第9話 名前で呼び合おう
八月四日 午後二時。
玲子が入会届を鞄へしまおうとしたところで、直人は気になっていたことを尋ねた。
「一つ聞いていいですか」
「何だ、直人」
「もう名前で呼ぶんですか」
「仮とはいえ、同じ会の仲間だからな」
「その仮入部のことなんですけど」
直人は玲子が持っている入会届を指さした。
「四人いないと、正式なサークルとして認められないんですよね」
「そうだ」
「先週、二人辞めたって佐伯から聞きました」
「正確には、辞めたのではない」
玲子は平然と答えた。
「私が辞めさせた」
「クビにしたんですか?」
「そうだ」
直人は佐伯を見た。
「お前、辞めたって言ってたよな」
「結果としては、二人ともいなくなっただろ」
「過程が全然違うだろ」
莉子が笑った。
「佐伯君、玲子先輩がクビにしたって言うと、直人君が入ってくれないと思ったんじゃない?」
「聞かれなかったから言わなかっただけだ」
「それを隠したって言うんだよ」
直人は玲子へ向き直った。
「何で辞めさせたんですか」
「私の言うことを聞かなかったうえ、私の霊能力に疑問を持ったからだ」
「普通に疑問を持っただけじゃないですか」
「部長である私の能力を信じられない人間を、オカルト探究会に置いておくわけにはいかない。だからクビにした」
「それで人数が足りなくなったんですよね」
「そうだ」
「完全に自分で招いた人手不足じゃないですか」
「私も同じことを言ったよ」
莉子が言った。
「玲子先輩には、お考えがあったんだよ」
佐伯がすぐに玲子をかばった。
「どんな考えだよ」
「それは……会の方針を守るためだろ」
「その会がなくなりそうになってるけど」
「人数のために信念を曲げるわけにはいかない」
玲子は腕を組んだ。
「私の霊能力を疑うような者は、この会には必要ない」
「俺も疑ってますけど」
「お前はまだ何も知らないだけだ。これから私が教えてやる」
「教わるつもりはないです」
「素質はある」
「どこを見て言ってるんですか」
「そういうところだ」
「どういうところだよ」
玲子は直人の質問には答えず、三人を順番に見回した。
「せっかく四人そろったんだ。今後、部員同士は名前で呼び合うことにする」
「急ですね」
「結束を深めるためだ。全員、改めて名前を言え」
玲子は自分の胸元へ手を添えた。
「私は玲子だ。玲子先輩と呼べ」
「はい、玲子先輩」
佐伯が真っ先に答えた。
「返事が早いな」
直人が言うと、佐伯は咳払いをした。
「部長の指示だからな」
玲子は満足そうにうなずき、莉子へ顔を向けた。
「次」
「莉子です」
「莉子っていうのか」
佐伯が言った。
莉子が佐伯を見る。
「佐伯君、知らなかったの?」
「名字でしか呼んだことなかったからな」
「同じ講義を受けてるのに?」
「名字で困らなかっただろ」
「私も佐伯君の名前、知らないけどね」
玲子は次に直人を指さした。
「お前だ」
「直人です」
「それは知ってる」
佐伯と莉子がほとんど同時に言った。
「何で俺だけ最初から知られてるんだよ」
「長野直人って、何となくフルネームで覚えやすいんだよね」
莉子が答えた。
「N・Nだしな」
佐伯が続ける。
「NはNorthのN」
「北、北」
莉子が笑う。
「長野が来た来た」
「その話はもういい」
直人が止めると、玲子が最後に佐伯へ目を向けた。
「残るはお前だ」
「佐伯です」
「名前を言え」
「名字だけでは駄目でしょうか、玲子先輩」
佐伯は玲子にだけ、妙に丁寧な口調だった。
「駄目だ」
「そこを何とか」
「全員が名前を言った。お前だけ名字で済ませることは認めない」
「ですが……」
「早くしろ」
「はい、玲子先輩……」
佐伯は俯いた。
直人と莉子は、佐伯がなぜそこまでためらっているのか分からず、顔を見合わせた。
玲子だけは理由を知っているらしい。
すでに口元が緩んでいた。
「言わないのなら、私が代わりに言うぞ」
「それだけはやめてください」
「なら、自分で言え」
佐伯はしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……友蔵です」
「何?」
直人が聞き返した。
「聞こえなかった」
莉子も言った。
佐伯は顔を赤くし、少しだけ声を大きくした。
「友蔵です」
一瞬、部室が静まり返った。
直人は佐伯を見る。
莉子も佐伯を見つめた。
玲子は口元を押さえていた。
次の瞬間、三人が一斉に吹き出した。
「友蔵!?」
莉子が机をたたきながら笑い始める。
「佐伯君、友蔵なの?」
「だから言いたくなかったんだよ!」
直人もこらえきれず、声を上げて笑った。
「ちびまる子ちゃんかよ!」
「うるさい!」
「お前、俳句作れよ。俳句」
「作らねえよ!」
「心の俳句を一句お願いします、友蔵さん」
「友蔵さんって呼ぶな!」
玲子は椅子の背もたれへ寄りかかり、涙を拭いていた。
「友蔵、部長命令だ。今の気持ちを五・七・五で表してみろ」
佐伯は玲子へ顔を向けた。
「玲子先輩まで、やめてください」
莉子は腹を押さえたまま笑っている。
「駄目……友蔵君って、思ったより似合う……」
「何が似合うんだよ!」
直人は机を指でたたき、調子をつけた。
「夏の日に――」
「作るな」
「名前を明かす――」
「やめろ!」
「友蔵よ」
「そのままじゃねえか!」
「季語も入ってるぞ」
「夏の日って言えばいいと思うな!」
「詳しいじゃん。さすが友蔵」
「俳句を作れって言うからだろ!」
直人はさらに笑った。
「隠しても、最後にばれる、友蔵か」
「何でも五・七・五にするな!」
「今の気持ちは?」
「お前を殴りたい」
「字余りだな」
「俳句じゃねえよ!」
三人の笑い声が、狭い部室に響いた。
佐伯だけが顔を赤くし、机へ両手をついている。
「もう二度と名前で呼ぶな」
「部員同士は名前で呼ぶんだろ、友蔵」
「直人、お前は絶対に許さないからな!」
「その怒りも一句にしてくれ」
「うるさい!」
「友蔵」
玲子が呼ぶと、佐伯はすぐに玲子へ向き直った。
「はい、玲子先輩」
返事だけは丁寧だった。
「そろそろ本題に戻るぞ」
「分かりました」
直人は笑いながら言った。
「素直だな、友蔵」
「お前には言われたくない!」
玲子は長机の上へ一冊のノートを置いた。
「今夜は、白鷺館へ行く」
「白鷺館?」
直人には聞き覚えのない名前だった。
「詳しい話は、現地へ向かう前にする。いったん解散し、午後八時に大学の正門前へ集合だ」
「俺も行くんですか」
「当然だ。部員だからな」
「仮入部です」
「今日だけ参加すると約束しただろう」
「名前を貸すだけの話じゃなかったんですか」
「名前だけでは部活動にならない」
「話が変わってるだろ」
玲子は直人の抗議を聞き流し、立ち上がった。
「遅れるなよ」
「まだ行くとは言ってません」
「では、午後八時に」
「聞いてます?」
佐伯も鞄を持ち上げる。
「諦めろ。玲子先輩が決めたんだから」
「お前は惚れた弱みで何でも従ってるだけだろ」
「なっ……」
佐伯は慌てて玲子の方を見る。
「違いますからね、玲子先輩」
「何がだ?」
「いえ、何でもありません」
「友蔵、顔が赤いぞ」
「直人、お前は黙れ!」
莉子がまた笑い始めた。
◇
四人は一緒にサークル棟を出た。
直人は自宅へ戻り、佐伯と莉子もいったん荷物を取りに行くことになった。
正門へ向かう途中、莉子が歩道の小さな段差につまずいた。
「あっ」
転びはしなかったが、肩に掛けていた鞄が大きく揺れた。
口の開いていた鞄から、紙袋が落ちる。
すぐそばを歩いていた玲子が拾い上げた。
「ありがとうございます」
莉子が受け取ろうとする。
だが、玲子は紙袋を見つめた。
「ずいぶん軽いな」
「玲子先輩、それは――」
直人が止めるより早く、玲子は紙袋の口を開いた。
中を覗き込む。
数秒後、玲子はゆっくりと顔を上げた。
「ほう」
「返してください」
直人が手を出した。
玲子は紙袋を自分の胸元へ引き寄せる。
「直人。これは新入部員から部長への差し入れか?」
「違います」
「ずいぶんと思い切った物を用意したものだな」
「俺のじゃありません」
「それは見れば分かる」
佐伯が興味を示した。
「何が入ってるんですか、玲子先輩」
「友蔵にはまだ早い」
「同い年でしょう」
直人が言った。
「お前は黙ってろ!」
「教えてくださいよ」
佐伯が紙袋を覗こうとする。
玲子は素早く背中へ隠した。
「駄目だ」
「長野、お前、玲子先輩に何を渡したんだよ」
「何も渡してない」
「じゃあ、何で玲子先輩が持ってるんだ」
「莉子が落としたからだ」
「莉子の物なのか?」
「私のじゃない!」
莉子が強く否定した。
「じゃあ誰のだよ」
「知らない」
玲子は紙袋を持ったまま、楽しそうに直人を見る。
「直人」
「何ですか」
「私に何か言うことがあるんじゃないか?」
「返してください」
「それだけか?」
「それ以外に何を言えっていうんですか」
「この品物について、部長が黙っているだけの理由が必要だな」
「脅迫ですか」
「交渉だ」
玲子は口元を上げた。
隣を見ると、莉子も笑っていた。
紙袋を落としたときの慌て方とは違う。
直人は莉子を見た。
「お前、わざと落としたのか」
「何のこと?」
「鞄の口も開いてたよな」
「たまたまだよ」
「今、笑ってるだろ」
「新しい部員が増えそうでうれしいだけ」
「最初からこれが狙いだったのか」
莉子は答えず、玲子の隣へ並んだ。
玲子が改めて直人を見る。
「さあ、どうする?」
このままでは、佐伯まで紙袋の中身を知ることになる。
それだけは面倒だった。
直人はしばらく黙ったあと、諦めて息を吐いた。
「……正式に入部します」
「何にだ?」
「分かってるでしょう」
「きちんと言え」
玲子は満足そうな顔をしていた。
「オカルト探究会に、正式に入部させてください」
「そこまで言われては仕方がないな」
「全部そっちが言わせたんでしょう」
「歓迎するぞ、直人」
玲子は紙袋を莉子へ返した。
莉子は笑いながら、自分の鞄の奥へしまう。
「よろしくね、直人君」
「お前、覚えてろよ」
「何のことかな」
佐伯だけが状況を理解できず、三人を見回していた。
「結局、何が入ってたんだ?」
「お前には関係ない」
「部員同士に隠し事はよくないだろ」
「友蔵は黙ってろ」
「だから友蔵って呼ぶな!」
直人は佐伯の肩をたたいた。
「怒りの一句を頼む」
「俳句もうるさい!」




