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もう、何がなんだかわからない  作者: 連句貢茶


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2/12

第2話 四階の住人(一)

 七月二十五日 午後一時。


 長野直人は、玄関の前で紙袋を持っていた。


 中には、近所のスーパーで買った小さな菓子折りが五つ入っている。


 四〇二号室から四〇六号室まで。


 同じ四階の住人には、ひと通り挨拶しておいた方がいい。


 昨日の引っ越しで、階段も外廊下もかなり使った。大きな音を出していた自覚もある。苦情が来る前に、こちらから頭を下げておく方が面倒が少ない。


 直人はそう考えた。


 部屋の中は、まだ片づいていない。


 段ボール箱が壁際に残っているし、本棚にもまだ本を入れていない。キッチンの床には、開封した食器の包み紙が少し落ちている。


 机の上には、契約書類を入れたクリアファイルがある。


 その上に、昨日見つけた古い封筒を伏せて置いていた。


 名前らしいものが書かれていた封筒。


 中身は空。


 住所も差出人もない。


 気にはなる。


 だが、朝から荷解きをしているうちに、だんだん面倒になってきた。


 管理会社に渡せばいい。


 その程度のものだ。


 昨日の電話も、思い出すと少し気分が悪かった。


 ただ、冷静に考えれば、前の住人の知り合いか、同じ四〇一号室の別の建物と間違えただけだろう。


 電話機が今もそこにあるかどうかは、まだ確認していない。


 流し台の下は冷蔵庫と段ボールの陰になっていて、開けるのが少し面倒だった。確認したところで、古い電話機があるかないかだけだ。


 あるなら管理会社へ言う。


 なければ、自分が昨日、引っ越しの疲れで何か勘違いしたのだと思う。


 直人はそれ以上考えるのをやめた。


 今は挨拶が先だった。


 鍵を閉め、まず隣の四〇二号室へ向かう。


 外廊下は暑かった。


 四階まで上がってくる風はあるが、夏の風なので涼しくはない。コンクリートの床が、昼の熱を溜めている。


 四〇二号室の前には、小さな買い物カートが畳んで置かれていた。傘立てには、黒い傘と、花柄の折りたたみ傘が一本ずつ入っている。


 直人はインターホンを押した。


 少し間があって、中から足音が近づいてきた。


「はい」


 扉が少し開いた。


 出てきたのは、白髪を後ろでまとめた小柄な老婆だった。薄紫色のカーディガンを羽織っていて、玄関の中からは、煮物のような匂いがした。


「昨日、隣の四〇一に越してきた長野です。引っ越しでうるさくして、すみませんでした」


「あら、ご丁寧に」


 老婆は少し驚いた顔をしてから、柔らかく笑った。


「四〇二の西川です」


「よろしくお願いします」


 直人は紙袋から菓子折りを一つ取り出して渡した。


「これ、よかったら」


「まあまあ、すみませんねえ。学生さん?」


「はい。近くの大学に通っています」


「そう。お若い方が入ると、少し明るくなりますね」


 西川はそう言って、四〇一号室の方をちらりと見た。


 ほんの一瞬だったが、直人はその視線に気づいた。


 気づいたので、聞いてみることにした。


「あの、少し伺ってもいいですか」


「はい?」


「四〇一号室って、僕の前はどんな方が住んでいたんでしょうか」


 西川は、すぐには答えなかった。


 手に持った菓子折りを胸の前で軽く抱え直す。


「前の方?」


「はい。昨日、ちょっと変な間違い電話がありまして」


「間違い電話?」


「部屋を間違えたみたいな女の人から電話があったんです。自分の部屋だとか、知らない男がいるとか言われて」


「あら」


 西川の眉が、少しだけ寄った。


「固定電話にですか」


「たぶん。古い電話機が部屋に残っていたみたいで」


「四〇一に?」


 西川は、そこだけ少し聞き返した。


「はい。流し台の下に」


「流し台の下」


 西川は、何かを思い出すように視線を下げた。


 だが、すぐに首を傾げる。


「変ですねえ」


「やっぱり変ですか」


「今どき、固定電話を使う方も少ないでしょう」


「ですよね」


「でも、古い建物ですからねえ。前の方のものが残っていたのかもしれませんね」


「前の方って、覚えていますか」


「水野さん、だったと思います」


 直人は、その名前を頭の中で繰り返した。


 水野。


「男性ですか」


「ええ。男の方でした」


「いつごろまで住んでいたんですか?」


「二年くらい前かしらねえ」


「二年」


「はっきりとは覚えていませんけど。いつの間にかいなくなっていました。引っ越しのご挨拶は、なかったと思います」


「その後は、ずっと空室でしたか?」


「そうですねえ。私の知る限りでは」


 不動産会社から聞いた話と合っている。


 二年近く空いていた。


 前の住人が水野という男。


 電話の女とは、少なくとも直接つながらない。


 直人は少し安心した。


「あの、女性が住んでいたことはありませんか?」


「女の人?」


「はい。若い女性です」


 西川は、今度は少し長く黙った。


 長いといっても、会話の中で不自然になるほどではない。人の記憶を探すときの間だった。


「私は知りませんねえ」


「そうですか」


「水野さんのあとは、ずっと空いていたんじゃないかしら」


「内見の人とかは」


「それは、たまにあったかもしれません。業者さんが出入りしていたこともありましたし」


「なるほど」


「気になるなら、管理会社さんに聞いてみるといいですよ。こういうことは、住んでいる人間より、あちらの方が分かりますから」


「そうですね」


 西川の言う通りだった。


 住人の記憶より、管理会社の記録の方が正確なはずだ。


 直人は頭を下げた。


「ありがとうございました」


「いえいえ。これからよろしくお願いしますね」


「よろしくお願いします」


 扉が閉まる。


 直人は四〇二号室の前を離れた。


 水野。


 男。


 二年前くらい。


 女の人は知らない。


 直人は頭の中で整理する。


 昨日の電話は、やはりただの間違い電話なのだろう。


 前の住人の知り合いが、古い番号にかけた。


 あるいは、別の建物の四〇一号室と間違えた。


 そう考えるのが自然だった。


 ただ、古い電話機がなぜ流し台の下にあったのかは分からない。


 そのあたりは、あとで管理会社に聞けばいい。


 直人は次の四〇三号室へ向かった。


 四〇三号室の前には、ビニール傘が一本だけ立てかけられていた。表札はない。扉の下から、冷房の音らしい低い振動が聞こえている。


 インターホンを押す。


 少しして、男の声が返ってきた。


『はい』


「隣の四〇一に越してきた長野です。引っ越しのご挨拶に来ました」


 鍵が開く音がした。


 扉を開けたのは、三十代くらいの男だった。白いワイシャツにネクタイをしているが、袖は肘までまくってある。顔には疲れが残っていて、今から出かけるのか、帰ってきたばかりなのか分かりにくかった。


「どうも。四〇三の宮原です」


「昨日は引っ越しでうるさくして、すみませんでした」


「いえ。昼間でしたし」


 宮原は短く言った。


 直人が菓子折りを渡すと、宮原は少しだけ目を丸くした。


「あ、すみません。わざわざ」


「これからよろしくお願いします」


「こちらこそ」


 宮原は菓子折りを片手に持ったまま、四〇一号室の方へ目を向けた。


「昨日は大変だったでしょう。四階まで荷物を運ぶの」


「はい。エレベーターがないので、作業員の方はかなり大変そうでした」


「暑かったですしね。何度も階段を上がってくるのが見えました」


「ご迷惑をおかけしました」


「いえ、昼間でしたから。自分も仕事で出たり入ったりしていましたし、音はほとんど気になりませんでしたよ」


 宮原は額の汗を手の甲で軽く拭った。


「この階、風は通るんですけど、夏は廊下が暑いんですよね」


「さっき外へ出ただけでも、かなり暑かったです」


「朝のうちはまだいいんですけどね。昼を過ぎると、床まで熱くなるので」


「しばらくは、出かける時間を考えた方がよさそうですね」


「その方がいいかもしれません」


 宮原は少し笑った。


「でも、四〇一にまた人が入るとは思いませんでした。ずいぶん長く空いていましたから」


 その言葉を聞いて、直人は四〇一号室の扉へ目を向けた。


「あの、少し伺ってもいいですか」


「はい」


「四〇一号室って、僕の前はどんな方が住んでいたんでしょうか」


 宮原はすぐに答えた。


「空いてましたよ」


「空いていた?」


「少なくとも、自分がここに来てからはほとんど」


「いつごろ越してこられたんですか」


「二年くらい前です」


「そのころには、もう空室だったんですか」


「だったと思います。リフォームか何かの音は聞いたことありますけど、普通に住んでる人は見てないですね」


 西川の話と、少し違う。


 いや、完全に違うわけではない。


 西川は、水野という男が二年くらい前まで住んでいたと言った。


 宮原は、自分が来たころにはもう空室だったと言う。


 時期が少しずれているだけなら、両方とも成立する。


「水野さんという名前に心当たりはありますか?」


 直人が聞くと、宮原は考えるように目を細めた。


「名前は聞いたことある気がします」


「会ったことは?」


「ないです。たぶん、自分が入る前の人じゃないですか」


「なるほど」


「管理会社か、ほかの住人から聞いたのかもしれません」


 宮原の話し方は淡々としていた。


 面倒がっているというより、覚えていないことを覚えていないと言っているだけに見える。


「女性が住んでいたことはありませんか?」


「女性?」


「若い女性です」


「見てないですね」


「四〇一の前にいたとか、出入りしていたとか」


「内見の人ならいたかもしれませんけど、住人としては見てないです」


「内見って、結構ありましたか?」


「たまにですね。あとは工事の人。リフォームしてましたから」


「そうですか」


「何かあったんですか?」


 宮原が聞いた。


 直人は少し迷った。


 昨日のことを話すかどうか。宮原にまで細かく話すほどのことでもないのではないか。


 それに、昨日の女の言い方を思い出すと、また少し気分が悪くなる。


「前の住人あてみたいな間違い電話があったので」


「電話?」


「古い固定電話が残っていたみたいで」


「固定電話ですか?」


 宮原は少し意外そうな顔をした。


「今どき珍しいですね」


「僕もそう思います」


「管理会社に言った方がいいですよ。残置物なら撤去してくれるでしょうし」


「そうします」


「まあ、空き部屋が長かったなら、何か見落としがあってもおかしくはないんじゃないですか」


 宮原はそう言った。


 それはかなり現実的な説明だった。


 古い建物。


 長い期間の空室。


 リフォーム。


 残置物の見落とし。


 間違い電話。


 一つずつなら、どれも大したことではない。


 直人もそう思った。


「ありがとうございます」


「いえ」


 宮原は軽く頭を下げた。


「これからよろしくお願いします」


「よろしくお願いします」


 扉が閉まった。


 直人は四〇三号室の前から離れ、外廊下の手すり側へ少し寄った。


 向かいの住宅の屋根が見える。


 遠くで車の音がした。


 四階は風が通るが、やはり暑い。


 直人は紙袋の中を覗いた。


 菓子折りは残り三つ。


 四〇四、四〇五、四〇六。


 あと三部屋ある。


 ここまで聞いた話は、思ったより普通だった。


 西川は、水野という男が住んでいたと言った。


 宮原は、二年前に来たときにはもう空室だったと言った。


 どちらも、不動産会社の説明から大きく外れてはいない。


 女性については、二人とも知らない。


 昨日の電話は、やはり何かの間違いだろう。


 知らない女にいきなり責められたことは不快だったが、それ以上のものではない。


 直人はそう考えた。


 考えたところで、四〇四号室の方から小さな子どもの声が聞こえた。


 テレビの音もする。


 生活の音だった。


 直人は紙袋を持ち直し、四〇四号室の前に立つ。


 インターホンを押した。

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