白い奇蹟⑤
ねずみ色の学校指定ジャージ、通称ねずじゃーの少年と少女が、巨大な球体へと近づいていく。悟と絵里香である。
巨大な球体は、さっきまでは白黒のマーブル模様であったはずが、ほとんど白一色としか呼べない様になっていた。
ねずじゃーの二人は、並んで球体へと向かっていた。
絵里香は、そのつもりだった。でも。
気付くと、悟が半歩、いや一歩先を進んでいる。そう思っている内に、もう三歩、四歩と差が開いてしまっていた。
「え、ちょっと待って。悟くん、置いていかないで」
少年は振り向いて手招きをしていた。
『はやく!』
そんな風に口が動いている。だけど。
絵里香には、その声が聞こえない。一生懸命、少年のもとに行こうとするのだけど、どうにもそこまで辿り着けない。
……どうして? 必死に脚を動かしているのに。その筈なのに。
でも、実際のところ、絵里香の脚は動いていなかった。心は『進め』と指示を出しているのに、身体がその指示を受け付けない。
「どうして? 何で行けないの?」
そんな言葉は唇からこぼれ出るというのに。どうにもこうにも、絵里香の身体は言うことを聞いてくれなかった。
「まったく、蛇に睨まれた蛙とはこのことか」
「いや、それをお前が言うのか? 蛇目頭よ」
絵里香の斜め後ろから声が聞こえる。聞き覚えのあるその声の主は、蛇目頭と六郎だった。
二人ともすっかり変身が解けてしまっていて、蛇目頭の紺色のジャージも、六郎の白衣も、全くもって、ボロボロだ。六郎のサングラスに至っては、ピシッとヒビが走っている。
そんな二人も、声は出るものの身体が動かないようであった。
「どうやら、君も我らと同じようだね」
振り返った絵里香と六郎の視線が合って、瞬時に状況を把握されてしまったらしい。
「どうして? 体が動いてくれないのは、どうしてなの?」
「我らが蛙ということだよ」
「え?」
「蛙だけではない。兎だろうと、鼠だろうと、虫であろうと、天敵を前にした生物はその身体が硬直してしまうものだから……」
「だから?」
「あの球体の中にいる何者かが、我らの天敵だということだ。同等の力を持たねば、近づくことさえ適わないようだ」
……そんな。
クリスタルを持たない絵里香では近づくことさえできないなんて。
あの球体に近づけるのは、この場で悟だけ。そういう事なのだろう。絵里香は、蛇目頭は、六郎は、それを身体で理解させられてしまっていた。
口惜しい。
そこに緋色がいるのに。
そこで緋色に危険が迫っているのに。
それなのに。
何もできない。
足元に視線が落ちる。
絵里香の口からは、何とも言えない嗚咽がこぼれた。
「ねえ、どうしたの? 急がないと」
いつの間にか、悟が戻ってきていた。
「ごめん、私行けない。ここから先に進めないの」
口惜しさと、自分への怒りと、悟への申し訳なさと、緋色の心配と。とにかく色んな感情が、ごちゃ混ぜになってしまって、何とも情けない声が絵里香の口から漏れ出してきた。普段の絵里香ならありえない。そんな声色であった。
「…………」
少し考えこんでいた悟が、おもむろに人差し指を立てた。
「こうしてみたら、どうかな?」
人差し指を立てた右手の、ねずじゃーの袖口から、おもむろに黒い靄が溢れてきた。垂れ落ちた靄は、地面を伝って絵里香の方へと這い寄ってくる。じわり、じわり。
その靄が絵里香の足元に触れた瞬間、彼女の五感が急に広がったように感じられた。この感覚は知っている。ついさっき経験した悟との感覚共有だ。
「どう、見える?」
「……うん」
「これなら、身体が動かなくても真野さんのところへ行けるんじゃない?」
「……たぶん」
「よし。それじゃあ、行くよ。そのまま動かないで」
二重に聞こえる悟の言葉に、絵里香は黙って首肯した。
ほぼ白一色に染まった巨大な球体に、ゆっくりと近づいていく。
一歩、二歩と近づくごとに、その球体から強大なエネルギーが放射されていることを絵里香は感じていた。悟の五感越しであるにもかかわらず、だ。
悟の足元、ねずじゃーの裾から、黒い靄が細く後方へと伸びている。この靄を通じて、絵里香と悟は繋がっているのだ。
『ふう』
悟の声が、まるで自分の声であるかのように聞こえる。声だけでなくて、その他の五感も共有してしまっているから、球体へと近づいていくだけで、ひどく疲労していることまで感じ取れてしまう。
『それじゃあ、侵入するよ。いい?』
「わかったわ。お願い」
そう言って息を呑む絵里香。
『……とはいっても、本村さんの声は聞こえないんだけどね。この能力は一方通行だから』
……おっと。
てっきりお互いに共有し合っているものと思って、緊張していたのに。ちょっと拍子抜けしてしまった。でも、なんだろう。
なんだか、悟の言う「一方通行」が気になったのだけれど。
――むにゅり。
それは、悟が球体に押し入っていく感触に押し流されて。
すぐに絵里香の意識の奥へと押し流されてしまっていた。




