シスターのように
眩しい光に、ぎゅっと閉じていた瞼を、スカーレットはゆっくりと開いた。
押していたはずの黒い壁が遠ざかっている。シアンの変身の光が黒い壁を抉りとっていたのだ。もう二度目だから、これは思っていた通りだ。だから今度は『前にならえ』にならずに済んだ。
――どさり。
左手の方から大きなものが倒れたような音が聞こえた。
スカーレットが視線を巡らすと、そこには。今度は、壮年の男性が倒れていた。先ほどのクレープ屋のおじ……おにいさんのように見知った顔ではなかったけれど。戦闘員の変身が解けてしまったのだろう。
ふと気になって、倒れていたクレープ屋のおじ――この件、しつこいから今後はクレープ屋でいいかな――クレープ屋の方を見た。彼は、他の戦闘員に脇を支えられて、壁から離脱しようとしているところだった。
……よかった。
安堵の息を吐くスカーレット。ふとクレープ屋と目が合った。
――ぐっ。
親指を立てて激励を送るクレープ屋に頷きを返して、スカーレットは再びシアンの隣に向かって走り出した。
シアンの横へと辿り着くまでに時間はかからない。距離にして二メートル弱でしかないから。
「よし」
シアンが向かう、その行く手の傍で黒い壁を支えようと、スカーレットは気合を入れた。入れたんだけど。あれ?
スカーレットには、シアンの動き出す気配が感じ取れなかった。
「……はぁ、はぁ、はぁ」
耳に入った荒い吐息にスカーレットが振り返る。そこにはシアンがいた。
薄水色のナース服、白い少し厚手のパンストにローヒールのナースシューズ。今ではほとんど見られないという看護帽に首から下げた聴診器。ナース服がミニ丈なのも、銀縁メガネをかけているのも、シアンのイメージの産物なんだろう。もちろん、やっぱり巨大なんだけど。
そんな巨大な看護師が、息も絶え絶えに、ようやく一歩を踏み出そうとしていた。
「ねぇ、シアン……」
声をかけて駆け寄ろうとしたんだけれど、スカーレットのそんな希望は叶わなかった。もう黒い壁が蠢き始めたのだ。シアンを守るべく、黒い壁を押し留めにかかる。
「ねぇ、一度退いた方がいいんじゃないの?」
壁を押したまま聞くスカーレット。黒い壁に押し付けられた豊かな胸が、ぐにゅりと潰れている。
「はぁ、はぁ。大丈夫だから……はぁ、はぁ」
シアンのその吐息が、一段と荒くなっているように聞こえる。全然、大丈夫じゃない。
「やっぱり一度やり直そうよ」
「……まわりを見渡す余裕があるかな? 見える範囲でいいから見てみて。はぁ」
そんなシアンの言葉に、スカーレットは首を大きく巡らす。そこには。
二度に渡る再変身の光を浴びて、新たに二人の戦闘員が変身を解かれ倒れていた。蛇目頭も怪人化した姿がすっかり無くなって、その禿頭が露わになっている。
「蛇目頭様、下がってください」
「いや、まだ行ける」
新たに補充された戦闘員と蛇目頭の、そんなやり取りが僅かに聞こえてくる。
「くっ、壁を支える戦闘員が足りん。俺も行く。お前が指揮を執れ!」
六郎が変身の解けたクレープ屋に向けて叫び、黒い壁を支えるために駆け込んでくる。
変身のかけ声をかけるのだけれど、六郎のその身体は、まだらに半分ほどしか怪人化できていない。
変身の出来ないムジークは、黒い壁の外側で運び出された元戦闘員たちの介抱に奔走している。
すでにみんな満身創痍といった風体だった。
「……はぁ、はぁ。もう一度やれるだけの余裕なんてないの。だから……大丈夫」
「シアン……」
何か言いたくて口を開くのだけど、そこから次の言葉が紡がれることは無かった。
言いたい気持ちはあるのだけれど、それ以上に何か言葉にできることを思いつかない。シアンが無理をしていることが判るんだけれど、それを止めるだけの言葉が出てこない。今のこの気持ちを表現できなくて。
スカーレットはぎゅっと目を瞑った。
「……ふぅ、ふぅ」
看護師姿のシアンがようやく壁の最奥まで辿り着く。呼吸が荒い。
それでも。もう一度変身すべく、気力を振り絞って、その両手を胸の前へと持ち上げる。右手と左手の指を交互に合わせて、組んだ両手から三度光が溢れ出て。シアンの唇が動く。
「……リ・フォーミュラ」
この突入の前、スカーレットが黒い壁を見渡した時に、その厚みはざっと五メートルほどだったはずだ。壁を前にしたシアンの最初の変身、それから二度の再変身。一度に一メートル半ほど、合わせて四メートル強ほどは掘り進めてきたと思う。だから。
……この変身の光で壁を抜けられる。
スカーレットがそう思ってしまったことに、何の不思議も無いだろう。
光が薄れていく。
スカーレットの閉じた瞼越しに感じていた光がなくなって、両手に、豊かな胸に感じていた壁の硬い感触も無くなっている。ゆっくりと閉じていた眼を開くと。
スカーレットが押し留めていた壁は、思っていた通りに遠ざかっていた。
「よしっ」
さぁ、これで壁を抜けた。シアンの負担もこれで終わる。そんな想いとともにスカーレットがシアンの方を振り向いて――愕然としてしまうのは避けられない事だった。
スカーレットの目に入った光景は。
――黒地に白いレースを縁取った女中服姿のシアン。もちろん巨大であることは言うまでもない。
――変身が解けて倒れ込む、戦闘員だったおじさんが二人。
――そして、黒い壁を抜けてラウタートンが見える空間がそこに……広がっていなかった。
もう、これまでの表現で想像できていただろう。シアンのその先には、まだ黒い壁が続いていた。
「そんな……どうして……」
そんな言葉を発するつもりなんてなかったのだけど、無意識のうちにスカーレットの口からは嘆きの声が溢れだしていた。
――がくん。
女中服姿のシアンが膝から崩れ落ちていく。
両手を胸の前で組んだまま跪くその姿は、何だか神に祈りを捧げる修道女の様な、荘厳な美しさを漂わせていた。




