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もう、何がなんだかわからない  作者: 連句貢茶


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4/12

第4話 告知事項なし

 七月二十六日 午前十時。


 直人は、机の上に契約書類を広げていた。


 クリアファイルの横には、流し台の下から見つけた封筒が置いてある。


 表に書かれているのは、一文字だけだった。


 綸。


 直人はそれを「りん」と読んでいた。


 正しいかどうかは分からない。名字なのか名前なのかも分からなかった。


 四階の住人から聞いた話も、それぞれ違っている。


 西川は、水野という男性が住んでいたと言った。


 宮原は、自分が入居してから四〇一号室はずっと空室だったと言った。


 榎本は、一昨日の朝にも、穂積という若い女性を見たと言った。


 相原には、短期間で住人が何度も入れ替わっているように見えたらしい。


 倉田は、伊東という女性がいたと言った。本人から名乗られたらしい。ただ伊藤かもしれない。


 聞いた内容は違っていたが、直人が考えても正しい記録は分からない。


 契約書類から、不動産会社の電話番号を探した。


 今後も住む部屋なのだから、前の入居者について説明が食い違っていることくらいは確認しておいた方がいい。


 それに、古い固定電話と封筒をどう処分すればいいかも聞いておきたかった。


 直人は携帯電話から、不動産会社へ電話をかけた。


 数回の呼び出し音のあと、受付の女性が出た。


『お電話ありがとうございます』


「先日、メゾン青葉四〇一号室を契約した長野です。担当の方はいらっしゃいますか」


『長野様ですね。少々お待ちください』


 短い保留音が流れた。


 直人は机の上の封筒を裏返した。


『お電話代わりました』


「長野です。契約した部屋について、少し確認したいことがあるんですが」


『はい。何か不具合がございましたか』


「不具合ではないです。前の入居者について、同じ階の人から聞いた話が少し違っていたので」


『前の入居者様ですか』


「はい。個人情報になると思うので、答えられる範囲でいいんですけど」


『確認いたします』


 電話の向こうで、キーボードを打つ音が聞こえた。


『メゾン青葉四〇一号室ですね』


「そうです」


『長野様の前は、男性の単身入居者様でした』


「退去したのは二年くらい前ですか」


『はい。おおよそ二年前です。その後は、長野様が契約されるまで空室となっています』


「水野さんという人ですか」


 担当者は少し間を置いた。


『以前の入居者様のお名前については、こちらからお答えすることができません』


「そうですか」


 直人はそれ以上聞かなかった。


 西川は水野を知っていた。正式な前の入居者が誰なのかは、不動産会社が答えられないなら仕方がない。


「その人が退去したあと、女性が住んだ記録はありませんか」


『ございません』


「短期間だけ住んだ人も?」


『短期契約の記録もございません』


「同じ階の人が、穂積と名乗った若い女性を見たと言っていたんですが」


『穂積様、ですか』


「はい」


『女性の契約者や、同居人として登録された方はいらっしゃいません』


「伊東と名乗った女性は?」


『伊東様ですか』


「伊藤かもしれないらしいんですけど」


 再びキーボードの音がした。


『伊東様、伊藤様のどちらも、四〇一号室の契約者にはいらっしゃいません』


「そうですか」


 直人は机の上に置いたメモへ、短く書いた。


 女性の契約なし。

 短期契約なし。

 伊東、伊藤なし。


「ほかに、男性や女性が短期間ずつ部屋を使っていた記録はありませんか」


『正式な入居者としては、ございません』


「内見や工事で、人が出入りすることは?」


『それはございます。空室期間中に内見や清掃、設備点検、リフォームなどが行われることはあります』


「分かりました」


 相原が見た男女が誰だったのかは、それだけでは分からない。


 ただ、不動産会社の記録では入居者ではなかった。


「もう一つ、部屋に古い封筒が残っていたんですが」


『封筒ですか』


「流し台の下にありました。住所も差出人もなくて、表に一文字だけ書かれています」


『何という文字でしょうか』


「綸です」


『綸、ですか』


「たぶん、りんと読むんだと思います。名字か名前かは分かりません」


『以前の入居者様の残置物かもしれませんが、その文字だけでは確認できませんね』


「処分しても大丈夫ですか」


『念のため、管理会社へ写真を送っていただけますか。確認後に処分方法をご案内します』


「分かりました」


「それと、同じ場所に古い固定電話があったんですけど」


『固定電話ですか』


「はい。灰色の古い電話機です」


『物件の設備には含まれていないと思います』


「引っ越しの日に、その電話に電話がかかってきたんです」


『回線を契約されたのでしょうか』


「していません」


『そうしますと、通常は着信しないと思いますが』


「僕もそう思います」


 直人は、電話をかけてきた女との会話を思い出した。


 自分の部屋だと言い、知らない男がいると聞いたと言っていた。


 名前は聞いていない。


『相手のお名前は分かりますか』


「分かりません。名乗らなかったので」


『電話番号は表示されていましたか』


「見ていません」


『そうですか。電話機についても、管理会社へ確認していただけますか』


「分かりました」


「この部屋、告知事項はないんですよね」


『はい。契約時にもご説明しておりますが、告知事項に該当する事実はございません』


「事件や事故があった部屋でもない?」


『ございません』


「そうですか」


 聞くことは、それで終わった。


 直人は礼を言い、電話を切った。


 正式な記録では、前の男性入居者が二年ほど前に退去し、そのあとは空室だった。


 女性の契約者はいない。


 短期契約もない。


 告知事項もない。


     ◇


 直人は契約書類をクリアファイルへ戻し、次に管理会社の番号を探した。


 不動産会社から言われたとおり、封筒と固定電話について確認する必要がある。


 管理会社へ電話をかけ、物件名と部屋番号を伝えた。


『メゾン青葉四〇一号室ですね』


「はい。部屋に残っていた物について確認したいんですが」


『どのような物でしょうか』


「流し台の下に、古い固定電話と封筒がありました」


『固定電話と封筒ですか』


「はい。設備ではないと不動産会社から聞きました」


『少々お待ちください。室内の確認記録を調べます』


 電話の向こうが静かになった。


 しばらくして、担当者が戻ってきた。


『お待たせしました。こちらの記録では、入居前の清掃時に残置物はなかったことになっています』


「そうですか」


『封筒の写真を送っていただけますか』


「分かりました」


『固定電話も一緒にお願いします』


「今確認します」


 直人は携帯電話を耳に当てたまま、台所へ向かった。


 流し台の前には、まだ開けていない段ボール箱が一つ置いてある。


 箱を横へずらし、収納の扉を開けた。


 中には水道管が通っていた。


 昨日入れた洗剤とスポンジ。


 丸めたビニール袋。


 それだけだった。


 固定電話は見当たらない。


 直人は少し腰をかがめ、収納の奥をのぞいた。


 右側にも左側にもない。


『長野様?』


「電話機がありません」


『別の場所へ移された可能性はありませんか?』


「引っ越しの作業中だったので、業者の人が動かしたのかもしれません」


『お荷物の中へ入っている可能性もございますね』


「そうですね」


 直人は収納の扉を閉めた。


『封筒はありますか?』


「あります」


『そちらだけ、写真をお送りください。確認してご連絡します』


「分かりました」


「前の入居者が退去してから、二年くらい空室だったという記録で合っていますか」


『はい。正式な入居記録では、そのようになっています』


「一昨日の朝方、若い女性が四〇一号室から出てくるところを見たという人がいるんですが」


『一昨日ですか?』


「はい。僕の引っ越しが始まる前です」


『一昨日の朝、管理会社の担当者が入室した記録はありません』


「女性の作業員や、内見の人も?」


『長野様の契約後ですので、内見はありません。清掃や工事もすでに完了しております』


「そうですか」


『どなたか、部屋を間違えたのではないでしょうか』


「そうかもしれません」


 榎本は四〇一号室から出てきたと断言していた。


 だが、管理会社の記録には誰もいない。


 それ以上確認できることはなかった。


「短期間に何人かの男女が部屋を使った記録もないんですよね」


『ございません』


「穂積や、伊東という名前にも心当たりはないですか?」


『正式な入居者にはいらっしゃいません』


「分かりました」


 担当者に礼を言い、電話を切った。


 直人は携帯電話で封筒を撮影し、指定されたメールアドレスへ送った。


 そのあと、流し台の前にある段ボールを一つだけ開けた。


 中に入っていたのは、鍋とフライパン、それから布巾だった。


 固定電話はない。


 隣の箱まで開けることはしなかった。


 引っ越し作業中に、どこかへ移されたのだろう。


 必要のない古い電話機なので、見つからなくても困ることはなかった。


 直人は机へ戻った。


 メモには、不動産会社と管理会社から聞いた内容が残っている。


 二年前から空室。

 女性の入居記録なし。

 短期入居の記録なし。

 告知事項なし。


 西川と宮原の話は、管理会社の記録から大きく外れてはいなかった。


 だが、榎本、相原、倉田から聞いた話とは合わない。


 人の記憶と管理会社の記録が食い違うことくらいはあるだろう。


 直人には、これ以上確かめる方法もなかった。


 今すぐ生活に困ることもない。


 封筒は管理会社から返事が来るまで保管しておけばいい。


 固定電話も、そのうち段ボールを開けていれば出てくるかもしれない。


 直人はメモを契約書類と一緒にクリアファイルへ挟んだ。


 封筒は机の引き出しへ入れた。


 引き出しを閉めると、机の上には何も残らなかった。


 時刻はまだ午前十一時を少し過ぎたところだった。


 冷蔵庫の中には、昨日買った水と弁当しかない。


 午後のうちに、洗剤と食料を買い足しておく必要があった。


 大学の夏季休暇前の課題も残っている。


 直人は携帯電話のメモに、買う物を入力した。


 米。

 卵。

 麦茶。

 ゴミ袋。

 延長コード。


 最後に、カーテンと書き足した。


 四〇六号室の倉田が、角部屋は朝日が入ると言っていた。


 一昨日の電話も、住人たちの話も、管理会社の記録も、まだよく分からない。


 けれど、今の直人に必要なのは、四〇一号室の前の住人ではなく、今夜の夕食だった。


 直人は財布を持ち、買い物へ出た。

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