希望の光
目の前には黒い塊が迫っていた。
身構える暇もない。ただ、その姿勢のままで、迫る黒い塊を見ているしかない。突き出した右拳の先に迫る黒い羽根の塊を見守るしかないのだ。
――!
瞬間、黒い羽根に飲み込まれる蛇目頭。強烈な衝撃と激烈な破壊音を覚悟したんだけれど。多少の圧力は感じるにしても、意外なほど柔らかく包み込まれていた。そして音は感じない。
ただ、濁流にのまれたように、どこかに流されていく。前後も左右も上下も一切わからない。ただ黒だけが蛇目頭を包んでいる。
だから蛇目頭は、じっと瞼を閉じていた。
「……ォーミュラ……」
誰かの声が聞こえた。
随分と長い時間流されたようにも、ほんの僅かな時間だったようにも思えるけれど。そんな時間の先に、少女の声が聞こえた気がした。
瞼の裏が赤く染まる。黒く包まれていたはずの蛇目頭に光が差している。
「メタモルフォーゼ!」
今度ははっきりと、少女の声が聞こえた。聞き覚えのある声。
そう、絵里香の声だった。
蛇目頭は瞼を開く。さっと光が眼底を射す。明るい、というより眩しい。でも、その眩しさは一瞬だけで、すぐに収まっていった。
ちかちかとする目をしばたたき、蛇目頭は周囲を見渡す。
正面には巨大な青い少女が立っていた。
ライトグレーの膝上まであるロングブーツ。
藍色と水色の生地が折り重なったふわりとしたミニスカート。
コルセットが入ったように締まったウエストの空色と白色のエプロンドレス。
肘上までを覆う白い手袋。
結び目から毛先に向けて、青みがかった黒髪から白銀の髪へと滑らかにグラデーションしていくポニーテール。
魔法少女のようなその姿は、紛れもなく。
「まぎがある・シアン! ふたたび見参!」
そう、魔法少女がそこに居た。
「ありがとう。助かったよ」
蛇目頭が、シアンへと語りかける。
だけれども、その言葉を聞いたシアンの表情は、どこかよそよそしい。
「あーーー、よかったですね。助かって」
何か後ろめたさを感じさせる、実に棒読みな返答だ。
「ん? どうかしたのか?」
そう声をかけたところで気付いた。蛇目頭の頭――というか顔面――その周辺だけが自由になっていて、身体の大部分は黒い羽根に埋まってしまっていることに。
まあ、埋まっているとはいえ、シアンの空けた空間が目の前にある。力任せに踏み出せば、易々と脱出することができた。ふう。
さて、改めて辺りを見回す。
そこに黒い羽根はまったく無かった。
あったのはシアンを中心に直径三メートルほどの球形の空間だ。
上の方は黒い壁の上端を突き破っているのか、丸い天窓が開いている。すでに夕刻に差し掛かった曇天が、鈍くその窓を覆っている。
対して下の方はというと。こちらは厚く敷かれたアスファルトが、半球状に抉れていた。それはまあ見事なほどに。
そして周囲はというと。黒い壁が、きれいに球形に削り取られていた。蛇目頭が埋まっていた場所はいびつに穴が開いているから、そこを除いて、だけど。
……あれ?
ここで蛇目頭、何か違和感に気付く。
――球形の空間。
――白い光。
――特異なかけ声。
そこでふと、蛇目頭は自らの右腕に目をやった。本当に何気なく。そこには。
蛇目頭自身の腕が見えた。やけにはっきりと。
それは、ぼんやりとしていた『怪人』蛇目頭の右腕じゃない。はっきりと見える『人間』蛇目頭の右腕だ。
そういえば、この右腕。埋まっていた時の体勢からすると、顔よりも前に出ていた気がする。つまり。
「ごめんなさい!」
シアンの声が響いた。
「私も黒い壁に飲み込まれちゃって。焦って変身しちゃって。そこに誰かいるなんて考える余裕もなくって……」
しどろもどろになって釈明するシアン。
なんだかそれを見て、どうこう言うことが急に馬鹿らしくなってきた。
シアンが言うには、だ。
蛇目頭が一撃を入れて凹んだ黒い壁。それが急に戻ってきて、蛇目頭を飲み込んだ。ここまでは蛇目頭も覚えている内容だ。
それから、蛇目頭を飲み込んだ黒い壁の勢いは止まらなくて、そのまま絵里香を飲み込んでしまったらしい。魔法少女ではない、ただの少女のままで。そりゃあ、もう、ヤバいと思って、咄嗟に変身のかけ声を発していた、と。
運が良かった。それに尽きる。蛇目頭はそう感じていた。
あと半歩ほど前にでていたなら。それか魔法少女の変身がもう少し近くで発動していたなら。蛇目頭は変身の光に飲み込まれて、全てのエネルギーを奪われていただろう。もしかしたら、それだけでは済まなかったかもしれない。考えたくはないが、肉体も分解されて吸収されていたのかも。
そう考えると、ぞっとはする。するんだが。
目の前で、おたおたしている少女を見ていると、まあ無事だったからいいか、と。そう思えてくるから不思議だ。少女とはいえ巨大なんだけど。
それと。
今考えるべきは、そこじゃない。
この黒い壁は、魔法少女の変身の光で打ち消すことができる。その事実こそがポイントだ。おそらくそれは、青い魔法少女も解っていて。
蛇目頭が、ちらりと視線を送る。シアンはその視線に気づくと、僅かに首肯した。みなまで言わずとも分かっている、とでも言いたげに。
ただ、やっぱり気になる部分は確認しておきたい。これは蛇目頭の性分なのだろう。
「なあ」
「……はい、どうかしましたか?」
あたふたしていたところに問いかけられて、なんだか一段と丁寧に答えてしまっているシアンだった。
「もう気付いているとは思うんだが。状況から見る限り、君の変身の光が、この黒い壁を打ち消したようだ」
「はい、だから変身を利用して、黒い壁を突破しようということですね」
「ああ、現状それしか有効な手立てはないように思える」
「それは……私もそう思います」
「ただ、一度の変身で突破できるとは限らない」
「……でしょうね」
「率直に聞く。君の身体は連続での変身に耐えられるのかい?」
「……」
シアンの返答に、これまでにない間が空く。それでも、蛇目頭は急かさない。
「……考えがあります。任せてもらえませんか」
「すまない。君たちに随分と頼ってしまって……」
「いえ、私たちもクラスメート――友達を、このままにしてはおけませんから」
――ざわ、ざわざわ。
蛇目頭とシアン。二人を取り囲んでいた黒い壁。それを構成する黒い羽根の様子が、何だかおかしい。一瞬、騒めいたように感じた直後だった。
黒い羽根が動き出したかと思うと、二人への囲みを解いて、一斉に元あった黒い壁へと戻っていく。打ち寄せた波が、さっと引くかのように。
見上げると視界一杯に広がる鈍色の空。視線を下ろせば十数台ものタンクローリーが横に並ぶ給油装置群。反対には白い二階建ての事務所と思しき建物があって。
そうだ、ここは元いた石油精製コンビナートの陸上出荷エリアだ。
気付くと、もうすっかり黒い壁は元通りになっていて。
周りには心配そうに見ている戦闘員たちと、ムジークと、それから。
「シアンーーー」
赤い魔法少女が一番に駆け寄ってきていた。




