37 告白
静かになった研究室を眺め、アンリエッタはイムを鞄に戻した。
「あとは領主に任せるわ。えげつないものがたくさん出てきそうだもの」
下手に触れると厄介なものが出てきそうだ。これから先は領主と錬金術師ギルドに任せる。
何が出てこようと、もうアンリエッタの興味をそそるようなものではないだろう。
「わたくしは街を出るけれど、あなたはどうする?」
脱ぎ捨てられた『隠形マント』を拾い、ダリオンに声をかける。
ダリオンは意外そうな顔をしていた。
「なんだか疲れちゃったし、しばらく慌ただしくなりそうだし。適当にどこかに行ってみるわ。ダリオンはどうするの? ちょうどいい機会だし、契約満了サインをしていく?」
アンリエッタは微笑み、ダリオンに問う。
「君を野放しにできない」
――即答。
「そう答えると思っていたわ」
だから、少し嬉しくて、同時に物悲しい。
「わたくしと離れたくないって、素直に言っていいのよ?」
「…………」
ダリオンは何も言わない。アンリエッタから目を逸らし、アゾット剣を鞘に納め、それを腰ベルトに差す。
アンリエッタは肩を竦めた。
「それじゃあ、サインをしなくてもいいわ。この契約書がある限り、あなたはわたくしの情報を他の人に伝えられないしね。――もっと早くこうしておけばよかったわ」
「……アンリエッタ――?」
ダリオンの表情が変わる。
「ここであなたとお別れするわ。さようなら。元気でね」
アンリエッタは『隠形マント』を頭からかぶる。
これでもう、ダリオンにもアンリエッタのことは見つけられない。このまま誰にも見つかることなく外に出る――新しい旅を始める―――はずだった。
いきなりダリオンに腕をつかまれ、アンリエッタは驚愕した。
(見えないはずなのに?! え、嘘? 実は見えてる?!)
いまそれを確かめる方法も余裕もない。
ダリオンの手の力は強く、痛いほどだった。振り払おうにもびくともしない。錬金術で筋力を強化しても、まったく敵わない。
大きな手はまるで縋るように、溺れながら相手をつかむように、鬼気迫るものがあった。
「離しなさい!」
叫んでも、その手はアンリエッタを離そうとしない。
(――命令が効かない?!)
しかし、ダリオンの手はまったく緩まない。
命令には絶対服従――ただし、己の生命を守れる範囲で――。
――アンリエッタが本心から命令していないからか。
それとも、ダリオンが、ここでアンリエッタの手を離せば死ぬと思っているからか。
(まさか!)
どちらも考えられない。考えたくない。
(契約書が不完全だった? そんなわけ――)
それこそ信じられない。有り得ない――
天才錬金術師の錬成が不完全だなんて。
思考は、ぐっと腕を引っ張られた瞬間、途切れる。
何が起こったのかわからず身が竦んだ刹那、アンリエッタはダリオンの両腕に抱きしめられていた。
「……離しなさいってば……!」
もがいて離れようとしても、びくともしない。
ダリオンの胸に顔を押し付けられる格好になり、心臓の鼓動がやけに大きく響いていた。
――それは、自分の音かと思った。
だが――耳元で響く激しい鼓動は、アンリエッタのものではない。
その音からは、動揺や焦り――怯えさえ伝わってきた。
アンリエッタを抱擁する腕は、強く、堅牢で。
身じろぎすらできない。
「……わ、わかった! わかったから!」
たまらず叫んだその時、『隠形マント』を外される。
目が合った瞬間、ようやく安堵したようにわずかに力が弱まった。それでも、ダリオンはアンリエッタを離そうとしない。
「なんなのよ、もう! あなたのことが全然わからないのだけれど!」
外された『隠形マント』が床に落ちていく。
手を伸ばしてもすぐには届かない位置に。
アンリエッタはダリオンを睨む。
ダリオンは振り絞るように言葉を吐いた。
「……君が、勝手に消えようとするからだ……」
ひどく苦しそうに。
アンリエッタを離さないまま、そう零す。
「だったら何よ。わたくしのことなんてどうでもいいのでしょう?」
「誰がいつそんなことを言った」
「言ってなくても態度に出てるの。わたくしはそう感じたの」
「人の気持ちを勝手に推し量らないでくれ」
「違うというのなら、あなたの言葉で言って」
「…………」
ダリオンは何かを言いかけて口を閉ざし、頭を振る。
長い沈黙の後、決心したかのようにアンリエッタを見つめた。
「アンリエッタ……君を忘れることも、離れることも、私にとって耐え難い」
その声はどこか悲しげな響きを含んでいた。
――言葉だけ聞けば、まるで告白だ。
だが、ダリオンのそれは騎士として、護衛として、保護者としての責任感から来るものだ。
義務感から来るものだ。
そのことが、ひどく苦しい。
アンリエッタはもう、それでは満足できない。
「――わたくしは、あなたが好きよ」
自分の気持ちを口にする。
それは、甘い期待など一切含んでいない――決別のための告白だった。
「好きになったの。恋をしたの」
ダリオンの動揺が伝わってくる。
苦しみに胸が詰まりそうになりながら、アンリエッタは続けた。
「いつあなたに酷いことをしてしまうか、自分でもわからない。心を変えるような薬を作ってしまうかもしれないわ。変な命令をするかもしれない――そんなこと、したくなくても」
己の醜い部分を曝け出すことは苦痛だ。身を絞られるような。
だが、こうでも言わないとダリオンは深刻さを理解しないだろう。目の前にいるのは、利己的なで傲慢な錬金術師だと。
ダリオンが思ってくれているような人間ではないと。
「そんな風に心を歪められて、一緒に地獄に堕ちたくないでしょう?」
――これで本当に終わりだ。
自信家で何も気にしない大人の女として去りたかったのに。
こんな幼稚で、愚かで、醜い部分を見せることになるなんて。
手が震える。目許が熱い。
どうして好きになんてなってしまったのだろう。
「アンリエッタ――君が望んでくれるなら、私は、地獄の底までも共にする」






