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もう、何がなんだかわからない  作者: 連句貢茶


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第7話 朝方の電話

 八月四日 午前四時。


 電話のベルが鳴っていた。


 直人は目を閉じたまま、しばらくその音を聞いていた。


 夢の中で鳴っているのだと思った。


 一度、音が止まる。


 数秒後、また鳴った。


 電子音ではない。


 古い固定電話の、乾いたベルの音だった。


「……電話」


 床の上から、佐伯のかすれた声がした。


 直人は目を開けた。


 部屋の中は暗かった。


 カーテンの隙間から、夜明け前の薄い光が差し込んでいる。


 ベッドでは、莉子がタオルケットにくるまって眠っていた。


 佐伯は座布団から半分はみ出し、目を閉じたまま顔をしかめている。


「長野……」


「何」


「電話だぞ……」


「分かってる」


 直人は身体を起こした。


 頭が重い。


 佐伯と莉子ほど飲んではいなかったが、二人をここまで連れてきたあと、ほとんど眠れていなかった。


 ベルがもう一度鳴る。


 音は、台所の方から聞こえていた。


 直人は流し台へ目を向けた。


 この音には覚えがあった。


 引っ越してきた日、流し台の下から見つけた灰色の固定電話。


 あの電話が鳴ったときと、同じ音だった。


 直人は立ち上がった。


 だが、流し台の前には、まだ片づけていない段ボール箱が積まれている。


 冷蔵庫も、引っ越しのときに置いた位置が悪く、収納扉の片側を塞いでいた。


 扉を開けるには、箱をどかしたうえで、冷蔵庫を少し横へ動かさなければならない。


 一人で、今すぐ動かす気にはなれなかった。


「出ないのか……」


 佐伯が言った。


「寝てろ」


「電話……」


「分かってる」


 佐伯はそれ以上何も言わなかった。


 直人は流し台を見たまま立っていた。


 ベルは一定の間隔で鳴り続けている。


 受話器を取れば、またあの女につながるのだろうか。


 そこは自分の部屋だと言った女。


 知らない男がいると聞いた、と言った女。


 直人は段ボール箱へ手をかけた。


 だが、途中でやめた。


 こんな時間に重い冷蔵庫を動かしてまで、電話へ出る必要はない。


 前と同じ間違い電話なら、出ても面倒なだけだった。


 ベルは一分ほど鳴り続けた。


 やがて、何の前触れもなく止まった。


 部屋の中に、冷房の音だけが残る。


 直人はしばらく待った。


 もう一度鳴るかと思ったが、ベルの音は戻ってこなかった。


「佐伯」


 直人が呼ぶ。


 返事はない。


 佐伯は完全に眠っていた。


 ベッドの莉子も起きる様子はなかった。


 直人はスマートフォンを確認した。


 着信はない。


 時刻は四時を少し過ぎていた。


 やはり、流し台の下の方から、あの電話と同じベルが鳴ったように聞こえた。


 少なくとも、直人にはそう聞こえた。


 電話機が部屋のどこかに残っているだけなら分かる。


 だが、どうして今も電話がかかってくるのか。


 回線がまだ生きているのだろうか。


 前の契約が切られていないのか。


 二年近く空室だったという管理会社の話が正しければ、その間も回線だけが残っていたことになる。


 普通に考えれば、何かがおかしい。


 直人はもう一度、流し台の下へ目を向けた。


 今は確かめられない。


 朝になって佐伯が起きたら、冷蔵庫を動かすのを手伝わせればいい。


 直人は床へ戻った。


 壁際へ横になり、目を閉じる。


 すぐには眠れなかった。


 けれど、佐伯の寝息を聞いているうちに、いつの間にか意識が途切れていた。


     ◇


 次に目を覚ましたとき、カーテンの隙間から強い日差しが差し込んでいた。


 直人は身体を起こし、スマートフォンを見る。


 午前九時を過ぎている。


 ベッドの上では、莉子がタオルケットを頭までかぶっていた。


 佐伯は座布団を抱きしめたまま、床へうつ伏せになっている。


「起きろ」


 直人は佐伯の背中を足で軽く押した。


「佐伯」


「死んでる……」


「しゃべれるなら生きてる」


「頭が痛い」


「自業自得だ」


 ベッドからも、莉子の小さな声が聞こえた。


「水……」


「昨日、置いておいただろ」


「いつの間にかなくなった……」


「お前が飲んだんだよ」


 直人は冷蔵庫から水を取り出し、二人へ渡した。


 佐伯は床に座ったまま、ペットボトルの水を半分ほど一気に飲む。


 莉子もベッドの上で身体を起こしたが、髪はひどく乱れていた。


「今、何時?」


「九時過ぎ」


「朝?」


「見れば分かるだろ」


 莉子は窓の方を見たあと、またベッドへ倒れた。


「帰りたい……」


「帰れ」


「動けない……」


「さっきからそればっかりだな」


 直人は昨夜使ったコップを集めながら、佐伯へ聞いた。


「お前、朝方の電話、覚えてるか?」


 佐伯はペットボトルを持ったまま、目を細めた。


「電話?」


「鳴ってただろ」


「誰の?」


「流し台の下の固定電話」


「固定電話なんかあったのか?」


「お前、自分で『電話だぞ』って言っただろ」


「俺が?」


「そう」


 佐伯はしばらく考えた。


「全然覚えてない」


「寝ぼけてたんじゃない?」


 莉子がタオルケットの中から言った。


「莉子は聞いてないのか?」


「何も聞いてない」


「かなり鳴ってたぞ」


「私、一度寝たらなかなか起きないから」


「それは昨日見て分かった」


 佐伯が頭を押さえながら言った。


「俺も酔ってたからな。電話の夢でも見てたんじゃないか?」


「俺は酔いつぶれてない」


「でも寝てたんだろ?」


「音で起きた」


「じゃあ、隣の部屋の電話とか」


「台所から聞こえた」


「冷蔵庫の音を電話と間違えたんじゃない?」


 莉子が言う。


「あんな音はしない」


「古い冷蔵庫なら、変な音くらいするよ」


「昨日まで電話の音はしなかった」


「昨日まで冷蔵庫の機嫌がよかったのかもしれない」


「機嫌でベルを鳴らすな」


 直人は流し台の前へ向かった。


 積み上げた段ボール箱を見る。


「佐伯」


「何?」


「これ、動かすのを手伝え」


「朝から人使い荒くない?」


「電話があるか確認する」


「本当にあるのか?」


「引っ越してきた日に見た」


「じゃあ、今朝鳴ったって話だけじゃなくて、本当に固定電話を見たのか」


「最初からそう言ってる」


 佐伯は嫌そうに立ち上がった。


「頭痛いんだけど」


「飲み代の貸し一つなんだろ」


「そういうときだけ使うなよ」


 二人で段ボール箱を廊下側へ移した。


 冷蔵庫は一人で持ち上げられるほど軽くはない。


 佐伯が横から押し、直人が反対側から引く。


 床を擦る音を立てながら、冷蔵庫が少しずつ動いた。


「もう少し」


「重い」


「昨日の俺は、お前を四階まで運んだんだぞ」


「それは昨日の俺が悪い」


「今日のお前が、昨日の責任を取れ」


 どうにか収納扉を開けられるだけの隙間ができた。


 直人はしゃがみ、流し台の下の扉を開ける。


 中にあったのは、洗剤と掃除道具だけだった。


「やっぱり、ない」


「前にも探したんだろ?」


 佐伯が尋ねた。


「ああ。でも、今朝の四時ごろにまた鳴ったから、やっぱりここにあるのかと思った」


「それで、もう一度確認したの?」


 莉子が流し台の下をのぞき込む。


「そう。でも、やっぱりない」


 三人は、何もない流し台の下をしばらく見つめていた。


 佐伯が直人の後ろから尋ねた。


「その電話、最初に見つけたときも鳴ったのか?」


「ああ。出たら、女につながった」


「女?」


 莉子が顔を上げた。


「何て言ってたの?」


「ここは自分の部屋だって。知らない男がいると聞いたとも言ってた」


「それ、昨日話してなかったよね?」


「話してない」


「先に言えよ」


 佐伯が言った。


「大したことじゃないと思ってたから」


「電話機がなくなって、同じ音がまた鳴ってるのに?」


「だから今、確認したんだろ」


 莉子が、もう一度流し台の下をのぞき込んだ。


「でも、やっぱり電話はない」


「ああ」


 佐伯は冷蔵庫に寄りかかり、腕を組んだ。


「長野」


「何」


「こういうときのためのオカルト探究会だ」


「昨日も聞いた」


「昨日より状況が悪くなってる」


「何が」


「ない電話が鳴ってる」


「どこかに移動しただけかもしれない」


「部長に見てもらえば分かる」


「分からないだろ」


「玲子先輩なら、電話があった場所を見ただけで何か感じるかもしれない」


 莉子がうなずく。


「夏休み中でも、午後はだいたい部室にいるよ」


「毎日?」


「玲子先輩、暇だから」


「暇じゃない。怪異に備えて待機してるんだ」


 佐伯が訂正した。


「本人はそう言ってるね」


「行かない」


 直人が言うと、佐伯は流し台の下を指した。


「電話機がないんだぞ」


「見れば分かる」


「だったら相談しろよ」


「霊能者に相談して電話が出てくるのか?」


「霊の仕業なら分かる」


「霊の仕業じゃない」


「何で言い切れる?」


「幽霊が電話をかけて、終わったら電話機を持って帰ったっていうのか?」


「そこまでは言ってない」


「同じようなものだろ」


 莉子が頭を押さえながら言った。


「とりあえず、朝ごはん食べない?」


「急に話を変えるな」


「お腹が空いたし、頭も痛い」


「俺も何か食べたい」


 佐伯が言う。


「昨日の店でかなり食べただろ」


「酒を飲んだら全部消えた」


「消えるわけないだろ」


 直人は開けた収納扉を閉じた。


 電話機はない。


 今朝のベルが夢だったとは思わない。


 佐伯も一度は音を聞いている。


 ただし、本人は何も覚えていなかった。


 莉子は最初から熟睡していた。


 結局、直人以外には確かな記憶がない。


「冷蔵庫、戻すぞ」


「朝飯のあとでよくない?」


「通れないだろ」


 二人で冷蔵庫を元の位置へ押し戻した。


     ◇


 三人は近くのファミリーレストランへ入った。


 佐伯は朝食のセットを二つ注文しようとして、直人に止められた。


 莉子はスープを少し飲んだだけで、しばらくテーブルへ突っ伏していた。


「酒、もう飲まない」


「昨日も途中まで、弱くないって言ってたぞ」


「覚えてない」


「長野が来た来た、も?」


「何それ? 面白くないよ」


「覚えてないのか」


「佐伯君が言ってたんじゃない?」


「途中からお前もずっと言ってた」


「嘘」


「本当」


「最悪……」


 莉子は両手で顔を覆った。


 佐伯はトーストを食べながら笑っている。


「楽しかっただろ」


「佐伯君と同じことを言ってたのが一番嫌」


「そこまで嫌がるなよ」


「お前ら二人とも、俺の部屋で連れ込まれたって騒いでたぞ」


 直人が言うと、莉子は顔を上げた。


「私も?」


「佐伯に乗ってた」


「全然覚えてない」


「俺は少し覚えてる」


「お前は朝方の電話を覚えてないだろ」


「大事なことから忘れていくんだよ」


「都合がいいな」


 食事を終え、店の前で三人は別れた。


 佐伯と莉子は駅へ向かう。


「午後、部室に来いよ」


 佐伯が直人へ言った。


「行かない」


「玲子先輩に話すだけでいい」


「勝手に話すな」


「部員になるなら、早い方がいいぞ」


「ならない」


 莉子がまだ少し青い顔で言った。


「見るだけでもいいんじゃない? 玲子先輩、こういう話を聞くと喜ぶから」


「俺は先輩を喜ばせるために電話の相談をするんじゃない」


「直人君が来たら、佐伯君も喜ぶよ」


「それはもっと関係ない」


「じゃあ、午後な」


「話を聞け」


 佐伯は笑いながら手を振った。


 莉子も小さく手を上げ、二人は駅の方へ歩いていった。


     ◇


 四〇一号室へ戻ると、部屋の中にはまだ酒の匂いが残っていた。


 直人は窓を開けた。


 朝よりも日差しが強くなっている。


 床には、佐伯が使った座布団と、丸められたタオルケットが残っていた。


 テーブルの上には空のペットボトルとコップが並んでいる。


 直人は一つずつ片づけ始めた。


 流し台の下に電話はなかった。


 引っ越してきた日に見たことは間違いない。


 受話器も取った。


 相手の女とも話した。


 今朝聞いた音も、あのベルと同じだった。


 それなのに、電話機そのものはない。


 引っ越し業者が別の場所へ動かしたのなら、どこかの段ボール箱に入っているかもしれない。


 だが、電話機を箱へ入れた覚えはない。


 管理会社が回収したのなら、直人の知らない間に部屋へ入ったことになる。


 それも考えにくかった。


 佐伯と莉子は、午後からオカルト探究会の部室へ行くのだろう。


 直人が行かなければ、佐伯は勝手に電話の話を玲子へするかもしれない。


 止めに行くべきか。


 何も言わずに放っておくべきか。


 直人はしばらく考えた。


 霊能者に相談したところで、電話機が見つかるとは思えない。


 どうせ霊の仕業だと言われるだけだ。


 行く必要はない。


 そう決めて、直人はベッドの上のタオルケットを持ち上げた。


 何かが床へ落ちた。


 薄い布だった。


 直人は拾い上げる。


 女性用の下着だった。


 しばらく、それを見つめる。


「何だ、これ」


 部屋の中には、直人しかいなかった。

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