36 竜の心臓
その白い剣は血に染まることなく。
孤高の美しさを持って、ダリオンの手の中で輝いていた。
ダリオンはアンリエッタの傍で、守るように立っていた。
アンリエッタを閉じ込めようとしていた『錬金術師の部屋』も『執着の紐』も、アンリエッタを捕まえようとしていたフォールネスの右手も、もはや力を失っていた。
(――いてくれたのね)
アンリエッタはダリオンの背中を眺める。
ずっと傍で。
声を上げずに、ずっと。機会を探っていてくれた。
「ありがとう、ダリオン」
素直に感謝を伝える。
ダリオンは背を向けたまま何も答えない。だが、静かに通じるものがある。
「……うまく隠れていたようですね」
フォールネスは苦痛すら見せず、冷たい笑みを浮かべていた。
首を掻き切っても平気だった男だ。なんの影響もないと言いたげだった。
「こんなことで、私を止められるわけが――」
その言葉は途中で途切れる。
次の瞬間、フォールネスの顔から余裕が消えた。
「再生……しない……?」
毅然と呟き、切り落とされた部分に触れる。
ぼたぼたと落ちるのは血ではなく、光を帯びた透明の液体だ。『竜の心臓』から溢れ出すものだ。
その部分は、少し前に彼が得意げに見せたようには再生していかない。
フォールネスは床に落ちていた腕を拾い、傷口に合わせようとする。
しかしそれはどうやっても付着しなかった。
「なんだ、これは――どうして……私の竜の心臓よ! どうした?!」
狂ったように胸を叩くも、何も起こることはない。
彼の表情は次第に焦りと恐怖に変わる。
「――アゾットって概念を知っているかしら?」
アンリエッタは静かに問いかける。
「完全なるもの。始まりであり、終わりであるもの――……」
アンリエッタはダリオンの白い短剣を見つめる。
「その刃に触れたものはマナ変換が阻害されるの。『竜の心臓』が無尽蔵のマナを生み出したとしても、あなたの身体はそれを変換できない――そうなると、行き場を失ったマナはどうなるのかしら?」
これから起こることはアンリエッタにも未知の領域だ。
興味深く眺めていると、行き場のない生命の源がぼたぼたと落ちて床に広がっていく。
「まさか……こんな……こんなことがあっていいはずが……」
「あるのだから仕方ないわね」
理屈がわからないことでも、納得できないことでも。
現象としてそこにあるなら認めざるを得ない。
目の前のことを変えたいと思えなければ、錬金術師にはなれない。
目の前のことを受け入れられなければ、錬金術師は続けられない。
フォールネスの身体が変質し始める。
皮膚が青黒く染まり、筋肉が不自然に膨れ上がり、形を保てなくなっていく。変貌していく。崩れたものへと変わっていく。
「あ……あ、ア……」
傷ついた部分を修復しようと溢れ出したマナが、行き場を失い正常な部分に浸透していく。そこは異常な量のマナを処理しきれず、増殖し、バランスが乱れ、崩壊していく。
――崩壊。
暴力的なマナに耐え切れず、フォールネスの身体がまるでスライムのように溶けていく。
(まさかここまで効果があるなんてね)
アゾット剣を作った時は、ここまで効果的だとは思わなかった。
(ふふっ、とんでもないものを錬成してしまったみたいだわ)
自分の作ったものが、自分の想像以上の効果を見せる瞬間は、なんとも気持ちがいい。
「―――もう、人ですらないわね」
ただの不死の物質が、肉塊が、不気味にうねりながらアンリエッタとダリオンを包囲しようと床に広がっていく。
そこに残っているのは生命への渇望だけで、その姿はいっそ哀れだった。
「永遠の苦しみと、安らぎの死――どちらがお好みかしら?」
問いかけるが、もちろん返事はない。
アンリエッタは微笑んだ。
「わたくしの好みは安らぎの死よ」
フォールネスだったものが迫りくる。
「ダリオン、心臓まで開くから穿ってあげて」
「ああ――任せろ」
【錬金術の極意】――【分解】
いまだに人間の形を保っていた中心部分から皮膚が剥がれ、骨が軋み、肉が溶けるように崩れていく。
フォールネスだったものの中に秘められていた竜の心臓が姿を現す。
それはまるで神具のようで、煌々とした輝きを放っている。
そこから一枚の鱗が伸びていた。おそらく、逆鱗と呼ばれるもの――竜の弱点が。
いったいこの心臓をどうやって取り出し、どうやって身体に埋め込んだのか。
フォールネスから話が聞ければ、きっと楽しかっただろう。
【分解】【分解】【分解】
ひたすら分解していくと、ようやくコアが露わになる。
「いまよ、ダリオン!」
再生する前に。
きっといま再生すればそれはフォールネスではなく、竜の形になる。それは勘弁してほしい。
アンリエッタが口を開くと同時に、ダリオンはすでに動いていた。
躊躇なくアゾット剣を振り下ろし、コアを一撃で貫いた。
そして自らの剣を抜くと、竜の心臓に繋がる逆鱗を破壊する。一切の躊躇なく。
竜の心臓は輝きを失い、完全に停止した――
(――まあ、いいわ)
錬成素材にしようと頭のどこかで考えていたアンリエッタは少しだけ残念に思ったが、生きている竜の心臓なんて、どう考えても取り扱い注意な代物だ。
身に余る力は持たない方がいい。
そんなものなくても、生きるのに微塵も困らない。
静寂の訪れを感じていると、アンリエッタの腰のポーチから、何かが動く気配がした。
『携帯スライムハウス』の蓋を開けてみる。すると、中からイムが元気よく飛び出してきた。
「イム――いいわよ。食べてしまいなさい」
イム――スライムは嬉しそうに、床に飛び散っているものを食べていく。
あっという間に綺麗に片付けられていき。
そうして、すべてが終わった。






