放っておけない
――白い。
目の前がただ白い。
スカーレットがその腕で、その胸で押さえていたはずだった壁の固さを、何故だか、まったく感じない。
やがて。
周囲を覆っていた白が、いつの間にか碧に変わっていて。そして消えていった。
スカーレットの目の前に、再び黒い壁が現れる。でもその壁は先ほどまでより、ずっと先の方にあった。壁を押していた両腕が支えを失って、前方に突き出されている。まるで前にならえ(最前列を除く)だ。基本的に緋色はいつも最前列だったから、だから。今の、この姿勢がちょっと新鮮であったのは、ここだけの話。
そんな風に、前にならった腕がスカーレットの視界に入る。そしてその両腕は白く光っていた。いや、腕が光っていたというと語弊があるかもしれない。両腕の表面を、光の膜のようなものが覆っていたのだ。その膜はスカーレットが認識すると、すうっと薄くなって、すぐに認識できなくなってしまった。
……今の、何なんだろ。
「――うぅっ」
スカーレットの右手の方から、呻き声が聞こえてきた。
見下ろすと一人の男性が倒れている。呻いた拍子に姿勢が変わって、その顔がスカーレットにも見えるようになる。
……え!
見覚えのあるその顔は。
「クレープ屋のおじさん!」
「……おにいさんと呼んでくれよ」
倒れ込んで呻いてはいても、そう返せるくらいには元気があるようだ。よかった。
「どうして、こんなとこに?」
「もう分かってるだろ。俺は秘密結社の研究者で、戦闘員だって。うっ……」
「そんな……どうして……」
「君たちの変身の光に包まれると、エネルギーを吸い取られてしまうみたいだな」
いや、スカーレットが聞きたいのは、そういう事じゃないんだけど。それでも、おじ……おにいさんは続ける。
「君は平気みたいだね。けど、俺たちのエネルギーはばっちり吸われてしまうみたいだ。ほら、あっちも」
そう言ってあごで指す先には。もう一人倒れ込んだ人物――こっちは女性のようだ――と、身体の左半分の変身が解けかかっている蛇目頭がいた。
そしてその近くには。
シアンが佇んでいる。
黒いヒールに黒いパンスト。紺色のタイトスカートの臀部が女性らしい丸い弧を描いて。スカートと同じ色のジャケットは身体にぴたりとフィットしている。白いブラウスの襟元には淡い青緑色のスカーフが巻かれていて。まるでCAさんのようだった。
もちろん、言うまでもなく、やっぱり巨大なのだけれど。
そんなシアンが、閉じていた瞼をゆっくりと開いた。それから胸の前で組んでいた両手をゆっくりと解く。先ほどまでよりも、さらに奥まで円く抉れた空間となった、黒い壁の中。そこを進もうと、黒いヒールを鳴らして踏み出していく。コツコツ。
そんなシアンの動きに合わせるかのように、また、黒い壁が蠢き始めた。
「スカーレット。君はシアンの横に付いていなきゃいけない。彼女をその近くで助けられるのは君だけ、そんな気がするんだ」
クレープ屋のおじ……おにいさんが、声をかけてくる。自分はまだ倒れ込んだままなのに。
「おじ……おにいさんはどうするの? まだ動けるようには見えないよ」
「そんな気にしてる場合じゃないだろ。今シアンがやられたら、君も、俺も、他のみんなも結局潰されて終わりだ。だから……いけ!」
確かに。彼の言う通りかもしれない。
でも。目の前で倒れている人を置いていくなんて、スカーレットには考えられなかった。
それなのに、彼は行けという。その言葉が、なんだかスカーレットの双眸を潤ませる。
「だって、放っておいてなんて行けないよ」
「それでも、だ」
自分の身も顧みないで、とっても真摯な眼で、まっすぐに訴えてくる。そう感じて、いっそうスカーレットに熱いものが込み上げてきた。鼻の付け根がムズムズする。視界がじんわりと滲みはじめる。
「――早くっ!」
「は、はいっ」
怒声に近い、強い声に背中を押されて。スカーレットは、おずおずとその場を離れる。
「行ってきます! おじさん」
……やっと行ったか。
ふう、と息を吐く青年。
……まったくなんで俺なんかに気を取られてるんだ、そんなんじゃ、俺もみんなも一緒に仲良く全滅だろうに。
そんな風に考えていたなんて、だから実はとっても焦って真顔になっていただなんて。スカーレットには知る由もなかった。
さて、しかし。
……俺はおじさんじゃない、おにいさんだ!
それだけは言っておきたい青年だった。
――ざわっ。
蠢きだした黒い壁。背筋が寒くなるような、生理的に受け付けない嫌な動きだ。そんな壁が、右から左から、シアンめがけて押し寄せ始める。
――がしっ。
シアンのすぐ左隣まで迫っていた壁が押しとどめられる。
「お待たせ。今のうちに行って!」
スカーレットがすぐ傍までやって来ていた。
両腕だけじゃ足りない。豊かな胸が、ぐにゅっと潰れるほどに押し付けて。スカーレットは黒い壁を押し返そうと踏ん張っていた。
「ああ、急いでくれないか。今のうちだ」
今度は右手から声がする。蛇目頭だ。左半身の変身が解けかかっているというのに。まだ怪人の姿を保っている右半身を使って、シアンの右から迫る黒い壁を抑え込もうとしていた。
「右列残二名、左列残二名、共に突入。HアインとHツヴァイからの増援もそれぞれ二名突入せよ!」
続いて後方から声が響く。もちろん六郎である。いつの間にかHアインとHツヴァイからの増援までも手配していたらしい。実に優秀だ。
黒い壁に開いた円い通路へと飛び込んでいく戦闘員たち。先に飛び込んで壁を押さえていた戦闘員たちを追い越して、スカーレットの、蛇目頭の横に並んで、黒い壁を押し始める。
スカーレットが、蛇目頭が、戦闘員たちが、共に力を合わせてシアンの進む道を確保していた。
スカーレットは、何だかとっても、何とも言えない一体感を味わっていた。緋色は帰宅部だったから、チームで一丸になって何かと戦うって経験が無かった。だからかな。秘密結社との共同戦線に、何だかとっても、何とも言えない充足感を感じていたんだ。敵だったはずなのに。
黒い壁を必死に押しながら、そんなことを思っていた。そんなタイミングで。
――ぴかー。
ふたたび、光が押し寄せてきたのだった。




