第315話 陥落
マフィアのボスは部下から小さな箱を受け取った。
「ちょうど買っておいたやつがある。本場のティラミスはどうだ? こいつはうめえぞ。濃厚なマスカルポーネチーズのクリームの下には、エスプレッソをたっぷり染み込ませたビスコッティ・サヴォイアルディ。甘さと苦みの絶妙なバランスだ。上にまぶしたココアパウダーがいい仕事をしている。匂いも嗅いでみろ。ほろ苦く香ばしいコーヒーに洋酒の香り。どんな女もこの味に酔いしれる」
「ごくり……」
ミリアは喉を鳴らした。
「このティラミスで落とせなかった女はいないぜ。どうだ? ひとくち」
マフィアのボスはミリアにスプーンを差し出した。
「い、いいのですか?」
ミリアは箱から出されたティラミスに視線を落とす。
ティラミスは高級そうなガラスの器に盛られ、美しく層を成していた。ミリアはスプーンを手にとり、こんもりと山盛りにティラミスをすくった。それをそのまま口に運び――
「!?――――。!?!?!?」
目を見開き、動きが止まった。衝撃を受けたことが伝わってきた。
「ずいぶん豪快にいったな。山盛りのひとくちを持っていきやがった」
マフィアのボスは呆れたような口調で言った。
「も、もうひとくち……」
ミリアが2口目を食べようとスプーンを伸ばした時、ガラスの器がさっと持ち上げられた。マフィアのボスがスプーンを避けたのだ。
「おっと、ひとくちの約束だぜ」
「え!? そ、そん……な……」
ミリアはこの世の終わりと言わんばかり、絶望の淵に落とされたような表情で顔を歪めた。
「どうだ? 毎日1個。このティラミスをお前にやろう」
「毎日!?」
ミリアの声のトーンが一段階上がった。
画面を見ていた私は、こちら側で叫ぶ。
「ミリア駄目! おデブになっちゃう!! ティラミスは毎日食べるものじゃない!!!」
「春菜、そこじゃないと思う」
湊ちゃんは冷静にツッコミを入れた。
「毎日このティラミスがもらえるのですか!?」
「ああ、毎日やろう。だが、1個だけだ」
ミリアは少し考え込む。絞り出すようにか細い声を出した。
「わかったのです。なら、ミリアは……。ミリアは……」
私はタブレットの画面にがっつりと顔を寄せながら訴えた。
「だから、駄目だってミリア! ティラミスなんかでマフィアの仲間になっちゃ!」
私と湊ちゃんはすぐにでも倉庫に突入するつもりでいた。
ミリアはぶつぶつと呟いている。
「ミリアがマフィアの仲間になれば……。なれば……」
ミリアの呟きは続く。
「このティラミスをお姉様に食べてもらえる……。毎日お姉様に……。毎日食べてもらえる……」
ミリアはティラミスを自分で食べるのではなく、私に食べさせるためにマフィアの仲間になろうとしていた。
「もう、行こう。湊!」
「うん!」
私と湊ちゃんは倉庫への突入を決めた。
バン、と大きな音を立てて正面の扉を開けた。その場にいた全員の目が私たちに集まった。
私はミリアに向けて叫んだ。
「ミリア! 私は毎日ティラミスなんていらないからね! 毎日1個は食べないよ!」
ミリアは胸の前で手を組んで、祈るかのような姿勢だった。
「ミリアはひとくち食べて、天国を体験したのです。ミリアはひとくちで十分なのです。お姉様に食べてもらいたいのです」
私はミリアに優しく微笑みかける。
「ありがとうミリア。でも、マフィアの仲間になっちゃだめだよ」
「ならないのです。だって……」
そこにいる全員の目がピカピカと光っていた。マフィアのボスも含めて。
「ミリアの完全魅了はすでに終わっているのです」
タブレットを見るとメッセージが表示されていた。ミリアに向けた文章だ。タブさんからの指令。そこに書かれていたのはスキルの実行許可だ。
私たちが倉庫に飛び込んだ時、ミリアの目に止まったのはタブレットの画面だ。ミリアはそれを見て、すぐに完全魅了を使っていた。
「これでティラミスが手に入ったのです」
ミリアはガラスの器を両手で大事そうに持ち上げた。それを恭しく私に差し出す。
「お姉様。これを。ミリアがひとくち食べてしまったのです。ですが、残りは全部お姉様に……」
「ミリア……。残りを全部私に?」
「はい、なのです」
私はミリアの顔をまじまじと見る。
「よだれが垂れているけれど?」
「え……。じゅる……。えっと、これは……」
ミリアは口元を拭おうと片手を離した。あやうくティラミスが落ちそうになり、私はガラスの器に手をかけた。
ミリアの手に私の手が触れた。「あ……」と同じひと言が互いに漏れた。私たちは見つめ合う。触れた手はそのままだ。ミリアの頬が赤い。私も自分の頬が火照るのが分かっていた。心臓が早鐘を打つ。
「お姉様……」
ミリアがまっすぐに私の目を見てくる。
「ミリア……」
私もミリアの目を見つめ返す。
そんな私たちに声がかかった。
「春菜。春日井君の救出、終わったよ」
「なにやってんだ? 筑紫?」
湊ちゃんと春日井君がすぐそばにいた。もちろんラビちゃんもそこにいる。私とミリアがティラミスを前にして見つめ合っている間にすべてが終わっていた。
ここに来た目的はラビちゃんの救出だ。そのことを忘れ、私は別のことで胸を高鳴らせていた。
湊ちゃんと春日井君とラビちゃんが見ている。そんなことも構わずに、私は大きく口を開けていた。
すでに、ミリアはティラミスをスプーンですくっていた。ティラミスが目前まで迫ってくる。
「あーん」
大きく開けた私の口にミリアからのティラミスが差し込まれた。ぱくり。口を閉じると甘い味が口いっぱいに広がった。
これは……。
まず広がるのは、滑らかでコクのあるマスカルポーネチーズのクリーム。甘いクリームがとろけている間に、ほろ苦く香ばしいエスプレッソの風味が続く。
甘さと苦みのハーモニー。まさに至福。本場のティラミスは別格だ。
最後に残るのはほのかな洋酒の香り。大人のためのデザート、そんな言葉がぴったりだった。
ああ、私も大人の女になってしまったかもしれない。
これなら誰でも陥落してしまうだろう。




