34.思わぬ人の訪問
元メルテンス侯爵の家族を移送するために、兄はしばらく屋敷を留守にすることになった。
兄は出かける直前まで、アリーシアのことを気にしていた。自分がいない間に、アリーシアに何かあったらと思うと、怖くてならないようだった。
実際、兄がいない間、叔父一家に虐げられる羽目になった。
アリーシアだって、兄が出かけるのが怖いが、いつまでもそうは言っていられない。どのみち、イルディオン公爵家はこれからも王命で諜報活動をすることになるのだ。
「大丈夫よ。わたしを信じて。何があったとしても、前みたいなことにはならないから。それより、お兄様こそ無事で戻ってきてね」
兄は力強く頷いた。
「もちろんだ。可愛い妹を一人きりにはさせないよ。……でも、くれぐれも気をつけてくれよ。変な奴を屋敷に入れるんじゃないぞ」
兄は何度もそう言って、やっと出かけた。
元メルテンス侯爵の家族が無事に逃げられるように、アリーシアは心の中で祈った。罪もない家族には、それなりに幸せになってほしい。
兄が出かけた翌日、アリーシアはエドアルドから手紙を受け取った。
「やっと訪問してくれるのね……!」
今日の午後、彼がイルディオン邸に来てくれるという。やっと時間が空いたのだろう。アリーシアはマルガを呼んで、そのことを告げた。
「では、おいしいお菓子を用意しましょう。早速、料理長に伝えておきます。それから、応接間の掃除をしっかりしなければ。ホルツにも殿下を丁重にお迎えするように、ちゃんと言っておきますね。……ああ、それより大事なのは、お嬢様のドレスです! どのドレスにしましょうか?」
「落ち着いて、マルガ。ドレスのことはボニーに頼むから」
ボニーは新しく雇い入れた若いメイドで、今はアリーシアの侍女だ。
叔父が公爵代理をしている間は、侍女などいなかったから、マルガができるだけ面倒を見てくれていた。だけど、今はちゃんと公爵令嬢としての生活を取り戻している。
「ああ、そうでしたね。では、ボニーに頼みましょう。何かありましたら、わたしをお呼びくださいね」
マルガも過保護気味だ。叔父一家にこの屋敷をかき回されたときのことが、彼女の心からはまだ消えていないのだ。何かと心配が先に来てしまうようだった。
アリーシアも早朝に目が覚めて、今すぐ身支度して厨房に行かなくちゃと思うときがある。すぐにあの物置みたいな部屋ではなく、自分の部屋のふかふかのベッドの上だと気づいて、ほっと胸を撫で下ろしていた。
そういえば、あのときの料理長も解雇している。
叔父一家にばかり気を遣って、アリーシアには残り物やパンとスープだけの食事をいつも食べさせようとしてきたからだ。今の料理長は気のいい人で、腕も前の料理長よりずっといい。
特に、お菓子は絶品なのよね。
エドアルドは王宮でおいしいものを食べているから、そんなに驚くほどではないかもしれないが、それでもきっとおいしいと言ってくれるだろう。
だって、優しい人だから。
アリーシアはボニーを呼んで、クローゼットからドレスを選んだ。
ドレスは以前エドアルドに連れていってもらった店で、たくさん誂えている。それでも、公爵令嬢の立場からすると、まだ足りない。これから社交界にも顔を出すことになるし、舞踏会用やお茶会用のドレスは何枚も必要だ。
アクセサリーはたくさんある。イザベラと叔母から取り戻したものだ。元からアリーシアのものもあるし、母や祖母が残したものもあった。
ふんわりとした布地のドレスを身にまとい、艶やかな髪を凝った形に仕上げ、髪飾りをつける。そして、化粧をして、母の形見であるネックレスをつけた。
鏡の中の自分はどこからどう見ても、貴族令嬢だ。
ふと、あのみすぼらしくて痩せていたあの頃が、まるで幻だったかのように感じられて、思わず目を見開く。
いや、そんなはずはない。あれは幻ではなく、まぎれもない現実だった。
だけど、幻想魔法が使えることを知らなかった頃は、毎日の労働に加えて、いつもイザベラや叔父夫妻、ユスティスに虐げられて、ただただ絶望していた。あの頃は、今みたいな貴族令嬢に戻れる日が来るなんて、思いもしなかった。
ユスティスやイザベラが言うように、自分は婚約破棄されて、王太子妃どころか、一生このままなのではないか……と。
今からすると、そんなことは絶対にあり得なかったのだが。
できれば、幻に思えるくらい、遠い過去のことになってほしい。思い出すと、つらくなるから。
「あの……アリーシア様? 何かご不満ところでもありましたか?」
鏡の中をじっと見つめて動かなかったから、ボニーは自分が何か失敗したのか、心配になったのだろう。
「ああ、ごめんね。殿下のことを考えていたの」
慌ててそう言うと、彼女はぱっと明るい顔になった。
「王太子殿下もきっとアリーシア様をご覧になって、見惚れてしまいますよ。絶対!」
「ありがとう。そうだといいわね」
エドアルドが着くまでは、まだ時間がある。しかし、気心が知れた仲とはいえ、王太子を待たせるのは失礼なので、馬車が来たらすぐに出迎えられるように二階の自分の部屋から一階へ移動することにした。
部屋を出たところで、ホルツが足早にやってきた。なんだか困ったような顔をしている。
「お嬢様……!」
「どうしたの? もう殿下がいらしたのかしら?」
「いえ……殿下は殿下でも、元王太子殿下が……」
「まあ、ユスティスが?」
アリーシアは唖然とした。
彼は離宮に謹慎中のはずだ。エドアルドと話をして、さすがの彼も立場がもっと悪くならないように、勝手に離宮を出ることはないだろうと考えていたのだが、どうやら当の本人の考えは違っていたようだ。
「嘘でしょう? いったいなんのつもりで……? しかも、王宮じゃなくて、ここに?」
意味がまったく分からない。
イザベラがまだここにいるとでも思っているのか。いや、彼はイザベラが男爵令嬢でなくなった途端、裏切ったのだ。今更、彼女に会いにくるわけがない。
「さすがに私も追い返すわけにもいかず、応接室でお待ちいただいているのですが……」
「分かった。仕方ないから会うわ。エドアルド殿下がいらしたら、そのまま応接室に通してちょうだい」
彼を追い返すには、エドアルドの力を借りなくてはいけないだろう。謹慎中だろうと、彼は王子なのだ。不敬な真似は慎まなくてはいけない。
それにしても……なんか面倒だわ。
エドアルドに会いたいのに、どうしてユスティスなんかと顔を合わせなくちゃならないのかしら。
溜息をつきつつ、階段を下りて、応接室へ向かう。
「お待たせしました」
一瞬『ユスティス王子殿下』と付け加えそうになったが、なんとか自制する。
彼は自分が王太子であることが誇りだった。次期国王だからと、好き勝手に振る舞っていたのだ。それが廃太子となって、かなりのショックを受けたはずだ。
ただの王子になったことを口にして、わざわざ怒らせたくはない。
結局のところ、王子というだけで、今、この国で三番目に身分が高いのだ。それで十分ではないかと思うのだが。
ユスティスは謹慎中の身とはいえ、上質な服をまとって、髪も綺麗に整えていた。一見して、身分が高いと分かる。
ソファに腰を下ろしていた彼は、アリーシアを見て、目を丸くした。
「……ずいぶん身綺麗にしているんだな。その……俺のためか?」
驚いたことに、彼は顔を赤らめている。
もちろんエドアルドではなく、ユスティスが来ると分かっていたら、こんな格好はしていなかった。
「いいえ、来客の予定があったからです。殿下がいらしてから、あまり時間が経っていないと思います。そんなに早くドレスを着替えることはできません」
当たり前のことを言っただけなのだが、彼は気分を害したようだった。
「……まあ、座れよ」
アリーシアはしとやかに彼の向かい側のソファに腰かけた。改めて彼を見ると、以前より少し痩せていた。
でも、ただの謹慎なのだ。外出できないだけで、おいしいものを食べて、労働をすることなく、時々は庭を散歩なんかして、一日をのんびり過ごしていたのではないかと思った。
地下牢に押し込められていた人達と比べてはいけないかもしれないけど……。
アリーシアは咳払いをした。
「何かご用がありましたか? もうこちらにイザベラはいないのですけど」
イザベラの名前を聞いて、彼は顔をしかめた。
「あいつに会いにきたわけじゃないさ」
卒業パーティーで、永遠の愛を誓ったのではなかったかしら?
嫌味を言いそうになったが、それも我慢する。
そう。彼は『王子』だから。
「イザベラの行先は気になさらないのですか?」
彼は肩をすくめる。
「どうせ平民になったんだろう? 父親が監獄にいるそうじゃないか」
「ええ。そうですね」
「そんな奴のことより、俺はおまえに言いたいことがあって来てやったんだ」
彼の偉そうな言い方が気に障る。
『来てやった』ですって。
あなたなんかに来てもらわなくてもいいのに。
というか、来てもらいたくなかった。できれば、今すぐ帰ってもらいたい。しかし、自分から帰ってくれとは言えない。
ちょうどそのとき、メイドがお茶とお菓子とケーキを持ってきた。
メイドは上品な仕草でゆっくりとお茶を淹れてくれる。これで少し時間が稼げた。ユスティスの用事など、どうせろくなものではないだろうし、できれば聞きたくないのだ。
予定より早くエドが来てくれないかしら。
そして、この失礼な男を追い出して。
以前はイザベラに会うためだけにこの屋敷を訪れていて、アリーシアなど彼にかしづく奴隷みたいな扱いだったのだ。そのときは、こんなふうに向かい合ってお茶を飲むことなんて、あり得なかった。
そうよ。どうして今更、わたしがこの人の相手をしなくちゃならないの?
なんだか苛立ってきてしまう。
彼に関わるのは時間の無駄なのだ。
もうそろそろラストです。
明日か明後日には完結します。




