#14
そんなわけで、瑠依を好きになって1年ほどの時間を要し、ようやく付き合うこととなったわけなのだが。
今までとなにも変わりはなかった。
瑠依がおしとやかになったわけでもなく、崇宏が偉そうに振る舞えるようになることもなく、休日にはふたりで写真を撮りに出かけ、雨が降れば現像に精を出す。変わったのはときどきキスをすることくらいだ。
瑠依の部屋でテスト勉強をさせられていた崇宏は、隣に座る瑠依の横顔を盗み見る。
「だから、ここはこういう解釈になるわけ。って、あんた、聞いてる?」
「ん、聞いてる」
「……あたしの顔見たって答えなんか書いてないんだからね?」
「ん。そのへんは大丈夫。ねー瑠依ちゃん。今日はどうしてドア閉めてるの?」
「暑いじゃない」
「亜依さんは家にいないの?」
「彼氏とデートだから――ってちょっと、なに!?」
瑠依姉がいないなら絶好のチャンスとばかりに、崇宏は瑠依の頬に唇をあてた。ぺろりと舐めると瑠依は素早く身体を離し驚いた顔で崇宏を見上げた。
カーペットに手をつき、離れた分だけ近づくと、瑠依は明らかに怯えた顔をする。
「な、なに!?」
「んー。古典の解釈より、俺は瑠依ちゃんのことが知りたいなーと思って」
「タイム!!!」
「大丈夫。俺、ゴム持ってる」
「ち、ちがっ!!」
取り乱した瑠依は座ったまま器用に離れていく。それを四つん這いで追いかけ、追い詰めた。
「待って。お願い」
「だめ?」
悲しそうな表情で小首を傾げる崇宏を見上げる瑠依は涙目だ。
と、そのとき。
がちゃりとドアが開いた。
思わず振り返った崇宏は背筋が冷たくなるのを感じた。
「ごっめーん。お邪魔だったかしらー」
「……亜依さん、わざとですよね……」
「あら、わかるー? あたし、これからデートなんだけどぉ」
「はぁ……」
「瑠依の嫌がることしたら、コロス、からね?」
にっこりと微笑んだ亜依は、無断で部屋へ侵入すると崇宏の襟を掴んで耳元に唇を寄せる。
「ココ、使い物にならなくしちゃうよ」
微かに香水の香りがする亜依が、ゆっくりと離れていく。
そして、崇宏の表情を見て満足げに去っていったあと、ようやく口を開いた。
「瑠依ちゃん……亜依さんはお留守だったんじゃ?」
「出かける用意してるって言おうと思ったのに崇宏が変なことするからでしょう!?」
泣き叫ぶように言ったあと、瑠依は顔を赤らめて俯く。ぽつりと呟かれた言葉に崇宏の胸はじーんと熱くなった。
「瑠依ちゃん、ごめんなさい」
「そうじゃなくて……」
「ぎゅうってしていい?」
瑠依が小さく頷くのを確認してすり寄っていく。そっと身体に腕をまわし、瑠依の腕も同じように崇宏を包むのを感じて安堵の息を漏らした。
したくないって思っているわけじゃないもん、だなんて呟かれたら、崇宏はもう謝るしかない。瑠依はこうしていつでもそばにいるのだから、焦る必要もがっつく必要もなかったと反省する。
「……崇宏、怒ってる?」
「俺、ガマンしてないよ? 言ったでしょ、俺には優秀な理性が組み込まれてるって」
「うん……」
「瑠依はそんなこと気にしなくていいの。そこらへんのおさるさんと一緒にしないで」
「……わかった」
ほんの少しだけ安心した顔で笑った瑠依をもう一度抱きしめて、崇宏は改めて思った。
亜依の存在は、脅威だと。たしかにこの脅威を突破するのは難航しそうだ。
けれど崇宏はそこらへんのおさるさんと同じ。邪魔が入らない場所を作らねばならんと思案しているとはつゆほども知らず、瑠依は感心していた。
その日から瑠依の崇宏へ対する警戒心は完全に消滅した。
夏休み前、『今年の夏祭りは絶対に浴衣!』と駄々をこねた崇宏に呆れた顔を見せたが、瑠依は貯めていたお小遣いで浴衣を買ってきた。着付けを教わろうと亜依の部屋をノックする。
「今、いい?」
「どうぞ。あれ? 浴衣買ったの?」
亜依は浴衣を大事そうに抱えた瑠依を見てニヤリと笑う。
「着付け、おしえてほしくて」
「いいよ。おいで」
姿見の前に瑠依を招き、着ていたものを脱がせる。
紫の桔梗がよく映えた浴衣を羽織らせ、袖を握らせた。
「腕を伸ばして左右に引っ張って」
「こう?」
「そうそう。鏡を見て、背中の中心がずれてないか確認するの。次は、裾の高さを決める。衿の先を持って、前に引っ張ってみて。裾をくるぶしの下くらいに合せて、左手を右の骨盤の上に持っていく。太ももを隠す感じね。これが、上前の位置。これより裾が少し上がるように右手を左の骨盤の上にもっていく。そうそう、上手」
亜依はくすくす笑いながら、瑠依の髪を結いあげる。
「じゃあ本番。右が下、左が上、それだけ覚えておけば簡単だから。左手で押さえたまま、腰ひもを締めるんだけど、結んじゃうと帯締めたときゴロゴロするのよ。だから、前で絡めるだけでいい。次は、おはしょり。脇から両手を中に入れて、前をチョップ、うしろもチョップしてしわを伸ばす。これ、ちゃんとやらないとかっこわるいから」
「なんかむずかしい……」
「慣れだって。ここまでできたら、鎖骨が見えないように衿を整えて、きものベルトを脇から入れて胸の下で下前の衿をクリップではさむでしょ? ぐるっと背中をとおして、上前の衿もはさむ。どう? きつくない?」
「うん、大丈夫」
「じゃあ、鏡を見ながらしわを整えて、後ろ衿を抜くんだけど、首の後ろに拳ひとつ分くらいね。それ以上になると変だから」
「これ、もっと開けたほうが色っぽいんじゃないの?」
「崇宏くんならよろこびそうだけど、同性から見ると痛いよそれ。ガキはガキらしくってことだね。衣紋を抜いたら、後ろのおはしょりを軽く引っ張って整える。伊達締めをつけて完成、と。ここまでひとりでやってみて」
瑠依は不安げな表情で一から着付けていく。どうしても亜依が手伝ったときよりごわついてうまくいかないが、それでもなんとか伊達締めまでひとりで着付けることができた。
ほぅっと息をついた瑠依に、亜依は笑う。
「何度か練習したらすぐうまくなるよ。じゃあ、次は帯結びだね。端から50センチくらいを半分に折って、肩にかけるでしょ。ここをクリップで留めておいて、鳩尾あたりを親指で押さえる。帯はゆるんでくるとかっこわるいからしっかり巻いてね。で、肩にかけてあったほうの手先を下ろして、帯の上のほうで結ぶ。手先を肩に戻して、今度は帯の巻終わりのほう、タレ先を折りたたんで羽根を作る。瑠依ならこれくらいかな。ひだを作って、さっきの手先を中心にぐるぐる巻いて、余った部分を帯の中に入れ込む。ぐらぐらしてなかったらこれで完成」
「え、結び目って前だっけ!?」
「馬鹿でしょ、あんた。結び目を後ろに回すんでしょうが。必ず、右回りでね。着くずれちゃうから」
恐るおそる帯を回した瑠依は、鏡で全身を確認し、ホッとしたように息を吐いた。
これならなんとか自分でも着付けできそうだ。
「この帯結びが、文庫結びって言って、初心者向け。上手にできたじゃない」
「ありがと。崇宏、いっつも突然だからひとりで着付けできないと困るなって心配だったんだー」
「そうだね。家を出るときはいいけど、外で脱いだときが大変だもんね」
「そうそう――って!!!」
「あんまりもったいぶってたら捨てられちゃうよー? センパイのときみたいに」
「……崇宏は、違うもん……」
「そ? まあ今度は誰もいないときにやるのね。あたし、絶対に邪魔しちゃうから」
亜依はおかしそうに笑って、くしゃりと瑠依の頭を撫でた。
意地の悪さにかけては天下一品の亜依だが、それなりに心配しているのだろう。もう一度浴衣姿の瑠依を上から下へと眺めて、満足げに微笑んだ。




