第5話 引っ越し祝い
八月三日 午後七時。
「引っ越しおめでとう」
三つのグラスが、軽い音を立ててぶつかった。
直人は、大学の近くにある居酒屋で、佐伯と藤崎莉子に挟まれて座っていた。
名目は、直人の引っ越し祝いだった。
会計は佐伯と莉子が持つと言うので、直人も素直に参加している。
「やっと大学の近くに来たんだよな」
佐伯がビールを一口飲んだ。
同じ史学科の二年生で、直人とは一年のころから授業がよく重なっている。
「歩いて十五分くらい」
「いいな。朝、かなり楽になるじゃん」
「前は電車だったんだっけ?」
莉子が尋ねた。
彼女も同じ学部の二年生で、佐伯を通じて直人とも話すようになった。面白そうな話を見つけると、内容を理解するより先に加わってくるところがある。
「乗り換えが一回あった」
「じゃあ、引っ越して正解だね」
「四階まで階段だけどな」
「そのくらい運動だと思えばいいだろ」
「毎日やる側は簡単に言えないんだよ」
運ばれてきた枝豆を、佐伯がすぐに自分の前へ寄せた。
「それで、家賃はいくらだっけ」
「四万九千円」
佐伯の手が止まった。
「安いな」
「本当に安いね」
莉子も素直に驚いた。
「一DKなんだろ?」
「そう」
「大学まで徒歩十五分で?」
「そう」
佐伯が少しだけ声を落とす。
「事故物件じゃないだろうな」
「それはない。確認した」
「管理会社に?」
「不動産会社にも。事件も事故も、告知事項もなし」
「じゃあ、普通に掘り出し物件じゃん」
莉子が言った。
「掘り出し物だね」
「そうかもしれない」
直人も、今のところはそう考えていた。
大学には近い。
家賃は安い。
室内はきれいにリフォームされている。
四階まで階段という欠点を除けば、条件はかなりいい。
注文した料理が次々と運ばれてきた。
焼き鳥。
揚げ出し豆腐。
フライドポテト。
佐伯が勝手に頼んだ大盛りの唐揚げ。
「これも引っ越し祝いだからな」
佐伯が唐揚げを取りながら言った。
「ほとんどお前が食べるだろ」
「俺が食べることで祝ってる」
「どういう仕組みだよ」
「直人君も食べないと損だよ。今日は私たちが払うんだから」
莉子に言われ、直人も唐揚げを一つ取った。
「そこはちゃんと払ってくれるんだな」
「引っ越し祝いだからね」
「俺も最初からそう言ってる」
「食べることで祝うとは言ってたけど」
それからしばらくは、大学の授業や夏休みの課題について話した。
佐伯が提出期限を一週間勘違いしていたこと。
莉子が面白そうという理由だけで、来期の講義を決めようとしていること。
直人がまだ段ボールを半分も開けていないこと。
引っ越し祝いらしい、普通の会話だった。
直人は二杯目のグラスを半分ほど飲んだところで、ふと思い出した。
「そういえば、あの部屋、少しだけおかしなことがある」
佐伯がすぐに顔を上げた。
「何だよ」
「前に住んでた人の話」
「事故物件じゃないって確認したんだろ?」
「事故の話じゃない。同じ階の人に聞いたら、全員違うことを言った」
莉子がグラスを置いた。
「全員?」
「男が住んでたと言う人もいれば、ずっと空室だったと言う人もいた。若い女が住んでたと言う人もいるし、短期間で何人も入れ替わってたように見えたって人もいる」
「何それ、面白い」
莉子が身を乗り出した。
「面白がる話か?」
「だって、全員違うんでしょ?」
「管理会社の記録では、二年くらい前に男が退去して、それから俺が入るまで空室だ」
「じゃあ、女の人を見たって話は?」
「見間違いじゃないか」
「一人だけ?」
「女を見たと言った人は二人いた。名前は別だったけど」
「ますます面白いじゃん」
莉子は嬉しそうだった。
佐伯は、さっきまでとは違う真面目な顔で直人を見ていた。
「その話、玲子先輩に相談した方がいいかもしれない」
「玲子先輩?」
「オカルト探究会の部長だ」
「お前が入ってるところか」
「ああ。前にも、そういう妙なことで困ってる人の相談を受けたことがある」
「解決したのか?」
「した。俺も一緒にいた」
佐伯が見たと言うなら、少なくとも、そういう相談を受けたこと自体は本当なのだろう。
「どんな相談だったんだ?」
「誰もいない部屋から音がするとか、夜になると妙な気配を感じるとか。玲子先輩が現場を見て、原因を突き止めた」
「原因って?」
「霊だ」
直人は焼き鳥を一本取った。
「それは解決したことになるのか?」
「なった。玲子先輩が処置してから、起きなくなったからな」
「そうなのか」
直人はそれ以上否定しなかった。
自分が見ていないことについて、佐伯が嘘をついていると決める理由もない。
「お前の部屋の話も、玲子先輩なら何か分かるかもしれない」
「玲子先輩、こういう話は大好きだよ」
莉子が横から言った。
「相談したら、絶対に食いつくと思う」
「好きなのか」
「ものすごく」
「何も起きないと機嫌悪くなるくらい」
佐伯が言うと、莉子も笑ってうなずいた。
佐伯はそこで言葉を切った。
グラスを持ったまま少し迷い、やがて直人へ向き直る。
「それと、これは相談とは別の話なんだけど」
「何だ」
「オカルト探究会、先週二人辞めたんだ」
「そうなのか」
「大学の正式な団体として残るには、最低でも四人必要なんだけど、今は一人足りない」
さっきよりもさらに真面目な声だった。
「活動に毎回来てくれとは言わない。名前だけっていうのも変だけど、来られるときだけでいい」
佐伯は鞄を開け、中から一枚の紙を取り出した。
オカルト探究会入部届。
そう書かれている。
「相談のことは、俺から玲子先輩に話しておく。だから、もしよかったら、入ることも考えてくれないか」
佐伯は入部届を差し出し、軽く頭を下げた。
最初からこれを渡すつもりだったらしい。
だが、さっきまでの話を利用して、無理に入部させようとしているようには見えなかった。
本当に人数が足りなくて困っているのだろう。
「入ると結構面白いよ」
莉子も言った。
「莉子も入ってるのか」
「うん。私も面白そうだったから入ったよ」
「それだけ?」
「それ以外に必要?」
「入部理由としては軽すぎないか」
「でも、実際に結構面白いよ。少なくとも退屈はしない」
「活動内容は?」
「オカルトっぽいことを探したり、見に行ったり」
「説明が雑だな」
「その方が面白そうでしょ?」
「分からない方を面白がるなよ」
直人は佐伯から入部届を受け取った。
「今すぐ書かなくてもいいんだろ」
「もちろん。考えてくれるだけでいい」
「じゃあ、考えておく」
「ありがとう」
「まだ入るとは言ってないからな」
「分かってる」
佐伯はそう答えたが、少し安心した顔をしていた。
直人は入部届を二つ折りにし、鞄へ入れた。
前の住人について、全員の証言が違う部屋。
それをオカルト探究会へ相談する必要があるのか、直人にはまだ分からなかった。
ただ、佐伯がそこまで言う相手が、どんな人物なのかには少しだけ興味があった。




