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もう、何がなんだかわからない  作者: 連句貢茶


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6/12

第6話 長野が来た来た

 八月三日 午後八時過ぎ。


 直人は佐伯から渡された入会届を、鞄の内側へしまった。


「考えておくとは言ったけど、入るとは言ってないからな」


「分かってる」


 佐伯は満足そうにうなずいた。


「玲子先輩に会えば、すぐ入りたくなる」


「その自信はどこから来るんだよ」


「会えば分かる」


「会いたくなくなってきた」


 向かいに座っていた莉子が、梅酒のソーダ割りを飲みながら笑った。


「大丈夫。話してることはよく分からないけど、見てる分には面白いから」


「それ、大丈夫じゃないだろ」


 二杯目の飲み物が運ばれてきた。


 直人はレモンサワー、佐伯はビール、莉子は一杯目と同じ梅酒のソーダ割りだった。


 テーブルには唐揚げや焼き鳥、揚げ出し豆腐が並んでいる。


 佐伯が唐揚げを二つ取ろうとして、莉子に箸を止められた。


「一人一個ずつ」


「まだ残ってるだろ」


「三人で五個なんだから、最初は一個ずつ」


「残り二個は?」


「あとで考える」


「今考えよう」


 佐伯が手を伸ばすより先に、直人が一つ取った。


「これで残り一個だな」


「お前、今日の主役だからって遠慮がないな」


「引っ越し祝いなんだろ」


「そうだけど」


「だったら俺が二個でいいだろ」


 佐伯は納得できない顔をしながら、自分の皿の唐揚げを食べた。


 話題は、夏休みの課題へ移った。


 莉子はすでに二つのレポートを終えている。


 直人は一つ目を書き始めたばかりだった。


 佐伯は何もしていなかった。


「まだ八月三日だぞ」


 佐伯が言った。


「もう八月三日だよ」


 莉子が訂正する。


「九月の俺が何とかする」


「九月の佐伯君も、同じことを言ってると思う」


「未来の俺を信じろ」


「現在の佐伯君を信用できないのに?」


「未来は変えられる」


「まず今日帰ったら一行でも書けば?」


「今日は飲んでるから無理だ」


「明日は?」


「二日酔いかもしれない」


「明後日は?」


「明後日のことは、明後日の俺が考える」


「絶対に終わらないね」


 直人は二人の会話を聞きながら、レモンサワーを飲んだ。


 佐伯が突然、直人の方を向いた。


「長野」


「何だよ」


「お前の名字、長野だよな」


「今さら何を確認してるんだ」


「長野県に行ったことある?」


「あるけど」


「やっぱり親近感が湧いた?」


「湧かない」


「長野県から、同じ長野として認められた?」


「誰が認めるんだよ」


「県知事とか」


「会ってない」


「長野県に入るとき、少し緊張しなかった?」


「しない」


「本物の長野に会うわけだろ」


「俺は偽物の長野じゃない」


「埼玉出身なのに?」


「名字と出身地は関係ないだろ」


 莉子が小さく笑った。


「佐伯君、その話どこへ向かってるの?」


「まだ分からない」


「分からないまま始めたの?」


「話しているうちに見つかることもある」


「見つからないと思うよ」


 佐伯は直人の名前を何度か小さく繰り返した。


「長野直人……長野直人……」


「人の名前で遊ぶな」


「長野直人」


「だから何だよ」


 佐伯が急に顔を上げた。


「分かった」


「何が」


「お前のイニシャル、N・Nだろ」


「そうだけど」


「Nは、英語で北を意味するNorthのNだ」


「急に英語の授業を始めるな」


「N・N。North、North」


 佐伯は両手の人差し指を立てた。


「北、北」


「それがどうした」


「きた、きた」


「もう嫌な予感がする」


「長野が来た来た」


 佐伯が一人で笑い始めた。


 直人は無言でレモンサワーを飲んだ。


「何で笑わないんだよ」


「笑うところがないからだよ」


「長野が、来た来た」


「二回言っても変わらない」


 莉子が口元を押さえた。


「莉子まで笑うのか」


「面白くはないよ」


「じゃあ何で笑ってるんだ」


「佐伯君が、すごく真剣な顔で言うから」


「藤崎には分かるんだな」


「全然うまくないからね」


「でも笑っただろ」


「佐伯君を見て笑ったの」


「同じことだ」


「違うと思う」


 佐伯は満足そうにビールを飲んだ。


 直人は早くも、この話が今日一日で終わらない気がしていた。


     ◇


 三杯目を飲み始めたころから、莉子の様子が少しずつ変わり始めた。


 普段よりよく笑う。


 佐伯が大したことを言っていなくても笑い、話しながら何度も佐伯の肩をたたいた。


「痛い、痛い」


「大げさだなあ」


「一回一回が重いんだよ」


「鍛え方が足りないんじゃない?」


「何を鍛えるんだよ」


「肩」


「肩をたたかれるために?」


 莉子がまた笑いながら、佐伯の肩をたたく。


「だから痛いって」


 直人は莉子の顔を見た。


 頬がかなり赤くなっている。


「莉子、酒弱いのか?」


「弱くないよ」


 莉子はすぐに答えた。


「全然弱くない」


「同じことを二回言ったぞ」


「大事なことだから」


「少し水を飲んだ方がいいんじゃないか」


「直人君は心配性だねえ」


 莉子が今度は直人の肩をたたいた。


「痛い」


「大げさ」


「佐伯より強かったぞ」


「平等にしてる」


「何をだよ」


 莉子はしばらく直人の顔を見つめた。


 何かを思い出そうとしているようだった。


 やがて、両手の指を不格好に組み合わせる。


「N・N」


「やめろ」


「North、North」


「佐伯、余計なことを教えるな」


「藤崎、分かってるじゃないか」


「北、北」


 莉子は楽しそうに笑った。


「きた、きた」


「やめろって」


「長野が来た来た」


 佐伯がテーブルをたたいた。


「来ただろ!」


「何で二人で盛り上がってるんだよ」


「埼玉から長野が来た」


 莉子が言った。


「長野県からじゃないところがいいな」


「何もよくない」


「長野君が来た来た」


「俺は最初からここにいる」


「いつ来たの?」


「一時間以上前だよ」


「じゃあ、とっくに来た来ただね」


「意味が分からない」


 二人は顔を見合わせ、また笑った。


 直人は水を注文し、莉子の前へ置いた。


「次はこれを飲め」


「透明だね」


「水だからな」


「お酒じゃない」


「当たり前だ」


「直人君、厳しい」


「このままだと帰れなくなるぞ」


「帰れるよ」


 莉子は水を一口飲んだ。


 その直後、店員を呼び、同じ梅酒を注文した。


「何で頼むんだよ」


「水を飲んだから大丈夫」


「そういう仕組みじゃない」


 佐伯もビールからハイボールへ変えていた。


「お前も少し抑えろよ」


「今日は引っ越し祝いだぞ」


「俺よりお前たちの方が飲んでるじゃないか」


「主役は介抱される側だからな」


「今のところ、俺が介抱する側になりそうなんだけど」


「心配するな」


 佐伯は自信ありげに胸を張った。


「俺は酔ってない」


「酔ってるやつは、だいたいそう言う」


「まっすぐ歩けるぞ」


「まだ座ってるだろ」


 佐伯は立ち上がろうとした。


 テーブルへ膝をぶつけ、そのまま座り直す。


「今のは机が近かった」


「最初から同じ場所にある」


「少し動いたかもしれない」


「動いてない」


「怪異だな」


「何でも怪異にするな」


 莉子が大きくうなずいた。


「テーブルが動く居酒屋」


「面白そう」


「面白くない」


「玲子先輩に報告しよう」


「絶対にするな」


     ◇


 時間がたつにつれ、会話はまともな形を保てなくなっていった。


 佐伯は同じ話を何度も繰り返し、莉子はそのたびに初めて聞いたように笑った。


「長野」


「今度は何だ」


「お前の部屋、大学から十五分なんだよな」


「そうだよ」


「近いな」


「さっきも言った」


「見に行こう」


「行かない」


「引っ越し祝いなのに、まだ部屋を見てない」


「今のお前たちを入れたくない」


「何でだよ」


「自分の状態を見ろ」


 佐伯は自分の両腕を見た。


「あるな」


「何が」


「腕」


「そういう話じゃない」


 莉子も片手を上げた。


「私も見たい」


「駄目」


「四階なんだよね?」


「そうだけど」


「エレベーターがない」


「ない」


「大変だ」


「だから来なくていい」


「前の人がいっぱいいた部屋」


「いっぱいいたとは決まってない」


「男の人と、女の人と、誰もいない人」


「誰もいない人って何だよ」


「分からない」


「分からないなら言うな」


 佐伯が真剣な顔でうなずいた。


「調査が必要だ」


「必要ない」


「オカルト探究会として」


「まだ俺は入ってない」


「入会届を持ってるだろ」


「持ってるだけだ」


「もう半分は部員だな」


「紙を持っただけで半分入るサークルなんかあるか」


「残り半分は名前を書けばいい」


「書かない」


 莉子が直人の鞄を見た。


「今書く?」


「書かない」


「私が書こうか?」


「本人以外が書くな」


「字は似せられるよ」


「何で俺の字を知ってるんだ」


「知らないけど、酔って書いたことにすれば大丈夫」


「犯罪を雑に成立させようとするな」


 佐伯が感心したようにうなずく。


「藤崎、頭いいな」


「今の話を聞いて、どこでそう思ったんだよ」


 莉子はまた笑い、テーブルへ頬杖をついた。


「ねえ、長野君」


「何だよ」


「知らない男の人の部屋に行くの、ちょっと怖いね」


「だったら来るな」


「でも、佐伯君もいるから大丈夫」


「俺も知らない男に入ってるのか?」


「佐伯君は、佐伯君」


「説明になってない」


「直人君は長野君」


「それはそうだな」


「長野が来た来た」


「そこへ戻るな」


 二人はまた笑い出した。


 直人は時計を確認した。


 そろそろ店を出なければ、二人を帰すのが面倒になる。


 もう十分面倒だったが、これ以上悪化する前に切り上げる必要があった。


「帰るぞ」


「どこへ?」


 莉子が尋ねた。


「それぞれの家へ」


「直人君の家?」


「違う」


「長野の家に決まったな」


 佐伯が言った。


「決まってない」


「多数決だ」


「二人とも酔ってるから無効」


「三人中二人」


「無効だ」


「民主主義を否定するのか」


「酔っ払いの投票を否定してるんだよ」


 直人が伝票を取ろうとすると、佐伯が先に奪った。


「今日は俺たちが払う」


「割り勘でいい」


「引っ越し祝いだぞ」


 莉子も鞄からスマートフォンを取り出した。


「私と佐伯君で払うって、最初に決めたから」


「そんな話、聞いてない」


「直人君には言ってないから」


「何で隠すんだよ」


「驚かせようと思って」


「会計で驚かせる必要あるか?」


 佐伯がまとめて支払い、莉子がその場で半額を送金した。


 画面を何度も確認していたが、送った金額だけは合っていた。


「こういうところは間違えないんだな」


「しっかりしてるから」


 莉子はスマートフォンを鞄へ入れようとして、隣の椅子の上へ置いた。


「鞄は反対側だぞ」


「あれ?」


「しっかりしてないだろ」


     ◇


 店を出ると、夜になっても空気はまだ暑かった。


 佐伯は入口を出たところで足元をふらつかせ、看板へぶつかりそうになった。


「危ない」


 直人が腕をつかむ。


「看板が近づいてきた」


「お前が近づいたんだよ」


「怪異だ」


「違う」


 莉子は一人で歩けると言い張った。


 三歩ほど進んだところで身体が斜めになり、直人の袖をつかむ。


「ほら、歩けないだろ」


「歩けるよ」


「今、俺につかまってるじゃないか」


「直人君が近くにいたから」


「いなかったら倒れてただろ」


「倒れる前に何かにつかまる」


「その何かが俺なんだよ」


 駅へ連れていくことも考えた。


 しかし佐伯はまともに歩けず、莉子も直人の袖を離そうとしない。


 この状態で二人を別々の電車へ乗せる方が危険だった。


「タクシーで帰れ」


「住所が分からない」


 佐伯が言った。


「自分の家だろ」


「分かるけど、今は思い出したくない」


「何だ、その理由」


「遠い」


「電車で帰れる距離だろ」


「長野の家は近い」


「だから何だ」


「行こう」


「行かない」


 莉子も直人の袖を引いた。


「引っ越し祝いの続き」


「もう終わった」


「部屋を見るまでが引っ越し祝いだよ」


「そんな決まりはない」


「今決めた」


「酔っ払いが勝手に決めるな」


 結局、直人は二人をメゾン青葉まで連れていくことになった。


 佐伯は直人の肩へ腕を回し、ほとんど体重を預けている。


 莉子は反対側から直人の袖を握ったまま離れない。


「自分で歩け」


「歩いてる」


 佐伯は答えたが、足はほとんど動いていなかった。


「長野が来た来た」


「今は長野がお前を運んでるんだよ」


「頼りになるな、長野」


「離れろ。暑い」


「親友だろ」


「今日初めて聞いた」


「俺たち、いつから友達だったっけ」


「今それを聞くな」


 莉子が反対側から直人の顔を見上げる。


「私たちは?」


「大学に入ってからだろ」


「正解」


「何の確認だよ」


「直人君、ちゃんと覚えてるね」


「忘れるほど昔じゃない」


「じゃあ、長野が来た来た」


「どうしてそこに繋がるんだ」


 佐伯が笑い、莉子もつられて笑った。


「お前ら、道に置いていくぞ」


「ひどい」


「冷たいねえ」


「だったら自分で歩け」


     ◇


 メゾン青葉へ着いたころには、直人まで汗だくになっていた。


 問題は、部屋が四階にあることだった。


「階段だぞ」


 直人が言うと、佐伯は建物を見上げた。


「長いな」


「四階だからな」


「エレベーターは?」


「ないって言っただろ」


「怪異だ」


「古い建物では普通だ」


 二階の踊り場で佐伯が座り込もうとした。


 三階では莉子が手すりにもたれ、動かなくなった。


「もう無理」


「あと一階だ」


「一階が遠い」


「目の前だよ」


「階段が揺れてる」


「揺れてるのはお前だ」


「建物かもしれない」


「違う」


 二人をどうにか四階まで引き上げ、直人は四〇一号室の前で息を整えた。


 壁へ寄りかからせてから、鍵を開ける。


「着いたぞ」


 佐伯は薄く目を開けた。


「ここ、どこ……」


「俺の部屋」


「知らない男の部屋に連れ込まれちゃった……」


 莉子も壁にもたれたまま顔を上げた。


「私も……」


「お前らが来るって言ったんだろ」


「怖いな、藤崎……」


「怖いねえ……」


「本当に廊下へ置いていくぞ」


 直人は二人を部屋へ押し込んだ。


 佐伯は靴を片方だけ脱いだところで、その場へ座り込んだ。


「もう片方も脱げ」


「片方あれば十分だろ」


「何に十分なんだよ」


 直人が残った靴を脱がせる。


 莉子は壁へ手をつきながら数歩進み、そのままベッドへ倒れ込んだ。


「莉子、靴」


「脱いだよ」


「まだ履いてる」


「これは足」


「靴だよ」


 直人は莉子を起こし、玄関まで戻して靴を脱がせた。


 再びベッドへ横になると、莉子は枕へ顔を押しつけた。


「水は?」


「いる……」


 直人がコップを渡すと、莉子は両手で受け取った。


 一口だけ飲み、直人へ返す。


「もう無理……」


「何が」


「全部……」


「雑すぎるだろ」


 佐伯にも水を飲ませようとしたが、肩を揺すっても目を開けない。


「佐伯」


「……長野が」


「何だよ」


「来た来た……」


「もういい」


 佐伯はそれきり動かなくなった。


 直人は佐伯を座布団の上まで引きずり、莉子にはタオルケットをかけた。


 佐伯の鞄を玄関脇へ置き、莉子の鞄もベッドのそばへ置く。


 部屋へ行きたいと言い出したのは二人だった。


 自分たちで歩けなくなるまで飲んだのも二人だった。


 それなのに、なぜ直人が靴を脱がせ、水を用意し、寝る場所まで整えているのか。


 考えても答えは出なかった。


 数分後には、二人とも完全に眠っていた。


 ベッドは莉子が使い、床の中央には佐伯が転がっている。


 直人が横になれるのは、壁際に残った狭い場所だけだった。


 座布団を一枚引き寄せ、床へ横になる。


 部屋の中には、二人分の寝息が響いていた。


 直人も目を閉じた。


 しばらくすると、四〇一号室は静かになった。

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