10 ポーション
空気が、鉛のように重くなる。
喜ぶと思っていたのに、ダリオンの表情は完全に固まっていた。
夜の海の色をした目が、突き刺すようにアンリエッタを見つめていた。
アンリエッタは気を取り直し、話を続けた。
「ダリオン、あなたは充分に働いてくれたわ。わたくしはエリクサーであなたの命を助けて、あなたは竜に黒焦げにされるかもしれなかったわたくしを助けた。だからもう充分よ」
「……充分?」
「ええ。ですからここでお別れして、あなたはわたくしのことを忘れるの。そうしてお互いに新しい人生を歩みましょう」
アンリエッタは『運命の契約書』とペンを取り出す。
「さあ、契約書のここにサインをして。血判でもいいわよ」
「…………」
ダリオンは、ペンを手に取ろうとしない。
「……どうしたの? ――ああっ! 竜を倒したことを忘れるかもしれないから? それは大丈夫だと思うわ。倒した瞬間は、そこにいたのはあなたと竜だけだったでしょう? 前後は忘れるでしょうけれど、そのうち記憶が補完されて違和感がなくなるわ」
『運命の契約書』の効果は絶大だ。忘れることが条件に入っているのなら、確実に忘れる。
そして、記憶というのは案外曖昧なものだ。不都合な部分は綺麗に補完されていくだろう。
少々違和感があったとしても、いつかそれも気にならなくなるはずだ。
「不安なら、竜素材で何か作る? 竜殺しの証拠になるようなものを――」
「断る」
ダリオンは、はっきりと言い切った。
「いまは、君から離れるつもりはない」
「……どういう意味?」
「いまのまま君を野放しにすれば、大変なことが起こるとわかりきっている」
「人を災害みたいに?!」
「同じようなものだ。君が一般常識を身に着け、生活基盤が整うまでは見届ける」
硬い声で言い切る。
その決意は魔水晶よりも堅そうだった。アンリエッタでも砕けそうにない。
「真面目ね……別にいいけれど」
これも騎士の性質なのだろうか。真面目で責任感が強い。
自分の仕事は護衛だと思っていることも影響しているのだろうか。
(いいけれど……この場合、ダリオンがいま以上の働きをすると、わたくしの方が報酬を支払うことになるわけ?)
――ダリオンは、エリクサーの代金分は既に働き終わっている。
つまり、今後ダリオンが働けば働くほど、アンリエッタも報酬の支払いのために働かなければならない、ということだ。
アンリエッタは錬金術師なので、金だろうと銀だろうと錬金術で生み出せるが、さすがに貨幣そのものを錬金術で作るのは抵抗がある。貨幣偽造はどこの国でも犯罪だ。そんなものをダリオンは受け取らないだろう。
「……いいけれど、早い方がいいわよ。わたくしのことを知れば知るほど、忘れるのが耐えがたくなるだろうから」
「それはない」
「わからないでしょ?!」
――もう怒った。
何なのだろう、この男。わけがわからない。
男心なんて前世でもよくわからなかったし、いままでもよくわからなかった。
しかし、この男の読めなさはいままででも一番だ。
アンリエッタはダリオンに背を向け、強く拳を握り込んだ。
(なんなの、この男。何なのこの頑固さ。何がしたいの? こうなったら、恩を売りまくってやる。そうして最後、清算時にお互い様ねって言って、笑って去ってやるんだから!)
決意を新たに憤怒していると、背後からダリオンが声をかけてくる。
「念のために訊くが、身分証は持っているのか?」
「ないわね」
生まれてこの方持ったことはない。
もしあったとしても、公爵令嬢時代の身分証なんて使えるわけがない。
「ならば、街に入るときに門で通行料を支払うことになる。これは、街を出入りする度に必要になる。覚えておいた方がいい」
「身分証ってどうやれば作れるの?」
振り返って問う。
「一番早いのは冒険者ギルドに所属することだ。登録料を支払う必要があるが」
「何でもお金がかかるのね。お金を稼ぐ必要があるわね……」
国を出てくるときにいくらかは持ってきているが、生きているだけで消えていきそうだ。このままではすぐになくなるだろう。
金だろうと銀だろうと錬金術で生み出せるが、さすがに貨幣そのものを錬金術で作るのは抵抗がある。貨幣偽造はどこの国でも犯罪だ。
「……君は思っていた以上にお嬢様らしい」
「あら? わたくしから溢れ出る魂の高貴さに気づいてしまったようね」
「いままで金銭面で苦労したことがないのがよくわかる」
その通りだが、言い方が腹立たしい。
「では、人生経験豊富な元騎士様、教えてくださる? お金の稼ぎ方を」
「……冒険者ギルドで簡単な依頼を受ければ報酬が得られる。アイテムの採取や納品……モンスターの討伐……他はギルドからの依頼などだ」
「アイテム納品……回復ポーションとかでいいかしら。冒険者ギルドなら使いそうだし」
「そうだな。そのような依頼もある」
「なら、先に済ませておきましょう」
マナの豊富なこの場所で。
【錬金術の極意】
――サブスキル発動――
【即興レシピ】【大量生産】【品質向上】
アンリエッタの手のひらが淡く輝き、透明なガラス瓶が次々と現れていく。
瓶の中に、澄んだ青色の液体が満たされていく。
空中に浮かぶそれらを一本ずつ手に取り、腕に抱えた。
「できたわ、ポーション。とりあえず10本作ってみたけれど、これで大丈夫かしら?」
出来上がったポーションをダリオンに見せる。もちろん品質は最上級。文句のつけようがないはずだ。
ダリオンはその鮮やかな青色を眺め、渋い顔を浮かべた。
「……君は、自分の能力にかなりの自信があるらしい」
「ええ、もちろんよ」
「それ自体は素晴らしいことだ。だが、それを人前で披露するのはやめておいた方がいい」
「どうして?」
「自分の能力はできるだけ隠しておくことが望ましい。相手にとって、何をするかわからない相手ほど恐ろしいものはないからだ」
ダリオンは真剣な声で続ける。
「君は素材もなく、器材も準備もなく、あっという間に錬成してしまう。それは普通の錬金術師ではない。ありえないことをしている自覚を持ったた方がいい」
「なるほどね……わかったわ」
ダリオンの言うことはもっともだ。
手の内が見えない相手ほど対処が難しい。
逆に、わかっていればいくらでも対策の立てようがある。
「わたくしは、か弱い美女だもの。そう侮って食い物にしようと近づいてきた相手を返り討ちにする……その方が効率がいいわよね」
「君はまるでトラップ型のモンスターのようだな。さながら食人花か」
「言い方! そんな花に例えられたのは初めてよ! わたくしを例えるなら薔薇! ちゃんと覚えておいて!」
ダリオンはため息をつく。
「やはり、しばらくは目を離せそうにないな」





