第3話 四階の住人(二)
七月二十五日 午後一時。
インターホンを押して少し待つと、四〇四号室の中から、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。
「はい」
扉を開けたのは、二十代後半くらいの女性だった。
髪を後ろでまとめているが、額の横に何本か垂れている。玄関の奥からはテレビの音と、小さな子どもの声が聞こえていた。
「隣の四〇一号室に越してきた長野です。昨日は引っ越しで騒がしくして、すみませんでした」
「ああ、昨日の」
女性は納得したようにうなずいた。
「四〇四の榎本です」
「長野です。よろしくお願いします」
直人は紙袋から菓子折りを一つ取り出した。
「これ、よかったら」
「すみません。ありがとうございます」
榎本は菓子折りを受け取り、直人の顔を見た。
「学生さんですか?」
「はい。近くの大学に通っています」
「やっぱり。お若いから、そうかなと思って」
「大学二年です」
「じゃあ、初めての一人暮らしですか?」
「いえ。今までは実家から通っていたんですけど、少し遠かったので」
「ご実家はどちらなんですか?」
「埼玉です」
「埼玉からだと、場所によっては毎日通うのも大変ですよね」
「乗り換えもあるので、朝が早くて」
「大学に近い方が楽ですよ。忘れ物をしても戻れますし」
榎本が笑った。
「私、学生のころ、家を出てから教科書を忘れたことに気づいて、そのまま諦めたことがあります」
「僕も何度かあります」
「近ければ取りに戻れますね」
そのとき、玄関の奥から、幼い女の子が顔を出した。
「ママ、ジュース」
「あとでね」
「いま」
「お客さんがいるでしょう」
女の子は直人をじっと見たあと、不満そうな顔をして奥へ戻っていった。
「すみません。毎日あんな感じで」
「いえ」
「昨日から住んでいるんですよね?」
「はい。昨日の午後に引っ越してきました」
「あれ」
榎本は四〇一号室の方へ目を向けた。
「じゃあ、ほづみさん、ずいぶん急に引っ越したんですね」
直人は一瞬、返事をしなかった。
「ほづみさん?」
「前に四〇一にいた女の人です」
「女性が住んでいたんですか?」
「ええ」
榎本は当たり前のことを話すように答えた。
「昨日の朝方にも見かけましたよ」
「昨日?」
「はい。四〇一から出てきて、階段を下りていきました。午後になったら長野さんの荷物が運ばれてきたので、朝のうちに出ていったのかなと思っていました」
「その人が、ほづみさん?」
「そうです。本人から聞きましたから」
「本人から?」
「最初に会ったときに、『四〇一のほづみです』って挨拶されたんです」
榎本の答えに迷いはなかった。
「漢字は分かりますか?」
「たぶん、稲穂の穂に、積む、じゃないですか」
榎本は指先で空中に文字を書くような仕草をした。
「穂積さん。普通ならそれだと思いますけど」
「本人に漢字まで確認したんですか?」
「そこまでは聞いていません。でも、ほづみさんで間違いないですよ」
玄関の奥から、三十代くらいの男が顔を出した。
Tシャツに短パンをはき、片手にマグカップを持っている。
「誰?」
「四〇一に越してきた長野さん」
「ああ、新しい人」
男は直人へ軽く頭を下げた。
「夫です」
榎本が簡単に紹介した。
夫は妻が持っている菓子折りを見てから、四〇一号室へ目を向けた。
「じゃあ、穂積さん、急に引っ越したんだな」
「そうみたい」
「可愛い子だったのに、残念だなあ」
「何が残念なの」
「いや、別に」
夫はマグカップへ口をつけた。
「ご主人も、その人に会ったことがあるんですか?」
直人が聞くと、夫はうなずいた。
「何度かありますよ。廊下ですれ違ったくらいですけど」
「昨日の朝も?」
「昨日は寝てました。見たのは妻です」
「でも、ほづみさんで間違いありません」
榎本は当然のことを話すように言った。
「昨日の朝まで、普通に四〇一にいた人ですよ」
「そうですか」
直人は、それ以上は何も言わなかった。
榎本夫妻は、二人ともその女性の存在を疑っていない。
今ここで、四〇二号室と四〇三号室で聞いた話を出しても、会話が長くなるだけだった。
「ありがとうございました。これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「よろしく」
直人は頭を下げ、四〇四号室を離れた。
◇
四〇五号室のインターホンを押すと、しばらくして男の声が返ってきた。
『はいはい』
やや乱暴な足音が近づき、扉が開いた。
出てきたのは、四十歳前後に見える男だった。灰色のTシャツに黒いジャージをはき、短い髪には寝癖が残っている。
「四〇一号室に越してきた長野です。昨日は引っ越しで騒がしくして、すみませんでした」
「ああ、昨日の」
男は直人の後ろから、四〇一号室の方を見た。
「四〇五の相原です」
「長野です。よろしくお願いします」
直人が菓子折りを差し出すと、相原は片手で受け取った。
「どうも。わざわざすみません」
「この辺に越してきたばかりなので、まだよく分からないんですけど、近くに遅くまで開いているスーパーはありますか?」
「スーパーなら駅の反対側ですね。歩いて十分くらいかな」
「昨日行ったところかもしれません」
「大通り沿いの店ですか?」
「はい」
「そこが一番近いです。ただ、夜になると弁当はほとんど残ってないですよ」
「昨日もかなり少なかったです」
「学生が多いから、すぐなくなるんですよ。コンビニなら角を曲がったところにありますけど、毎日だと高いですからね」
「なるべく自炊するつもりです」
「偉いですね。俺はもう、ほとんどコンビニです」
相原は手にした菓子折りを見た。
「これも今日の昼に食べさせてもらいます」
「どうぞ」
「それにしても、四〇一、また人が入ったんですね」
「また?」
直人が聞き返すと、相原は四〇一号室へ目を向けた。
「前から、住んでいる人がころころ変わっているように見えたんですよ」
「短期間でですか?」
「たぶん。一週間なのか、一か月なのか、そこまでは知りませんけど」
「何人くらいですか?」
「三人か四人だったかな。もっといたかもしれません」
「同じ人の友人や家族ではなく?」
「最初はそう思いましたよ」
相原は菓子折りの箱の角を指でなぞった。
「でも、毎回違う人が、生活するような荷物を持ってくるんです。大きい鞄とか、服が入っていそうな袋とか」
「男性も女性も?」
「いましたね。若い人もいたし、もう少し年上の人もいた」
「四〇一へ入るところを見たんですか?」
「何度かは」
「鍵は?」
「自分で開けていたように見えました」
相原は少し考えた。
「朝に出ていく人もいたし、夜に帰ってくる人もいました。友達が遊びに来てるって感じではなかったですね」
「それぞれが住んでいるように見えた?」
「そうですね」
「短期賃貸だったんでしょうか」
「俺はそういう部屋なのかと思ってました」
「不動産会社からは、二年くらい空室だったと聞いています」
相原は眉を上げた。
「空室?」
「はい」
「それはないでしょう」
相原は迷わず答えた。
「誰も住んでなかったと言われても、俺は信じないですよ。何度も見てますから」
「名前を知っている人はいますか?」
「名前までは一人も知りません」
「水野さんという男性は?」
「聞いたことないですね」
「ほづみさんという女性は?」
「その名前も知らないです」
相原は少し考えてから続けた。
「顔を見れば、見覚えがあるかもしれませんけど。女の人も一人じゃなかった気がするので」
「そうですか」
「まあ、俺も毎日見張っていたわけじゃないです」
相原は菓子折りを軽く持ち上げた。
「住人が短期で入れ替わっているように見えた。それだけです」
「分かりました。ありがとうございます」
「いえ。これからよろしく」
「よろしくお願いします」
扉が閉まった。
直人は四〇五号室の前で、紙袋の中を覗いた。
残っている菓子折りは一つ。
あと一部屋だった。
◇
四〇六号室の玄関脇には、小さな宅配ボックスと黒い傘立てが置かれていた。
直人がインターホンを押すと、落ち着いた女の声が返ってきた。
『はい』
「四〇一号室に越してきた長野です。引っ越しのご挨拶に来ました」
少しして扉が開いた。
出てきたのは、三十代後半くらいの女性だった。黒い髪を肩のあたりで切りそろえ、細い縁の眼鏡をかけている。
「四〇六の倉田です」
「長野です。昨日は騒がしくして、すみませんでした」
「いえ。昼間でしたから」
直人が最後の菓子折りを渡すと、倉田は丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
倉田は直人を見て、少し首を傾げた。
「学生さんですか?」
「はい。近くの大学に通っています」
「それなら、ここは便利でしょうね。歩いて通える距離ですか?」
「十五分くらいです」
「近いですね。何を勉強しているんですか?」
「文学部で、歴史関係です」
「歴史ですか」
倉田は少し考えた。
「日本史とか、世界史とか?」
「どちらもやりますけど、今は近代史の講義が多いです」
「大学の歴史は、高校までとは全然違うんでしょうね」
「細かい資料を読むことが多いです」
「私には難しそうです」
倉田は小さく笑った。
「昨日からこちらに?」
「はい。昨日の午後に引っ越してきました」
「そうですか」
倉田は四〇一号室の扉へ目を向けた。
「では、伊東さんとは、入れ違いだったんですね」
直人は顔を上げた。
「伊東さん?」
「前に四〇一にいた女の人です」
「その人が、伊東さんという名前だったんですか?」
「ええ。最初に会ったとき、名前を尋ねたら、伊東ですと名乗られました」
「漢字も分かるんですか?」
「いえ。漢字を見たわけではありません」
倉田は眼鏡の位置を直した。
「東の伊東か、藤の伊藤か、そこまでは分かりませんけど。たぶん、東の伊東さんだったと思います」
「どうしてですか?」
「特に理由はありません。何となく、そちらだと思っていただけです」
倉田は少し申し訳なさそうに笑った。
「ですから、漢字については自信がありません」
「その人が四〇一号室に住んでいたことは?」
「それは間違いないと思います。何度も部屋から出てくるところを見ましたから」
「最近まで住んでいたんですか?」
「いつまでだったかは覚えていません。でも、何か月も前ではないと思います」
「水野という男性は知っていますか?」
「知りません」
「穂積という女性は?」
「その名前も知りません」
倉田の答えに迷いはなかった。
「昨日、前の住人に関係がありそうな電話があったんです」
「伊東さんからですか?」
「分かりません。相手は名乗らなかったので」
「そうですか」
あのとき、女の名前を聞いていない。
直人は初めて、それを少し惜しいと思った。
名前だけでも聞いていれば、今聞いた人物と同じかどうかを、相手に確認することはできたかもしれない。
今となっては分からない。
「ありがとうございました」
「いえ。分からないことがあったら、また聞いてください」
「助かります」
直人は頭を下げ、四〇六号室を離れた。
◇
四〇一号室へ戻ると、外廊下よりも室内の方が涼しかった。
直人は空になった紙袋を床へ置き、冷蔵庫から水を取り出した。
一気に半分ほど飲む。
五部屋を回っただけだが、思ったより時間がかかっていた。
住人について聞いたのは、昨日の電話が気になっていたからだ。
前の住人の知り合いが古い番号へ電話をかけたのなら、誰が住んでいたのか分かれば、それで話は終わると思っていた。
だが、聞いた名前は一つではなかった。
直人は机の前に座った。
契約書類を入れたクリアファイルの上には、昨日見つけた古い封筒が伏せたまま置かれている。
住所はない。
差出人もない。
中身も空だった。
表に名前らしいものだけが書かれていたが、昨日は確認しないまま置いていた。
直人は封筒を手に取り、裏返した。
中央に、一文字だけ書かれていた。
綸
直人はしばらく、その文字を見た。
「りん……?」
見覚えのある字ではあった。
だが、正しい読み方には自信がない。
名字なのか、名前なのかも分からなかった。
西川が話した水野。
榎本が話した、ほづみ。
倉田が話した、伊東。
そのどれとも違うように見える。
直人は封筒を机の上へ戻した。
頭の中だけで覚えていると、あとで誰が何を言ったのか分からなくなりそうだった。
調べるためではない。
聞いたことを忘れないようにするためだった。
直人は段ボール箱の中から大学ノートを一冊取り出した。
最初のページを開き、ボールペンで書く。
四〇二――水野。男性。
四〇三――入居後はずっと空室。
四〇四――ほづみ。たぶん穂積。昨日の朝方までいた。
四〇五――短期間で住人が何度も入れ替わったように見えた。
四〇六――伊東。女性。漢字は未確認。倉田は東の伊東だと思っている。
封筒――綸。りん?
直人は書き終えたページを眺めた。
どれかが間違っているのかもしれない。
全員が違う時期のことを話しているだけかもしれない。
今の段階では、何も分からなかった。
整理するために書いたのに、並べる前より分からなくなった。
直人はノートを閉じた。
考え続けても仕方がない。
まだ本棚へ入れていない本が残っている。
床には食器を包んでいた紙も落ちたままだ。
直人は封筒をクリアファイルの上へ置き、段ボール箱の前に座った。




