65 目隠しチェス
「目隠しチェス……?」
ダリオンが戸惑いの表情で、聞きなれなさそうに繰り返す。
アンリエッタは微笑み、大きめのシルクスカーフを『錬金術師の部屋』から取り出した。
「そう。あなたは目隠しして盤面を見ないで、声で駒の位置を指定するの。わたくしがその宣言通りに駒を動かすわ。もちろん、わたくしも自分の位置は伝えるわよ」
「……つまり、記憶力だけで戦えと」
「そういうこと」
数秒の沈黙の後――
「……わかった。やってみよう」
ダリオンは躊躇なくアンリエッタのスカーフを手に取り、視界を遮った。
布越しに彼の眼差しが隠れると、部屋の空気がわずかに変わった気がする。
あからさまに不利な勝負。なのにダリオンはどこか楽しんでいる節すらある。
(さすがにこのハンデなら、わたくしが勝てるわよね……?)
もちろん対等な勝負でないので勝っても誇る気はないが。
アンリエッタは少し不安になりながらも、ボーンを手に取った。
「それじゃあ始めるわよ。わたくし、先手で――ポーンをe2からe4」
駒を宣言し、コトンと盤上で進める。
「ポーンe7からe5」
ダリオンは迷いなく宣言する。
アンリエッタはダリオンの指定した駒を移動させた。
その後はナイト、ビショップを動かしていき、鏡合わせの配置となる。キャスリングでキングとルークを同時に動かし、ダリオンも同様に。
盤面は完全に左右対称。
――覚えやすいようにあえて左右対称にしているのか。
それともウォーミングアップか。
しかし、じわじわと中央での駒のぶつかりが始まると、左右対称ではいかなくなる。
「ねえ、本当に見えていないのよね……」
「ああ。気になるなら、背を向けようか?」
「いいわよ、そこまでしなくても」
ダリオンの駒の配置は比較的安定していて、防御陣形が崩れていない。
むしろアンリエッタの方が押されているような気すらする。
――ぐらり、と自信が揺らぐ。
(目隠ししている相手に負けるわけがない……はずなのに)
チェスは集中力の勝負だ。
盤面を見ずに、頭の中だけで組み立て記憶するだけで、集中力の何割かが持っていかれるはずなのに。
彼の顔には焦りすらなく、盤面はよどみなく動き続ける。
ダリオンのボーンが落ち、アンリエッタのナイトが落ちる。だがアンリエッタも、ダリオンのナイトを仕留める。
駒点は白良し。だが、実戦的な手段は黒に多い気がする。
終盤、精密に詰められれば、どうなるかわからない。
(まさか、わたくしの不利……? いえ、弱気になってはいられないわ!)
中央の黒ポーンをクイーンで取ろうとした瞬間――
「――ぴぃ」
イムがぽよんっと跳ねてテーブルに乗り、盤面の駒を完膚なきまでに散らす。
「ああ――! ちょっと、イム! これじゃ続きができないじゃない!」
「大丈夫だ、戻せる」
目隠しも外さないまま、迷いのない声で言う。
「……え?」
「――まず、私の駒だ。キングはg8、クイーンはe7。ルークはa8とf8」
「ちょ、ちょっと待って」
アンリエッタは顔を引きつらせながら、イムを膝の上に置いて、ダリオンの黒い駒を言われたところに置いていく。
「ビショップはc8とd6。ナイトはf6。ポーンはa7、b7、c6、d7、f7、g7、h6」
「…………」
「君のキングはg1、クイーンはd4。ルークはa1とf1。ビショップはc4とe3。ナイトはb5――」
アンリエッタの白い駒を、同じように置いていく。
「ポーンはa2、b2、c3、d2、e4、f2、g2、h3」
――ダリオンが言ったとおりに並べていくと、盤上が元通りになる。
「……あなた、本当に見えていないのよね?」
「ああ。それでは、続けようか」
「い、いいわよ。もう」
「ここまで来たんだ。決着まで見たい」
背筋がぞくりとする。
目隠ししているのに、彼はもう見えているのだ。未来まで。
「わかったわよ。言い出したのはわたくしだしね」
それにまだアンリエッタの有利だ。――多分。きっと。
復元された盤面で再開する。
駒を動かすたび、アンリエッタはうっすらと汗をかいていっていた。
――点では勝っているのに、線で絡め取られていく……
盤面の隅から隅まで、黒の網が静かに広がっていき、一手進めるごとに、選択肢が細く細く絞られていく。
――見えるのに。
見えているのに、絡め取られていっている。
――ダリオンは、見えていないはずなのに。
いや、怖気づくわけにはいかない。アンリエッタは強くな攻めの一手を選んだ。
「君は強い」
静かな声に、びくっと身体が跳ねた。
「だが、この駒組みは私の構想通りだ」
「……構想?」
「終盤戦は、私の領域だ」
その言葉に続いての宣言で、黒のルークが一閃。アンリエッタの要の駒が落ち、支えを失った陣形が崩れていく。
罠だった。アンリエッタが攻め手を選んだ瞬間、それが最後の逃げ道を塞ぐ手だったのだ。
――この男、化け物だ。チェスの化け物。
強いとか、賢いとか、そんな言葉では足りない。
白のキングは、もう逃げ場を失っていた。
「……あなたの勝ちよ」
ダリオンが満足げに目隠しを外した。
二人で盤面を眺めながら、アンリエッタは考え込んでいた。
(この強さ、何かに使えないかしら……)
――その瞬間、天啓のようにアイデアが降ってきた。
「――決めた。大会を開くわ!」
「……なんだと?」
「最強のチェス騎士を倒せる猛者、求む!――って!」
「……は?」
「そして大会の様子を王国全土と近隣諸国に見せるの! そこにアグスティア領の冒険者ギルドの宣伝を入れる! それを見た冒険者がたくさん訪れる――って寸法よ」
「…………」
長い沈黙ののち、ダリオンはふっと息をついた。
「……君の発想は、私には理解できないものが多い」
「あなたは最後の敵――そう、チェス騎士として、優勝者とだけ対局してくれればいいわ。顔を隠して、チェスの腕前だけ見せてくれたらいいわよ」
「……ちょっと待ってくれ」
ダリオンは軽く頭を抱えている。あまりにも突拍子のない話に、情報処理に時間がかかっているらしい。
「そもそも、そんなことが可能なのか?」
「できるわ」
以前作った魔道中継装置。人工の目と耳。
そして――空飛ぶお城。あれを中継基地にして、魔道ネットワークを構築すれば可能だろう。
「わたくしの錬金術に不可能なんてないのだから! さっそくお父様に打診しないと!」
アンリエッタは勢いよく部屋を飛び出し、父の元へ向かった。






