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もう、何がなんだかわからない  作者: 連句貢茶


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3/12

第3話 四階の住人(二)

 七月二十五日 午後一時。


 インターホンを押して少し待つと、四〇四号室の中から、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。


「はい」


 扉を開けたのは、二十代後半くらいの女性だった。


 髪を後ろでまとめているが、額の横に何本か垂れている。玄関の奥からはテレビの音と、小さな子どもの声が聞こえていた。


「隣の四〇一号室に越してきた長野です。昨日は引っ越しで騒がしくして、すみませんでした」


「ああ、昨日の」


 女性は納得したようにうなずいた。


「四〇四の榎本です」


「長野です。よろしくお願いします」


 直人は紙袋から菓子折りを一つ取り出した。


「これ、よかったら」


「すみません。ありがとうございます」


 榎本は菓子折りを受け取り、直人の顔を見た。


「学生さんですか?」


「はい。近くの大学に通っています」


「やっぱり。お若いから、そうかなと思って」


「大学二年です」


「じゃあ、初めての一人暮らしですか?」


「いえ。今までは実家から通っていたんですけど、少し遠かったので」


「ご実家はどちらなんですか?」


「埼玉です」


「埼玉からだと、場所によっては毎日通うのも大変ですよね」


「乗り換えもあるので、朝が早くて」


「大学に近い方が楽ですよ。忘れ物をしても戻れますし」


 榎本が笑った。


「私、学生のころ、家を出てから教科書を忘れたことに気づいて、そのまま諦めたことがあります」


「僕も何度かあります」


「近ければ取りに戻れますね」


 そのとき、玄関の奥から、幼い女の子が顔を出した。


「ママ、ジュース」


「あとでね」


「いま」


「お客さんがいるでしょう」


 女の子は直人をじっと見たあと、不満そうな顔をして奥へ戻っていった。


「すみません。毎日あんな感じで」


「いえ」


「昨日から住んでいるんですよね?」


「はい。昨日の午後に引っ越してきました」


「あれ」


 榎本は四〇一号室の方へ目を向けた。


「じゃあ、ほづみさん、ずいぶん急に引っ越したんですね」


 直人は一瞬、返事をしなかった。


「ほづみさん?」


「前に四〇一にいた女の人です」


「女性が住んでいたんですか?」


「ええ」


 榎本は当たり前のことを話すように答えた。


「昨日の朝方にも見かけましたよ」


「昨日?」


「はい。四〇一から出てきて、階段を下りていきました。午後になったら長野さんの荷物が運ばれてきたので、朝のうちに出ていったのかなと思っていました」


「その人が、ほづみさん?」


「そうです。本人から聞きましたから」


「本人から?」


「最初に会ったときに、『四〇一のほづみです』って挨拶されたんです」


 榎本の答えに迷いはなかった。


「漢字は分かりますか?」


「たぶん、稲穂の穂に、積む、じゃないですか」


 榎本は指先で空中に文字を書くような仕草をした。


「穂積さん。普通ならそれだと思いますけど」


「本人に漢字まで確認したんですか?」


「そこまでは聞いていません。でも、ほづみさんで間違いないですよ」


 玄関の奥から、三十代くらいの男が顔を出した。


 Tシャツに短パンをはき、片手にマグカップを持っている。


「誰?」


「四〇一に越してきた長野さん」


「ああ、新しい人」


 男は直人へ軽く頭を下げた。


「夫です」


 榎本が簡単に紹介した。


 夫は妻が持っている菓子折りを見てから、四〇一号室へ目を向けた。


「じゃあ、穂積さん、急に引っ越したんだな」


「そうみたい」


「可愛い子だったのに、残念だなあ」


「何が残念なの」


「いや、別に」


 夫はマグカップへ口をつけた。


「ご主人も、その人に会ったことがあるんですか?」


 直人が聞くと、夫はうなずいた。


「何度かありますよ。廊下ですれ違ったくらいですけど」


「昨日の朝も?」


「昨日は寝てました。見たのは妻です」


「でも、ほづみさんで間違いありません」


 榎本は当然のことを話すように言った。


「昨日の朝まで、普通に四〇一にいた人ですよ」


「そうですか」


 直人は、それ以上は何も言わなかった。


 榎本夫妻は、二人ともその女性の存在を疑っていない。


 今ここで、四〇二号室と四〇三号室で聞いた話を出しても、会話が長くなるだけだった。


「ありがとうございました。これからよろしくお願いします」


「こちらこそ、よろしくお願いします」


「よろしく」


 直人は頭を下げ、四〇四号室を離れた。


     ◇


 四〇五号室のインターホンを押すと、しばらくして男の声が返ってきた。


『はいはい』


 やや乱暴な足音が近づき、扉が開いた。


 出てきたのは、四十歳前後に見える男だった。灰色のTシャツに黒いジャージをはき、短い髪には寝癖が残っている。


「四〇一号室に越してきた長野です。昨日は引っ越しで騒がしくして、すみませんでした」


「ああ、昨日の」


 男は直人の後ろから、四〇一号室の方を見た。


「四〇五の相原です」


「長野です。よろしくお願いします」


 直人が菓子折りを差し出すと、相原は片手で受け取った。


「どうも。わざわざすみません」


「この辺に越してきたばかりなので、まだよく分からないんですけど、近くに遅くまで開いているスーパーはありますか?」


「スーパーなら駅の反対側ですね。歩いて十分くらいかな」


「昨日行ったところかもしれません」


「大通り沿いの店ですか?」


「はい」


「そこが一番近いです。ただ、夜になると弁当はほとんど残ってないですよ」


「昨日もかなり少なかったです」


「学生が多いから、すぐなくなるんですよ。コンビニなら角を曲がったところにありますけど、毎日だと高いですからね」


「なるべく自炊するつもりです」


「偉いですね。俺はもう、ほとんどコンビニです」


 相原は手にした菓子折りを見た。


「これも今日の昼に食べさせてもらいます」


「どうぞ」


「それにしても、四〇一、また人が入ったんですね」


「また?」


 直人が聞き返すと、相原は四〇一号室へ目を向けた。


「前から、住んでいる人がころころ変わっているように見えたんですよ」


「短期間でですか?」


「たぶん。一週間なのか、一か月なのか、そこまでは知りませんけど」


「何人くらいですか?」


「三人か四人だったかな。もっといたかもしれません」


「同じ人の友人や家族ではなく?」


「最初はそう思いましたよ」


 相原は菓子折りの箱の角を指でなぞった。


「でも、毎回違う人が、生活するような荷物を持ってくるんです。大きい鞄とか、服が入っていそうな袋とか」


「男性も女性も?」


「いましたね。若い人もいたし、もう少し年上の人もいた」


「四〇一へ入るところを見たんですか?」


「何度かは」


「鍵は?」


「自分で開けていたように見えました」


 相原は少し考えた。


「朝に出ていく人もいたし、夜に帰ってくる人もいました。友達が遊びに来てるって感じではなかったですね」


「それぞれが住んでいるように見えた?」


「そうですね」


「短期賃貸だったんでしょうか」


「俺はそういう部屋なのかと思ってました」


「不動産会社からは、二年くらい空室だったと聞いています」


 相原は眉を上げた。


「空室?」


「はい」


「それはないでしょう」


 相原は迷わず答えた。


「誰も住んでなかったと言われても、俺は信じないですよ。何度も見てますから」


「名前を知っている人はいますか?」


「名前までは一人も知りません」


「水野さんという男性は?」


「聞いたことないですね」


「ほづみさんという女性は?」


「その名前も知らないです」


 相原は少し考えてから続けた。


「顔を見れば、見覚えがあるかもしれませんけど。女の人も一人じゃなかった気がするので」


「そうですか」


「まあ、俺も毎日見張っていたわけじゃないです」


 相原は菓子折りを軽く持ち上げた。


「住人が短期で入れ替わっているように見えた。それだけです」


「分かりました。ありがとうございます」


「いえ。これからよろしく」


「よろしくお願いします」


 扉が閉まった。


 直人は四〇五号室の前で、紙袋の中を覗いた。


 残っている菓子折りは一つ。


 あと一部屋だった。


     ◇


 四〇六号室の玄関脇には、小さな宅配ボックスと黒い傘立てが置かれていた。


 直人がインターホンを押すと、落ち着いた女の声が返ってきた。


『はい』


「四〇一号室に越してきた長野です。引っ越しのご挨拶に来ました」


 少しして扉が開いた。


 出てきたのは、三十代後半くらいの女性だった。黒い髪を肩のあたりで切りそろえ、細い縁の眼鏡をかけている。


「四〇六の倉田です」


「長野です。昨日は騒がしくして、すみませんでした」


「いえ。昼間でしたから」


 直人が最後の菓子折りを渡すと、倉田は丁寧に頭を下げた。


「ありがとうございます」


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 倉田は直人を見て、少し首を傾げた。


「学生さんですか?」


「はい。近くの大学に通っています」


「それなら、ここは便利でしょうね。歩いて通える距離ですか?」


「十五分くらいです」


「近いですね。何を勉強しているんですか?」


「文学部で、歴史関係です」


「歴史ですか」


 倉田は少し考えた。


「日本史とか、世界史とか?」


「どちらもやりますけど、今は近代史の講義が多いです」


「大学の歴史は、高校までとは全然違うんでしょうね」


「細かい資料を読むことが多いです」


「私には難しそうです」


 倉田は小さく笑った。


「昨日からこちらに?」


「はい。昨日の午後に引っ越してきました」


「そうですか」


 倉田は四〇一号室の扉へ目を向けた。


「では、伊東さんとは、入れ違いだったんですね」


 直人は顔を上げた。


「伊東さん?」


「前に四〇一にいた女の人です」


「その人が、伊東さんという名前だったんですか?」


「ええ。最初に会ったとき、名前を尋ねたら、伊東ですと名乗られました」


「漢字も分かるんですか?」


「いえ。漢字を見たわけではありません」


 倉田は眼鏡の位置を直した。


「東の伊東か、藤の伊藤か、そこまでは分かりませんけど。たぶん、東の伊東さんだったと思います」


「どうしてですか?」


「特に理由はありません。何となく、そちらだと思っていただけです」


 倉田は少し申し訳なさそうに笑った。


「ですから、漢字については自信がありません」


「その人が四〇一号室に住んでいたことは?」


「それは間違いないと思います。何度も部屋から出てくるところを見ましたから」


「最近まで住んでいたんですか?」


「いつまでだったかは覚えていません。でも、何か月も前ではないと思います」


「水野という男性は知っていますか?」


「知りません」


「穂積という女性は?」


「その名前も知りません」


 倉田の答えに迷いはなかった。


「昨日、前の住人に関係がありそうな電話があったんです」


「伊東さんからですか?」


「分かりません。相手は名乗らなかったので」


「そうですか」


 あのとき、女の名前を聞いていない。


 直人は初めて、それを少し惜しいと思った。


 名前だけでも聞いていれば、今聞いた人物と同じかどうかを、相手に確認することはできたかもしれない。


 今となっては分からない。


「ありがとうございました」


「いえ。分からないことがあったら、また聞いてください」


「助かります」


 直人は頭を下げ、四〇六号室を離れた。


     ◇


 四〇一号室へ戻ると、外廊下よりも室内の方が涼しかった。


 直人は空になった紙袋を床へ置き、冷蔵庫から水を取り出した。


 一気に半分ほど飲む。


 五部屋を回っただけだが、思ったより時間がかかっていた。


 住人について聞いたのは、昨日の電話が気になっていたからだ。


 前の住人の知り合いが古い番号へ電話をかけたのなら、誰が住んでいたのか分かれば、それで話は終わると思っていた。


 だが、聞いた名前は一つではなかった。


 直人は机の前に座った。


 契約書類を入れたクリアファイルの上には、昨日見つけた古い封筒が伏せたまま置かれている。


 住所はない。


 差出人もない。


 中身も空だった。


 表に名前らしいものだけが書かれていたが、昨日は確認しないまま置いていた。


 直人は封筒を手に取り、裏返した。


 中央に、一文字だけ書かれていた。


 綸


 直人はしばらく、その文字を見た。


「りん……?」


 見覚えのある字ではあった。


 だが、正しい読み方には自信がない。


 名字なのか、名前なのかも分からなかった。


 西川が話した水野。


 榎本が話した、ほづみ。


 倉田が話した、伊東。


 そのどれとも違うように見える。


 直人は封筒を机の上へ戻した。


 頭の中だけで覚えていると、あとで誰が何を言ったのか分からなくなりそうだった。


 調べるためではない。


 聞いたことを忘れないようにするためだった。


 直人は段ボール箱の中から大学ノートを一冊取り出した。


 最初のページを開き、ボールペンで書く。


 四〇二――水野。男性。


 四〇三――入居後はずっと空室。


 四〇四――ほづみ。たぶん穂積。昨日の朝方までいた。


 四〇五――短期間で住人が何度も入れ替わったように見えた。


 四〇六――伊東。女性。漢字は未確認。倉田は東の伊東だと思っている。


 封筒――綸。りん?


 直人は書き終えたページを眺めた。


 どれかが間違っているのかもしれない。


 全員が違う時期のことを話しているだけかもしれない。


 今の段階では、何も分からなかった。


 整理するために書いたのに、並べる前より分からなくなった。


 直人はノートを閉じた。


 考え続けても仕方がない。


 まだ本棚へ入れていない本が残っている。


 床には食器を包んでいた紙も落ちたままだ。


 直人は封筒をクリアファイルの上へ置き、段ボール箱の前に座った。

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