白い奇蹟⑥
絵里香は目を瞑っていた。
ただ固く、瞼を閉ざしていた。
そして、そんな絵里香は、白い、ただただ白い、そんな世界を見ていたのだ。
ざーっという、ホワイトノイズのような音が聞こえる。
匂いは特に感じないかな。味も同じく。
辺りには肌に纏わりつくような、とても粘度の高い空気が満ちていて。
そう、共有された悟の五感を、そのまま自分の五感として絵里香は感じていた。
悟の見たまま、感じたままを、そのままに見て、感じるために。絵里香は自分の五感を、できうる限り閉ざしていたのだった。
『この辺りじゃなさそうだな……』
悟の呟きが聞こえる。同時に、白い空間を掻き分けるようにして、悟が歩き出す。
――どくん。
身体に纏わりつく、白い空気が重い。肌がひりついている。凄まじく強大なエネルギーがそこに満ちている。そのことが、離れているはずの絵里香にも伝わってくる。
――どくん。
歩みを進めるごとに、周囲の白さが増している。纏わりつく空気の粘度も同じく上がっている。
――どくん。
白が白すぎて、とてつもなく眩しい。まるで光だ。
悟が目を細めているのが判る。そうして、ほんの少しだけ見えた、その光は。その姿は。
――どくんっ!
目の前の空間に浮かぶ、少女の姿をしていた。
両手両足を大の字に開いて浮かんでいる光の少女。それはまさしく。
「緋色っ!」
絵里香が叫ぶ。だけど、その声は伝わらない。緋色にも、悟にも。
それが当然のことであることを、絵里香は悟の声で思い出した。
『真野さんっ! ……緋色さんっ!』
叫ぶように語り掛ける悟。だけれども。
少女のような光から反応はない。
無視しているという風ではない。まるで気付いていないかの様に見える。
『まずいな』
緋色に語り掛けるでもなく、もちろん絵里香へと告げているのでもなく、悟が独り言ちる。
『白に取り込まれてしまっているみたいだ。緋色さんの思念が感じられない』
「それって、どういうこと?」
『取り込まれかけている。このままじゃ、白に溶けてしまう。緋色さんが消えてしまう』
「そんな! どうにかならないの?」
『どうにかできるのか、僕にはわからない。でも、どうにかしなきゃ』
なんだか会話が成立しているように聞こえるかもしれないが、これはあくまでも悟の独り言のはずだ。
だって絵里香の声は伝わっていないのだから。
『……よし!』
心を鼓舞するように一声挙げて、悟は光の少女を抱擁した。いや、飛びついて、しがみついたと言った方が適切かもしれない。
『ぅ、ぐぅ。……緋色さん! 目を覚まして、緋色さん!』
強烈な白い光。その猛烈なエネルギーが悟の肌を焼き焦がす。怪人の肌だ。ちょっとやそっとのことでは傷つけることなんてできない。そんな強靭な肌であっても、その白い光は容赦なく焼いていく。
「ぅ、うぅ」
絵里香の右腕が、左腕が、ささやかな両胸までもが。悟の感じる苦痛を、同じように感じ取っていた。嗚咽が漏れる。あまりの痛みに、固く閉じた瞼の隙間から涙がにじむ。
『くっ、僕の声じゃ届かないっていうのか……』
「緋色……」
『…………』
「ううぅ」
『……………………』
「……響木くん?」
悟が口惜しげな声をあげて、それから。
ほんの少しではあったのだけれど、苦痛の続く中で無言の時間が流れていた。もちろん、絵里香の声は届いていない。
『……よし』
おもむろに。何だか思いつめた悟の声が、絵里香へと伝わってきた。
『本村さ……絵里香さん! これから感覚共有の向きを反転させます。こちらの様子は見えなくなっちゃうと思うんだけど……絵里香さんの声がこっちに伝わってくるようになるはず。だから、絵里香さんの声を、緋色さんに届けてあげて』
……そんな手があったんだ。
そんな手があるんなら、早くそうしたらよかったのに。そう絵里香は思ったんだけど。
『本当は、感覚共有の反転なんてやりたくなかった。絵里香さんの声だけでなくて、視覚や聴覚、他の感覚も僕に向かって流れてくるし』
当然そうなるだろう。絵里香だってそう思う。
これまでも、たった今もなお感じ続けている悟の五感のことを思えば、絵里香の五感が悟へと筒抜けになるに違いない。
なんだか恥ずかしい気はするけど、そうも言っていられないよ。うん。
『……それと一緒に絵里香さんの生体エネルギーまで吸い取ってしまうことになるんだ。それも、かなり強烈に……。だから、あんまり長い時間は維持できないと思う。たぶん数秒、長くても十秒くらいが限界じゃないかな』
「……えぇ」
そうか、すっかり忘れていたけど、彼にエネルギーを吸われるのが、そもそもの問題だったんだ。と、絵里香は思い出した。
……大丈夫なのかなぁ。
なんて迷っている余裕は、どうやら無いらしい。
『残念だけど、僕の声じゃあ、緋色さんに伝わらないみたいだから。だから、絵里香さんの力を貸して。いくよ!』
「え、もうなの?」
『……三、……二』
「ちょっと、待って……」
『……一』
「まだ、心の準備が……」
『ゼロ』
と、絵里香の視界を暗闇が包んだ。
同時に、両腕に、胸に感じていた苦痛が、すうっと消えていく。
絵里香が瞼を開くと、目の前には白い巨大な球体が浮かんでいて、その一部から黒い靄が細く長く絵里香の足元へと伸びていた。
そして。
絵里香の身体から、急速に力が抜けていく。相当に気合を入れていなければ、一瞬で意識を持っていかれそうな勢いだ。
なんだかんだと迷っている暇なんてない。否も応もなく、それを感じさせられた。
二秒……三秒……
……そうだ、緋色!
吸い出されていく力に意識を持っていかれそうになりながらも、今やるべきことを絵里香は思い出す。
四秒……
「緋色っ! 聞こえる? 緋色!!!」
一方通行の感覚共有が、緋色の様子を伝えてくることはない。
それでも今、絵里香にできることは呼びかけることだけだ。
五秒……
「緋色! ねえ、覚えてる? 採石場で特訓したよね」
六秒……
「緋色! 初めての変身のとき、泣きべそかいてたよね」
七秒……
「ひい……ろ……」
絵里香の意識が一瞬、飛んだ。
まだ十秒も経ってないはずなのに。やばい。
八秒……九秒……
「……ひいろ、会いたいよ、緋色……」
もう言葉も出ない。何の感覚もない。
意識を保つこともできない。
十秒。
ねずじゃーの少女が崩れ落ちる。
時を同じくして。
白い球体から伸びていた黒い靄が、少女の足元から忽然と消えていった。




