第267話 討伐不可能?
私たちの周囲ではジャングルの崩壊が始まっていた。中央の幹が崩れるまでにはだいぶ時間がかかりそうだが、周囲の細い木や枝はボロボロと崩れていく。
黒縁メガネをかけ、腕時計をした猿が目の前にいる。生意気そうな顔をしてこちらに牙を向けていた。
「キシャァアアアァァッ!」
猿は威嚇するように吠えてきた。
口からは唾を撒き散らしている。
「お兄ちゃん! 私のことがわからないの!?」
猿は少しお尻を上げ、力を込めた。ぶりぶりっと音を立ててその場で糞をひねり出す。猿は右手を伸ばし、それを掴んでこちらへと投げつけてきた。茶色い物体が私の顔をかすめて後方へ飛んでいった。
「ひゃあっ」
私は身をかわしてそれを避けた。危うく命中するところだった。
猿はもうひとつ糞を掴み、春日井君にも投げつけた。
「こいつ! うんこを投げてきた! ……って筑紫の兄さんか……。やめてくれ、筑紫の兄さん!」
「お兄ちゃん、やめて! うんこを投げないで!」
私の訴えも虚しく、今度は湊ちゃんのところへ走っていく。湊ちゃんが着ている鎧に手を伸ばした。
「こっちに来たあ! うんこの手で触らないで!」
湊ちゃんは猿に背を向けて走り出す。全力で逃げていた。それでも猿はしつこく湊ちゃんを追い回す。
「春菜のお兄さん、来ないでください! お兄さんじゃなかったら、頭かち割ってます!」
「くそお。筑紫の兄さんだけど、むちゃくちゃムカつく……」
春日井君は刀を手にして前に構えている。だが、もちろん斬りつけるようなことはできない。
猿は一度立ち止まり、落ちていた神王のブーツに目を留めた。それはイビル・プラントのツタで絡め取られて奪われたものだった。ブーツに向かって、猿が走り出す。
「私のブーツ!!」
湊ちゃんは空間収縮を3連続で使用。とんでもない無駄遣い。肉体には過度の負荷がかかったはずだ。猿が触れるより早くブーツにたどり着いていた。
「ブーツを取り返した! 危なかったあ。私のブーツ。うんこがつくとこだった……」
湊ちゃんは心の底からほっとしている様子だった。
「それ、お兄ちゃんのブーツだから……。つまり、お兄ちゃんにはまだ記憶が残っているということ……?」
「そうだよ。きっと少しくらいは記憶があるのかもしれない。でも、ボスより厄介だよ。倒すことも、攻撃することもできないんだから。これこそ本当の討伐不可能ってやつだよ」
湊ちゃんは取り返したブーツを大事そうに抱えながら口をとがらせていた。
「どうすればいいんだろう? 猿を捕まえる?」
私たちが手出しできないことを理解してしまったのか、猿は逃げようともせず、私たちを威嚇したり、糞を投げ続けてくる。
「うわあああ、筑紫の兄さんじゃなかったら、斬っているぜぇ」
春日井君は刀を振り回しながら、喚き立てる。
湊ちゃんもいつのまにかエンジェル・ボウを手にしていた。
「そうだよ。春菜のお兄さんじゃなかったら、弓矢の餌食だよ」
攻撃したくてもできない苛立ちが2人に武器を取らせていた。
猿は崩壊しかけている木の枝へと登った。猿の下側では小さな虹が出現した。
「しょんべんしやがった! 逃げろ! 浴びちまう!」
運悪く下にいたハンターに猿のおしっこが降り注いだ。
「ん? なんだ? くせえな……」
おしっこの冷水を浴び、ハンターは意識を取り戻していた。
意識を取り戻したハンターが最初に視界に入れたのは猿だった。
ハンターは目を大きく見開き、反射的に立ち上がって剣を構えることになった。
「こいつ! 俺様に小便をかけやがった!」
このハンターは、最後に私たちと会話をした日本語ができるハンターだった。
ハンターは高く飛び上がり、剣を一閃。猿の背中から斬りつけた。猿は血しぶきを上げながら、悲鳴を上げた。
「キシャァァ」
その一刀で猿の頭はかち割られ、胴体も中程まで切断されていた。悲鳴を上げることができたのが不思議なくらい、無惨に猿は殺されていた。
どさっと音を立てて猿の死体が地面に落ちる。
黒縁メガネは中央のブリッジから真っ二つになっていた。腕にはめていた腕時計はガラスが割れている。
かち割られた頭からは脳が見えている。体からは臓物もこぼれ出し、地面を真っ赤に染めていた。
私は膝から地面に崩れ落ちる。
「お……、お兄ちゃん……」
湊ちゃんと春日井君も顔面蒼白だった。
「春菜の……、お兄さん……」
「筑紫の……兄さんが……」
3人とも呆然とその光景を見ていた。猿の死体を見せないように、湊ちゃんは私の顔を胸に抱きかかえた。
「お兄ちゃん……? お兄ちゃんが死んじゃったの……?」
私は湊ちゃんの胸をかきむしるように引っ掻いた。私の爪で鎧からはきしむような嫌な音が鳴った。
私たちでは討伐不可能だった猿。それをハンターはあっさりと殺してしまった。




