羽根と、壁と、ドーナツと
――ふわり。
漆黒の羽根が、ゆっくりと宙を舞った。その表面は、濡れそぼった黒髪のように艶めいていて。表に、裏に、くるりくるりと宙を漂う。
――ゆら、ゆら。
漆黒の羽根が揺れる。宙を、ただ漂うように。
――ゆら、ゆら、ゆら、ゆら、ゆら、ゆら……
漆黒の羽根は一枚だけではなくて。漂っていた羽根の右にも、左にも揺れていて。上にも、下にも、奥にも、手前にも漂っていた。
――ゆら、ゆら、ゆら、ゆら、ゆら、ゆら。
――ふわ、ふわ、ふわ、ふわ、ふわ、ふわ。
実に、その辺り一面で漆黒の羽根が揺れていて。その辺り一面を埋め尽くすように漆黒の羽根が漂っていた。
「これは……」
ようやく、ムジークが声を絞りだす。
繭のように、卵のように、ラウタートンを覆っていた無数の黒い羽根。それがムジークの眼前に浮かんでいて。ラウタートンを中心に、その範囲を拡げていく。じわり。
漆黒の羽根に埋め尽くされた空間は、ラウタートンを囲むように、ドーナツ状に広がっていく。じわり、じわり。
もうその頃には他の面々も、その異常で、異様で、面妖な事態に気付いていた。
「ちょっと絵里香。なんなの? アレ」
「わかんないよ。でも、なんかヤバいってことは判る」
スカーレットが問い、絵里香が答える。いつものやり取りなんだけど、いつものテンションじゃない。
――ひやり。
二人の背筋に、一筋つめたいものが流れ落ちた。それは冷や汗だった。
「退け、蛇目頭! 呑まれるぞ」
「……! ちぃっ」
六郎から警告が飛ぶ。まだぼやけたままの右腕を庇いながら、とっさに退く蛇目頭。先ほどまで蛇目頭が立っていたそこは、もう漆黒の羽根に埋め尽くされていた。
「隊長、我々はどのようにすればいいのでしょうか」
「……」
Hツヴァイの戦闘員が、リーダーの戦闘員へと質問を投げかける。
だが、リーダーは答えることができない。それはそうだ。こんな状況なんて想定していないんだから。
ほんの目と鼻の先まで迫る黒い羽根。視界を埋め尽くすほどのそれは、もう黒い壁としか思えない。じりじりと迫ってくる、そんな黒い壁に気圧されて、リーダーはHツヴァイへ、壁から一定の距離を取って下がるよう指示を出す。いや、下げざるを得なかったのだった。
「あれはラウタートン、なのか?」
漆黒の羽根で埋め尽くされた、黒い壁の向こう側。ちらり、ちらりと、ほんの少しだけ見えている姿を捉えて、ムジークが吃驚する。
これまでのラウタートンから、また二回りほども大きくなっていた。目測なので、およそ正確とは言い難いが、三メートルを大きく超えているのは確実だろう。吸収した魔法少女のエネルギーは、それほどまでに強力だったのか。それに何より、白い肌の一部を覆っていた漆黒の羽根、その内の一部が鮮やかな青に染まっていたのだ。漆黒の中、まばらに散った鮮やかな青い羽根。それは、魔法少女の纏う色そのものだった。
「しかし……このままではジリ貧、か」
ムジークが誰にともなく口にしたそれは、ラウタートンを囲む魔法少女の、怪人の、戦闘員たちの総意でもあった。
とにかく、ラウタートンへ近づかなければ話にならない。目覚めさせてしまった以上、エネルギー吸収が再開するまでの余裕はさほどない。ムジークの脳裏には、そんな考えが浮かんでいた。
「ムジーク様、私に行けとお命じください。いま一度、汚名を雪ぐ機会を」
蛇目頭がムジークの傍らに跪く。その右腕には黒い靄が纏わりついていて、未だにぼんやりとしている。そんな右腕を庇ってはいるが、大蛇の如き眼は爛々と燃えていた。爛々とは言っても、やる気に満ちて光り輝いている、といった風ではない。濁りきった沼の奥から強烈なサーチライトを照らしたかのような、黒煙の奥で焚火が燃えているような、そんな何ともいえない暗い光だった。
変身していない、否、できないムジークと、変身してはいても跪いている蛇目頭。同じほどの高さで、二人の目線が合う。
……いや待て。
ムジークはそう言いかけて、でも言葉にできなかった。ラウタートンを目覚めさせたのは自分だとの負い目を、蛇目頭は感じているのだろうか。作戦の責任はムジークにあったし、直接命じたのもムジークだ。しかしそれでもなお、蛇目頭は自分の責だという。無理に止めても、この件をずっと引きずるやもしれない。それならば――
「……分かった。まずは、あの黒い羽根の壁がどのようなものか突き止めてみせよ」
「はっ! この身に代えましても」
蛇目頭の濁ってしまっていた眼に、ふたたび澄んだ光が灯った。
黒い壁を目の前にして、蛇目頭は立ち止まった。壁は近くで見ると、無数の漆黒の羽根が揺らめき、漂っているのだと判る。
「私たちにも何かできること、ないかな」
蛇目頭のすぐ後ろから、スカーレットが声を掛ける。もちろん絵里香も一緒だ。振り向こうとする蛇目頭の頭越し、その先の様子を見渡すために、スカーレットは視線を上げた。
まず目の前に広がるのは黒い壁。その壁が丸く弧を描きながら左右に伸びている。おそらくは円形に広がっているんだろう。その壁は五メートルほどの奥行きを持って、その先がすっぽりと抜け落ちている。つまりはこの壁、上から見下ろすとすると、ドーナツのような形状に広がっているようだった。
この黒いドーナツ、差し渡し二十メートルを超える大きさのようである。高さは、スカーレットが上から奥を覗けるくらいだから、二メートル半程度か。蛇目頭だとすっかり視界を遮らてしまいそうだ。羽根の隙間から、ちらちらっとしか奥が見えないに違いない。
その壁の奥、すっぽりと空いたドーナツの芯。その空間に、ラウタートンがいた。
目覚めたばかりだからか、まだその動きは緩慢だ。でも、どう見ても、やっぱり、先ほどまでよりも巨大になっている。
さて、どうしたらいいんだろう……
「そうだな、まずは俺が壁に攻撃を試みる。問題が出ないか、見ていてもらえないか」
蛇目頭の声が聞こえた。
……そうだ、こっちから声を掛けたんだった。
思考を引き戻されたスカーレットが視線を降ろす。そこには、人の形をした大蛇か、大蛇の成りをした人か、そんな怪人、蛇目頭が立っている。
「そうね、あの壁が何なのか。それを見極めるのが先決、だよね」
スカーレットの隣から、蛇目頭の発言に返答が返ってきた。こちらは、学校指定のねずみ色のジャージ『ねずじゃー』に身を包んだ少女、絵里香だ。
「うん、私もそれでいい」
なんだか絵里香の考えに乗っかっただけみたいになっちゃったけど。それでも、それが一番いいように思ったんだ。スカーレットは心の中で、そう言い訳しておいた。
――ぐい。
蛇目頭の右拳が、ゆっくりと黒い壁を押す。むにょり。
そんな感触と共に、黒い壁――を構成する黒い羽根が押し込まれていく。
五センチ……十センチ……。まだ何も起こらない。十五センチ……なんだか押し込み辛い。いつの間にか、押し込んだ羽根の後ろに、びっしりと別の羽根が詰まっている。蛇目頭の力では、わずか二十センチと押し込むことさえできなかった。
むう。ならば。
壁へと押し当てていた右腕を、一度大きく引く。引ききった拳を一度、腰だめに構えて。蛇目頭は、未だにぼやけたままの右拳を黒い壁に叩き込んだ。
――ぱん。
黒い壁面が弾けた。ミルククラウン――牛乳の表面へ一滴の牛乳を落とすと、王冠のような形にその表面が弾ける現象――を思わせる形に、黒い羽根が舞い散った。
「お!」
……これならいける?
スカーレットがそう感じた次の瞬間だった。
蛇目頭の一撃で凹んだ壁面が波打つ。壁面の黒さが一段と濃くなっていく、そんな気がして。直後。凹んだ壁面が一気に戻ってきた。
――ぞわっ。
スカーレットの背筋に怖気が走る。感じたくない、でも感じてしまう、どうにも嫌な予感。
「逃げ……」
スカーレットの声が発せられるよりも、それは早かった。凹んでいた黒い壁が戻ってくる勢いそのままに飛び出す。その黒い塊――びっしりと詰まった漆黒の羽根――が、拳を突き込んだ姿勢のままの蛇目頭を飲み込んでいって。
そして、そんな勢いがそのまま止まるわけは無くって。その黒い塊が勢いのままに進んで行く、その先には――。
ねずじゃーの少女が、目を見開いたまま立ち尽くしていた。
「――いやぁぁぁ!」
スカーレットの悲鳴が降り注ぐ。もう、ただ黒い塊しかないその空間に。




