覇空港にいた。

 手を繋いだまま、ロビーのイスに座りぼんやりと人の波を見つめる。時間は刻々と過ぎ、搭乗アナウンスがふたりの鼓膜に響く。


「瑠依ちゃん、帰ったら東京で家探そうね?」

「ん……」

「きっと瑠依のおとーさん、一緒に住むって言ったら泣いちゃうね?」

「一人暮らしじゃないなら仕送りしないって言ってた……」

「やっぱり? じゃあせめて、ご近所さんにしようね!」

「ん……」


 ふたたび沈黙する。繋いだ手を放せない。これが永遠の別れではないのに、瑠依はもう泣きだしそうだった。


「瑠依」

「え?」

「時間だ。すぐ帰るから待っててね」


 すっと繋がれていた手が放れた。

 別れるのは今じゃなくてもいい。もう少しだけそばにいて、崇宏が旅立つときに手を振ってやればいいんだ。そう自分を納得させようとする自分がいる。

 けれど、このまま付き合っていればそう遠くない未来、自分は今よりももっと、崇宏の重荷になる。笑顔で見送ることなんか、絶対にできない。そう思う自分もいる。

 瑠依は涙を呑み込んで、顔を上げた。


「んじゃ、行くね」

「ん。気をつけてね」


 瑠依は精いっぱい微笑んで、崇宏に背を向け歩きだす。ゲートをくぐり、角を曲がるとき、一度だけ振り向く。

 そこには笑顔で手を振る崇宏がいた。小さく手を振り返し、瑠依は歩を進める。そして足早にトイレへと駆け込んだ。

 鍵をかけ、個室に蹲る。溢れ出る涙も、押し殺そうとする嗚咽も、止まらなかった。


 瑠依の姿が見えなくなって、けれど崇宏はそこから動けなかった。ややあって、ようやく思い出したように息を吐き出す。


 危なかった、と思った。

 あと少し、搭乗時間が遅かったら。瑠依はきっと別れ話を切り出した。

 これからもいつかあんな顔をさせるとわかっているのに、写真は諦められない。別れてやることもできない。

 少しくらい離れても俺たちは大丈夫だとキッパリ言ってやれないのは、自信がないからだ。写真のことになると、どうしたってそっちを優先してしまう自分を、崇宏はよく知っている。それを瑠依も知っている。そんな気休めで安心できる浅い場所に、崇宏も瑠依もいない。


「崇宏くん、ここにいたんだ」


 ふいに聞こえた声に、崇宏はゆるゆると顔を上げた。崇宏の前で微笑んだのは、蒲田未央子。これから数日の間、崇宏の師となる写真家。


「さっそくだけど、今日から停泊するホテルに案内するわ。車を待たせているの。こっちへ」


 未央子の手が崇宏の腕に触れた。

 咄嗟にそれを振り払った。驚く未央子に崇宏は立ち上がり、にっこり笑う。


「3日間、よろしくお願いします、蒲田先生」


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