43 父、襲来
ふたりで生きる日々というのは、思っていたよりもずっと穏やかだった。
庭の手入れをしたり、家の模様替えをしたり、キッチンやバスルームの設備を整えていったり、必要な小物をそろえていったり。
冒険者ギルドで依頼を受けたり、アンリエッタが自分で作った猫化ポーションで猫になってしまったり――そんな騒動も含めて、確かに幸せな日々があった。
ふたりで食卓を囲み、チェスを挟んで向かい合う夜。
心が穏やかに満たされる、そんな生活だった。
――その日までは。
同居生活を始めて少したったある日の昼下がり、リビングでくつろいでいたところ、ふと玄関のベルが鳴る。
「あら、お客様かしら?」
――客人なんて珍しい。
出ようとすると、ダリオンがやってくる。
「――待て、私が出る」
その手には剣。
来客対応としては過激すぎる。ここが山奥や夜間ならともかく、ここは街中で、昼間なのに。
「過保護なのよあなたは。わたくしだって、お客様の対応ぐらいできるわ」
「相手は複数だ。武装もしているものもいる」
「ふふっ、もし敵なら返り討ちにしてやるわ」
「衛兵だったらどうする」
「それなら普通に対応するだけよ。わたくし、何も悪いことしていないもの」
――フォールネスの屋敷の件では、何一つ証拠は残していない。
それに、衛兵に剣を持って対応する方が怪しい。
アンリエッタはダリオンを適当にあしらって玄関に向かうが、ダリオンはごく当然のように後ろを歩く。このモードになったら何を言っても離れない。
仕方なく玄関ドアを開けた瞬間――
「アンリエッタ! ようやく見つけたぞ!」
「お――お父様?!」
そこにいたのは壮年の男性。軍人然とした佇まい。風格と支配力を全身から放つ、アンリエッタの父――ジグフリード・アグスティア公爵、その人だった。
後ろに精鋭騎士を何人も引き連れて、堂々とした姿で玄関先に立っている。
(どうしてお父様がここに?!)
国を出たときは父は不在だったので書き置きだけはしていった。だが、どこへ向かうかは決めていなかったので一切書いていない。
なのにどうしていまここに父が。
そしてアンリエッタは痛感した。
(やっぱり偽名を使っておけばよかった!)
冒険者登録するとき、正直に名前を書いておかなければよかった。エッタとかリエッタとかならまだ、ここまで早くは――
はっとして、アンリエッタは振り返る。
ダリオンが、厳しい表情で立っていた。
その視線が、父のアグスティア公爵へと向いているのを見て、アンリエッタは慌てて叫んだ。
「ダ、ダリオン――違うの!」
何が違うのか自分でもわからないまま叫ぶ。
しかしそれが父の逆鱗に触れた。
「何が違う! それで、この男は何者だ? まさか、この男と駆け落ちしたのか――?」
「ち、違うわ! 彼は森で拾ったの……」
「拾った……? 犬猫ではあるまいし……」
呆れを通り越して絶句する父の前で、アンリエッタは目を泳がせながら、開き直って言い切った。
「い、いまは大切な人よ……夜もいっしょのベッドで寝たし……!」
「添い寝をしただけです」
空気が凍った瞬間に、ダリオンがすかさず口挟んでくる。どうして言うのか。ふしだらな娘だと思われたら、そのまま勘当してもらえたかもしれないのに。
「な、ななな、何をっ……!! よくも我が娘に……!! 貴様は処刑だ! そこに立てぇぇぇぇ!!」
父が剣に手をかけるのを見た瞬間、アンリエッタは反射的にダリオンの前へと踏み出した。
「お父様、やめて! ダリオンには何も言っていないのよ! わたくしが勝手に――!」
自分の出自のことは、ダリオンには何も言っていない。
アンリエッタが偶然彼を拾って、恩を着せて無理やり従僕にした。
「ダリオンは何も悪くないの。わたくしが無理やり――」
「アンリエッタ……下がってくれ」
その一言で、場が静まり返る。
前に出たダリオンは、父に向って頭を下げた。
「――私はダリオン・ヴァルフォード。元帝国騎士であり、いまは冒険者として身を立てています。アンリエッタ様には瀕死のところを助けていただき、そこからは護衛として共に旅をしてまいりました」
事実を、淡々と。
アンリエッタは思わずダリオンの袖を引いて、小声で訴えた。
「どうして全部正直に言うの?!」
「隠し立てすることは何もない」
ダリオンは何一つやましいことはないという顔で答える。
「どうしてアンリエッタ様だなんて言うのよ」
「……君は、大切にされている存在だ。ご父君には礼節を尽くすべきだろう」
その言葉で、アンリエッタは何も言い返せなくなった。
そして同時に不思議に思う。
どうしてこの男はこんなに落ち着いているのかと。
「……帝国騎士? 名乗りだけなら誰でもできよう。証拠はあるのか」
「追放された身故、証拠はありません」
ダリオンはまるで恥じる様子もなく、まっすぐに応じた。
「ならば力を見せてみよ! 騎士を名乗るならばその剣で証明せよ!」
「承知しました。場所を移してもらっていいでしょうか」
庭へ移動すると、三人の精鋭騎士たちが円陣を描いてダリオンを包囲した。
小隊指揮官が前に出て――
「構え!」
号令と共に一斉に剣を構え、ダリオンも剣を抜く。
相手は鎧も付けて武装しているが、ダリオンは剣だけでそれに応じる。
取り囲まれた状況で、最初の一撃が繰り出される。
ダリオンは避けなかった。すっと剣を持ち上げ、刃を合わせて受け止める。
金属音が鋭く響いた。
「くっ……っ!?」
一合で後退する騎士。力負けではない。剣筋が異様なほど正確すぎたのだ。
二人目、三人目と続けて飛び込んでくる。が、誰ひとりとして、彼の衣の裾すら掠められない。
ダリオンの動きは最小限。だが、その剣先はすべての攻撃を読むように捌き、受け、制す。
まるで舞だ。
剣を抜いているというのに殺意が一切ない。怒りも驕りも。
(ダリオンって、こんなに強かったの……?)
ダリオンが、剣を持っている相手に戦っている姿を初めて見た。
――次元が違う。
公爵家の騎士は決して弱くない。
なのにまるで生徒を相手にしている教官かのようだ。
「……ふむ。なるほど。確かに、騎士の才はあるようだ」
父がどこか納得したように呟く。
やがて騎士たちは武器を下げた。ダリオンもまた、静かに剣を納める。
「……これで、納得していただけましたか? 公爵閣下」
一瞬の沈黙のあと、父は眉をひそめたまま問い返す。
「……貴様、私を知っているのか?」
――そうだ。父は名乗っていない。貴族であることも、爵位も。
しかしダリオンは平然と続ける。
「その留め具の紋章、レグルス王国のアグスティア公爵家のものと記憶しております。帝国時代、各国の貴族紋章について学ぶ機会がありました」
「そうか……あの地には何度か訪れたものだ」
アンリエッタは言葉を失っていた。
(……そんな勉強していたなんて、聞いたこともないのだけれど!)
家名まで気づいているなんて。
では、もしかして。
「アンリエッタが何者かも気づいておったのか?」
ダリオンは静かに首を横に振る。
「……いいえ。高貴なご令嬢であることは、言動や身のこなしから察しておりましたが……彼女が、自らを語ることを望んでおられないように見えましたので、詮索はいたしませんでした」
その言葉に、父の瞳がほんの一瞬、揺れる。
「貴様……娘を、軽んじてはいないのだな」
「はい。アンリエッタ様は、私の命の恩人であり、心から敬意を抱く女性です」
まっすぐに父の目を見て、落ち着いた声で。
そこにはただ誠意しかない。
(……そんなふうに、言ってくれるなんて……)
胸が熱い。苦しいくらいにドキドキしている。
父はため息を一つつき、アンリエッタの方を見た。
「……最初から話せ。お前の身に何があったのか」





