64 叙勲式
そうして会議が終盤に差しかかった頃、公爵が立ち上がった。
「――ダリオン・ヴァルフォード」
名が呼ばれた瞬間、部屋の空気がわずかに張り詰める。
しかし、その中心に立つ男は、微動だにしなかった。
ダリオンはまっすぐに一歩、前へと進み出た。
背筋は伸び、顔には動揺の色ひとつない。
まるで事前に知らされていたかのように、完璧に整った所作だった。
「貴殿は、アグスティア公爵領の防衛において、顕著な功績を挙げた。よって、我が名において、騎士爵を与える」
重々しい言葉に、彼はただ一礼し、静かに跪いた。
「拝命、光栄の至りにございます」
その瞬間、アンリエッタは自分の指をそっと握る。
(……あら。もう少し驚くかと思ったのに)
この叙勲は、父とアンリエッタが協議し、密かに準備したサプライズだった。
まさかこんなにも冷静に受け止められるとは。
それでも、儀式は厳かに進む。
公爵が佩刀を抜く。
鍔鳴りひとつ立てぬよう、慎重にその重みを手に取り、ダリオンの肩へと剣の背を静かに置いた。
――伝統的な叙勲の儀。
アンリエッタは静かにそれを見つめていた。
(まあ、確かに、予告はしていたけれど……)
――騎士爵を与えられるかもしれない、と。
(でも、もう少し驚いてもいいんじゃない?)
せっかく、父と自分でサプライズ的に用意していたというのに。
――騎士爵。
一代限りの爵位であり、王家の承認を要さぬものの、貴族社会においてはれっきとした騎士としての身分が与えられる。
年給はわずか。
栄誉は形式的。
それでも、冒険者と騎士爵では、あらゆる意味で立場が違う。
(これは、あなたを――わたくしの隣に立たせるための身分)
公爵の言葉が続く。
「――また、ダリオン・ヴァルフォードには、騎士爵に加え、我が娘アンリエッタ・アグスティア直属の特務騎士としての任を与える。以後、彼は公爵家嫡子の側近として、必要に応じて公的な権限と命令を行使することを許可する」
――そう。ただの爵位ではない。ただの騎士でもない。
アンリエッタだけの騎士であることを、公的に認められたのだ。
アンリエッタは立ち上がり、そっと壇上へと歩み出る。
用意されていた深紅のリボンに金の装飾が施された勲章を手にして、ダリオンの前に進み出る。
「おめでとう、ダリオン」
その胸に、勲章をかける。
一拍、ほんのわずかな間。
アンリエッタはふわりと近づき――
「わたくしの騎士へ。忠義と努力に、感謝をこめて」
彼の頬に、やわらかく唇を寄せた。
一瞬、大広間が静まり返る。
列席者たちの誰もが言葉を飲み込み、空気すら動かない。
ダリオンは目を伏せ、かすかに眉を動かした。
「……光栄です」
絞り出すような声だった。
その低く深い響きに、場内の誰かが喉を鳴らし、次いで――
ざわり、と。
波紋のように広がるざわめき。
「……静まれ」
公爵の一声が響くと、場はすぐに鎮まった。
アンリエッタは父の厳しい視線を柔らかく受け止め、微笑んだ。
父の目には、明確な不満があった。
公の場で私情を挟んだ――と、そう言いたげな厳しさ。
けれどアンリエッタは、その視線を正面から受け止め、柔らかく微笑んだ。
(だって、いましかないもの)
この場には、領主、騎士団、行政の重鎮たち、そして多くの有力者たちがいる。
この場で、言葉ではなく行動で示したかった。
――この男は、わたくしの騎士であり、誰にも侮らせはしない、と。
◆◆◆
――夜、アンリエッタの部屋でチェスをしながら、ダリオンがぽつりと零す。
「君は……人前でああいうことをする人だったか?」
「なんのこと?」
アンリエッタは駒を一つ指し、小さく首を傾げて微笑む。
部屋の片隅では、イムがのそりのそりと移動しながら、足元に落ちた糸くずを回収していた。いつもの、穏やかで静かな夜の一幕。
「…………」
アンリエッタはくすりと笑い、駒から指を離した。
「伝統的な祝福よ? あなたの国ではそういう風習はなかったの?」
「……いや、あるにはあったが」
ダリオンは視線を盤面に落としたまま答える。
「伝統的な馬上試合などの優勝者に、表彰式で高貴な女性が頬に――というのは確かにあった。だがあれは、叙勲の場だ」
「そうね。でもわたくしは、あの場で伝えたかったのよ。ありがとうって」
「…………」
「嫌だったら、避ければよかったのに」
「……避けられるわけがないだろう」
黒の駒が、一つ動く。
ダリオンとの勝負の時は、アンリエッタが白、ダリオンが黒ともう決まってしまっている。通常は格上が黒。アンリエッタはダリオンに勝てないので、いつの間にかの流れだった。
アリエッタは白の駒を動かす。
「防衛強化はうまくいったけれど、冒険者にはもっと来てほしいわね。自由に動く冒険者と、規律で動く騎士団。この連携があってこそ、安定感も高まるでしょうし」
「……そこは、地道な広報だな。冒険者にとって利益のある地域だとわかれば、訪れるものも多くなる」
「そんなのつまらないわ」
「愉快とか、退屈とか、そんな話ではない」
黒の駒が、白のキングの前に置かれる。
――いくら考えても逃げ場はなかった。
「……また、負けた……」
盤面を睨みつけながら、アンリエッタは前に座る男に恨めしげな視線を送った。
「ねえ、あなた。強すぎない……?」
「君は強い男が好きなんだろう? ならば、手を抜く理由はひとつもない」
「そんなこと言ったかしら……」
いかにも自分が言いそうなセリフだが、いつ言ったか思い出せない。
「…………」
「まあ、強い人は好きだけれど」
言いながら、アンリエッタは盤面を見据える。
(このままじゃ永遠に勝てないんじゃない……?)
恐ろしい想像をして、思わず首を振った。
「どうして勝てないのかしら」
「……君のクイーンは、自由すぎる」
ダリオンは白のクイーンを見つめる。
「クイーンは自由で最強。戦場の支配者だ。だがその真価は、他の駒と連携してこそ発揮される」
「ふふっ、なんだかクイーンってわたくしみたいじゃない?」
「……ああ」
言いながら、自分が取った白のナイトを見つめた。
「例えば、ルークやナイト……これらの駒と組み合わせることで、弱点を補える」
「しているつもりなんだけれど」
「足りない。もっと、頼るべきだ」
はっきりきっぱり言い切られる。
「……そう言われると、ルークとナイトはあなたみたいね。確かに頼ってみたくもなるし、予想を裏切ってみたくもなるわね」
「君は、本当に自由だな……」
嘆息混じりの声をこぼすも、その表情はどこか優しい。
「――だが、駒に特別な思い入れを持つのは推奨しない。捨て駒にしにくくなる」
「もう、冷静ね。あなたって」
「騎士にとって、チェスは最小の損害で最大の成果を得るための思考訓練だ。余計な情は精度を鈍らせる……ただ――」
ダリオンは盤上にある黒のナイトを手に取った。
「……ただ、現実ならば……私は君のために、あらゆる布陣を崩して動くだろう」
そう言って、白の――アンリエッタのクイーンの前に置く。
敵対ではなく、守るように。
ナイトはL字状にしか動けない。その場所からクイーンは取れない。だが、クイーンからは取れる。縦横無尽に動ける、最強の駒だから。
「ふふっ……そういうことを、言葉にしてくれるようになったのは嬉しいわ」
アンリエッタは黒のナイトの頭を軽くつついてから、盤面を初期配置に戻していく。
「――ねえ、ダリオン。目隠しチェスってしてみたことある?」






