第8話 四人目
八月四日 午後一時。
直人は、ベッドの横で見つけた女性用の下着を紙袋へ入れた。
昨夜、このベッドで寝ていたのは莉子だ。
ほかに女性は部屋へ入っていない。
「まさか、履かずに帰ったのか……」
口に出してみたが、直人自身も信じにくかった。
莉子はかなり酔っていた。
朝も頭が痛いと言いながら帰っていったので、忘れていてもおかしくはない。
とはいえ、直接電話をかけて確認するのはためらわれた。
近くに誰かがいれば聞かれるかもしれない。佐伯が一緒なら、確実に面倒なことになる。
直人は佐伯へメッセージを送った。
『今どこにいる』
すぐに返事が来た。
『大学。サークル棟』
『莉子もいる』
朝、別れたあと、二人は大学へ行ったらしい。
『午後から少し行く。莉子に用事がある』
『入会するのか?』
『違う』
『玲子先輩に言っとく』
『言わなくていい』
それきり、返信はなかった。
すでに余計なことを言いに行ったのかもしれない。
直人は紙袋を鞄へ入れ、少し休んでから部屋を出た。
◇
東央大学までは、メゾン青葉から歩いて十五分ほどだった。
強い日差しの下を歩いたせいで、正門へ着くころには額に汗が浮いていた。
夏休み中の構内は静かだった。
講義棟の窓は閉まり、広場にも学生の姿はほとんどない。木陰では蝉だけが、普段と変わらない勢いで鳴いていた。
直人は掲示板で部屋番号を確認し、サークル棟の三階へ上がった。
古い建物だった。
階段の隅には細かな埃がたまり、壁には色の薄れた勧誘ポスターが何枚も残っている。
廊下の一番端にある扉には、
『オカルト探究会』
と書かれた紙が貼られていた。
太い黒のマーカーで書かれた文字は妙に力強く、紙の四隅は画鋲で壁へ深く留められている。
直人がノックすると、中から女性の声が返った。
「入れ」
許可というより、命令に近い声だった。
直人は扉を開けた。
部室は、四人が入ればほとんど余裕がなくなるほど狭かった。
中央には傷の多い長机が置かれ、壁際には古い本棚が並んでいる。
本棚には、背表紙の色あせた心霊雑誌や、都市伝説、民間信仰、未確認生物についての本が隙間なく詰め込まれていた。
棚に収まりきらない資料は床へ積まれ、その上には懐中電灯や方位磁石、古びた双眼鏡まで置かれている。
長机の手前には佐伯と莉子が座っていた。
「来たな、四人目」
佐伯が言った。
朝よりは顔色が戻っていたが、目元にはまだ疲れが残っている。短い髪も普段より少し乱れていた。
「違う」
「また会ったね」
莉子は軽く手を上げた。
肩にかかる髪はきれいに整え直されていたが、顔にはまだわずかに二日酔いの気配が残っている。
それでも、朝のようにタオルケットへくるまっていた姿とは違い、もう普段どおり落ち着いて見えた。
部屋の一番奥には、直人の知らない女性が座っていた。
窓を背にして、長机の上座に当たる席を当然のように占めている。
背中の中ほどまで伸びた黒髪は、癖もなくまっすぐに下りていた。
白いブラウスに濃い色のスカートという簡素な服装だったが、地味には見えない。
整った顔立ちと、相手を正面から射抜くような目が、服装より先に目へ入るからだった。
背筋は椅子の背へ預けることなく伸び、顎はわずかに上がっている。
何もしていないのに、ほかの三人が彼女の前へ集められているように見えた。
年上だと分かったのは、顔つきよりも態度のせいだった。
女性は直人の顔を、遠慮なく上から下まで眺めた。
「君が長野直人か」
「そうですけど」
「遅かったな」
「呼ばれた覚えはありません」
直人が答えると、女性の眉がわずかに動いた。
不快そうというより、面白い反応を見つけたときのようだった。
「玲子先輩。この人が長野です」
佐伯が紹介する。
「見れば分かる」
玲子は短く答えた。
低すぎる声ではない。
それでも、迷いなく言い切る話し方のせいで、狭い部屋ではよく響いた。
「私はこのオカルト探究会の部長だ」
「入会しに来たわけではありません」
「佐伯から、怪異に遭遇していると聞いた」
玲子の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
美人ではあったが、その笑い方には親しみやすさよりも、ようやく退屈を壊すものが現れたという喜びがあった。
直人は佐伯を見た。
「勝手に話すなと言っただろ」
「部長には報告しておいた方がいい」
「お前の話じゃない」
玲子は楽しそうに直人を見ていた。
「前の住人について、周囲の証言が一致しない。さらに朝方、存在しない電話の音を聞いた」
「存在しないと決まったわけじゃありません」
「では、電話機は見つかったのか?」
「見つかってませんけど」
「ならば、存在しない電話が鳴ったということだ」
「どこかにあるかもしれないでしょう」
「見つからないのなら、現時点では存在していないのと同じだ」
「同じじゃないです」
玲子は直人の反論を聞き、満足そうに目を細めた。
「実に興味深い」
「俺は興味深くないです」
「当事者とは、得てしてそういうものだ」
「どういうものですか」
「自分が巻き込まれている怪異の価値を理解できない」
「価値なんかいりません」
直人は鞄へ手を入れた。
「今日は莉子に用事があって来ただけなので」
「私に?」
「ちょっと外へ来てくれ」
莉子は首を傾げながら立ち上がった。
玲子が二人を見比べる。
「私に聞かれては困る話か?」
「玲子先輩には関係ありません」
「そうか」
玲子はそれ以上止めなかった。
ただし、二人が扉を閉めるまで、興味深そうに目で追っていた。
◇
廊下には誰もいなかった。
直人は左右を確認してから、紙袋を差し出した。
「何?」
「忘れ物」
「私の?」
「たぶん」
莉子が紙袋の中を覗く。
すぐに目を見開き、勢いよく袋の口を閉じた。
「何、これ」
「ベッドの横に落ちてた」
「私のじゃない」
「でも、昨日あそこで寝てただろ」
「だからって、私のとは限らないでしょ」
「もしかして、履かずに帰ったのかと思った」
「履いてるから!」
莉子の声が廊下へ響いた。
「声が大きい」
「直人君が変なことを言うからでしょ!」
莉子は周囲を見回し、声を落とした。
それから、もう一度紙袋の中を確認する。
「本当に私のじゃない。こういう股上の浅いのは持ってないし、サイズも違うから」
「じゃあ、誰のだよ」
「私に聞かないでよ」
「ほかに女は部屋へ入ってない」
「前からあったんじゃない?」
「昨日までは見なかった」
「見落としてたとか」
「ベッドの横だぞ」
「酔っ払った二人を運んでたんだから、それどころじゃなかったんじゃない?」
「朝もなかったと思う」
「思う、でしょ」
「少なくとも見た覚えはない」
莉子は紙袋を持ったまま、少し考えた。
「これ、どうするの?」
「お前のじゃないなら持って帰る」
「直人君がそれを持ち歩くの?」
「ほかにどうしろっていうんだ」
「鞄から落としたら大変だよ」
「落とさない」
「警察に止められて見つかったら?」
「何で止められる前提なんだよ」
「説明できる?」
「部屋に落ちてましたって言う」
「一番怪しい言い訳に聞こえる」
直人は黙った。
莉子は小さく息を吐いた。
「分かった。とりあえず私が預かる」
「お前のじゃないのに?」
「直人君が持ってるよりはましだから」
莉子は紙袋を自分の鞄へ入れた。
今度は口が開かないよう、しっかりと留める。
「佐伯君には言わないでよ」
「俺から話すつもりはない」
「玲子先輩にも」
「あの人には余計に話さない」
「それがいいね」
二人は部室へ戻った。
◇
扉を開けると、佐伯がすぐに顔を上げた。
「何の話だった?」
「何でもない」
莉子が答えた。
「顔赤くない?」
「暑いだけ」
「冷房ついてるぞ」
「廊下が暑かったの」
玲子は何も言わなかった。
長机に片肘をつき、莉子の鞄を一度だけ見た。
直人は、その視線に気づかないふりをした。
玲子は机の上に広げていた資料を閉じた。
地図のような紙の上には、赤い印がいくつも書き込まれていた。
「ちょうどいい。これから出るところだ」
「どこへですか」
「白鷺館」
直人には聞き覚えのない名前だった。
「何ですか、それ」
「説明はあとでする」
「俺は帰ります」
「待て」
玲子に止められた。
大声ではなかった。
それでも直人は、反射的に足を止めた。
「君も参加しろ」
「何でですか」
「四人目だからだ」
「入ってません」
佐伯が机の上から一枚の用紙を取り出した。
昨日、居酒屋へ持ってきていた入会届だった。
「名前だけでいいって言っただろ」
「断っただろ」
「昨日、お前の分をいくら払ったと思ってるんだ」
「引っ越し祝いだったんじゃないのか」
「俺と莉子で払った」
「お前たちの方が飲み食いしてただろ」
「直人君が一円も払ってないのは本当だよ」
莉子が言った。
「お前までそっちにつくのか」
「それに、私たちを部屋まで連れて帰ってくれたから、全部を借りにするのは違うけど」
「そうだろ」
「でも、一回くらい付き合ってもいいんじゃない?」
「何でそうなるんだ」
玲子が机の上からペンを取り、直人へ差し出した。
細い指でペンを持ち、当然受け取るものだという顔をしている。
「仮入部で構わない。毎回来る必要もない」
「名前を貸すだけですか」
「基本的には」
「その言い方が信用できないんですけど」
「今日だけ参加すればいい」
「どこへ行くのかも説明されてません」
「知らない方が、先入観を持たずに済む」
「危ない場所じゃないでしょうね」
「危険があるかどうかを確認しに行く」
「それを危ない場所って言うんですよ」
玲子は少しも悪びれなかった。
「心配するな。私がいる」
「それが一番心配です」
佐伯が身を乗り出す。
「玲子先輩は本物だぞ」
「何が」
「霊能力者だ」
「本人以外で本気で言ってる人、初めて見た」
「失礼だぞ」
玲子は佐伯を手で制した。
「よい。疑う者ほど、実際に見せたときの反応が楽しめる」
「見せなくていいです」
「お前には素質がある」
「今会ったばかりでしょう」
「それでも分かる」
「何を根拠に」
「私の霊感だ」
「一番信用できない答えが来た」
莉子が小さく笑った。
直人は三人を順番に見た。
断っても、しばらく同じ話が続きそうだった。
「本当に仮ですからね」
「構わない」
「活動にも、たまにしか出ません」
「それでいい」
「変な儀式には参加しません」
「うちは儀式をする団体ではない」
佐伯が小声で言った。
「今のところは」
「やっぱり入らない」
「冗談だ」
「お前の冗談は信用できない」
直人はペンを受け取り、入会届へ名前を書いた。
長野直人。
玲子は直人の手元を見下ろしていた。
書き終わった瞬間、入会届を取り上げる。
紙を両手で持ち、書かれた名前を確かめる。
その顔には、先ほどまでよりもはっきりとした満足が浮かんでいた。
「これで四人だ」
「仮です」
「よろしくな、四人目」
佐伯が笑いながら直人の肩をたたいた。
「一回参加するだけだ」
玲子は入会届をもう一度眺めた。
狭い部室の中央で、その姿だけが妙に堂々としている。
直人は名前を書いたことを、早くも後悔し始めていた。




