第2話 四階の住人(一)
七月二十五日 午後一時。
長野直人は、玄関の前で紙袋を持っていた。
中には、近所のスーパーで買った小さな菓子折りが五つ入っている。
四〇二号室から四〇六号室まで。
同じ四階の住人には、ひと通り挨拶しておいた方がいい。
昨日の引っ越しで、階段も外廊下もかなり使った。大きな音を出していた自覚もある。苦情が来る前に、こちらから頭を下げておく方が面倒が少ない。
直人はそう考えた。
部屋の中は、まだ片づいていない。
段ボール箱が壁際に残っているし、本棚にもまだ本を入れていない。キッチンの床には、開封した食器の包み紙が少し落ちている。
机の上には、契約書類を入れたクリアファイルがある。
その上に、昨日見つけた古い封筒を伏せて置いていた。
名前らしいものが書かれていた封筒。
中身は空。
住所も差出人もない。
気にはなる。
だが、朝から荷解きをしているうちに、だんだん面倒になってきた。
管理会社に渡せばいい。
その程度のものだ。
昨日の電話も、思い出すと少し気分が悪かった。
ただ、冷静に考えれば、前の住人の知り合いか、同じ四〇一号室の別の建物と間違えただけだろう。
電話機が今もそこにあるかどうかは、まだ確認していない。
流し台の下は冷蔵庫と段ボールの陰になっていて、開けるのが少し面倒だった。確認したところで、古い電話機があるかないかだけだ。
あるなら管理会社へ言う。
なければ、自分が昨日、引っ越しの疲れで何か勘違いしたのだと思う。
直人はそれ以上考えるのをやめた。
今は挨拶が先だった。
鍵を閉め、まず隣の四〇二号室へ向かう。
外廊下は暑かった。
四階まで上がってくる風はあるが、夏の風なので涼しくはない。コンクリートの床が、昼の熱を溜めている。
四〇二号室の前には、小さな買い物カートが畳んで置かれていた。傘立てには、黒い傘と、花柄の折りたたみ傘が一本ずつ入っている。
直人はインターホンを押した。
少し間があって、中から足音が近づいてきた。
「はい」
扉が少し開いた。
出てきたのは、白髪を後ろでまとめた小柄な老婆だった。薄紫色のカーディガンを羽織っていて、玄関の中からは、煮物のような匂いがした。
「昨日、隣の四〇一に越してきた長野です。引っ越しでうるさくして、すみませんでした」
「あら、ご丁寧に」
老婆は少し驚いた顔をしてから、柔らかく笑った。
「四〇二の西川です」
「よろしくお願いします」
直人は紙袋から菓子折りを一つ取り出して渡した。
「これ、よかったら」
「まあまあ、すみませんねえ。学生さん?」
「はい。近くの大学に通っています」
「そう。お若い方が入ると、少し明るくなりますね」
西川はそう言って、四〇一号室の方をちらりと見た。
ほんの一瞬だったが、直人はその視線に気づいた。
気づいたので、聞いてみることにした。
「あの、少し伺ってもいいですか」
「はい?」
「四〇一号室って、僕の前はどんな方が住んでいたんでしょうか」
西川は、すぐには答えなかった。
手に持った菓子折りを胸の前で軽く抱え直す。
「前の方?」
「はい。昨日、ちょっと変な間違い電話がありまして」
「間違い電話?」
「部屋を間違えたみたいな女の人から電話があったんです。自分の部屋だとか、知らない男がいるとか言われて」
「あら」
西川の眉が、少しだけ寄った。
「固定電話にですか」
「たぶん。古い電話機が部屋に残っていたみたいで」
「四〇一に?」
西川は、そこだけ少し聞き返した。
「はい。流し台の下に」
「流し台の下」
西川は、何かを思い出すように視線を下げた。
だが、すぐに首を傾げる。
「変ですねえ」
「やっぱり変ですか」
「今どき、固定電話を使う方も少ないでしょう」
「ですよね」
「でも、古い建物ですからねえ。前の方のものが残っていたのかもしれませんね」
「前の方って、覚えていますか」
「水野さん、だったと思います」
直人は、その名前を頭の中で繰り返した。
水野。
「男性ですか」
「ええ。男の方でした」
「いつごろまで住んでいたんですか?」
「二年くらい前かしらねえ」
「二年」
「はっきりとは覚えていませんけど。いつの間にかいなくなっていました。引っ越しのご挨拶は、なかったと思います」
「その後は、ずっと空室でしたか?」
「そうですねえ。私の知る限りでは」
不動産会社から聞いた話と合っている。
二年近く空いていた。
前の住人が水野という男。
電話の女とは、少なくとも直接つながらない。
直人は少し安心した。
「あの、女性が住んでいたことはありませんか?」
「女の人?」
「はい。若い女性です」
西川は、今度は少し長く黙った。
長いといっても、会話の中で不自然になるほどではない。人の記憶を探すときの間だった。
「私は知りませんねえ」
「そうですか」
「水野さんのあとは、ずっと空いていたんじゃないかしら」
「内見の人とかは」
「それは、たまにあったかもしれません。業者さんが出入りしていたこともありましたし」
「なるほど」
「気になるなら、管理会社さんに聞いてみるといいですよ。こういうことは、住んでいる人間より、あちらの方が分かりますから」
「そうですね」
西川の言う通りだった。
住人の記憶より、管理会社の記録の方が正確なはずだ。
直人は頭を下げた。
「ありがとうございました」
「いえいえ。これからよろしくお願いしますね」
「よろしくお願いします」
扉が閉まる。
直人は四〇二号室の前を離れた。
水野。
男。
二年前くらい。
女の人は知らない。
直人は頭の中で整理する。
昨日の電話は、やはりただの間違い電話なのだろう。
前の住人の知り合いが、古い番号にかけた。
あるいは、別の建物の四〇一号室と間違えた。
そう考えるのが自然だった。
ただ、古い電話機がなぜ流し台の下にあったのかは分からない。
そのあたりは、あとで管理会社に聞けばいい。
直人は次の四〇三号室へ向かった。
四〇三号室の前には、ビニール傘が一本だけ立てかけられていた。表札はない。扉の下から、冷房の音らしい低い振動が聞こえている。
インターホンを押す。
少しして、男の声が返ってきた。
『はい』
「隣の四〇一に越してきた長野です。引っ越しのご挨拶に来ました」
鍵が開く音がした。
扉を開けたのは、三十代くらいの男だった。白いワイシャツにネクタイをしているが、袖は肘までまくってある。顔には疲れが残っていて、今から出かけるのか、帰ってきたばかりなのか分かりにくかった。
「どうも。四〇三の宮原です」
「昨日は引っ越しでうるさくして、すみませんでした」
「いえ。昼間でしたし」
宮原は短く言った。
直人が菓子折りを渡すと、宮原は少しだけ目を丸くした。
「あ、すみません。わざわざ」
「これからよろしくお願いします」
「こちらこそ」
宮原は菓子折りを片手に持ったまま、四〇一号室の方へ目を向けた。
「昨日は大変だったでしょう。四階まで荷物を運ぶの」
「はい。エレベーターがないので、作業員の方はかなり大変そうでした」
「暑かったですしね。何度も階段を上がってくるのが見えました」
「ご迷惑をおかけしました」
「いえ、昼間でしたから。自分も仕事で出たり入ったりしていましたし、音はほとんど気になりませんでしたよ」
宮原は額の汗を手の甲で軽く拭った。
「この階、風は通るんですけど、夏は廊下が暑いんですよね」
「さっき外へ出ただけでも、かなり暑かったです」
「朝のうちはまだいいんですけどね。昼を過ぎると、床まで熱くなるので」
「しばらくは、出かける時間を考えた方がよさそうですね」
「その方がいいかもしれません」
宮原は少し笑った。
「でも、四〇一にまた人が入るとは思いませんでした。ずいぶん長く空いていましたから」
その言葉を聞いて、直人は四〇一号室の扉へ目を向けた。
「あの、少し伺ってもいいですか」
「はい」
「四〇一号室って、僕の前はどんな方が住んでいたんでしょうか」
宮原はすぐに答えた。
「空いてましたよ」
「空いていた?」
「少なくとも、自分がここに来てからはほとんど」
「いつごろ越してこられたんですか」
「二年くらい前です」
「そのころには、もう空室だったんですか」
「だったと思います。リフォームか何かの音は聞いたことありますけど、普通に住んでる人は見てないですね」
西川の話と、少し違う。
いや、完全に違うわけではない。
西川は、水野という男が二年くらい前まで住んでいたと言った。
宮原は、自分が来たころにはもう空室だったと言う。
時期が少しずれているだけなら、両方とも成立する。
「水野さんという名前に心当たりはありますか?」
直人が聞くと、宮原は考えるように目を細めた。
「名前は聞いたことある気がします」
「会ったことは?」
「ないです。たぶん、自分が入る前の人じゃないですか」
「なるほど」
「管理会社か、ほかの住人から聞いたのかもしれません」
宮原の話し方は淡々としていた。
面倒がっているというより、覚えていないことを覚えていないと言っているだけに見える。
「女性が住んでいたことはありませんか?」
「女性?」
「若い女性です」
「見てないですね」
「四〇一の前にいたとか、出入りしていたとか」
「内見の人ならいたかもしれませんけど、住人としては見てないです」
「内見って、結構ありましたか?」
「たまにですね。あとは工事の人。リフォームしてましたから」
「そうですか」
「何かあったんですか?」
宮原が聞いた。
直人は少し迷った。
昨日のことを話すかどうか。宮原にまで細かく話すほどのことでもないのではないか。
それに、昨日の女の言い方を思い出すと、また少し気分が悪くなる。
「前の住人あてみたいな間違い電話があったので」
「電話?」
「古い固定電話が残っていたみたいで」
「固定電話ですか?」
宮原は少し意外そうな顔をした。
「今どき珍しいですね」
「僕もそう思います」
「管理会社に言った方がいいですよ。残置物なら撤去してくれるでしょうし」
「そうします」
「まあ、空き部屋が長かったなら、何か見落としがあってもおかしくはないんじゃないですか」
宮原はそう言った。
それはかなり現実的な説明だった。
古い建物。
長い期間の空室。
リフォーム。
残置物の見落とし。
間違い電話。
一つずつなら、どれも大したことではない。
直人もそう思った。
「ありがとうございます」
「いえ」
宮原は軽く頭を下げた。
「これからよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
扉が閉まった。
直人は四〇三号室の前から離れ、外廊下の手すり側へ少し寄った。
向かいの住宅の屋根が見える。
遠くで車の音がした。
四階は風が通るが、やはり暑い。
直人は紙袋の中を覗いた。
菓子折りは残り三つ。
四〇四、四〇五、四〇六。
あと三部屋ある。
ここまで聞いた話は、思ったより普通だった。
西川は、水野という男が住んでいたと言った。
宮原は、二年前に来たときにはもう空室だったと言った。
どちらも、不動産会社の説明から大きく外れてはいない。
女性については、二人とも知らない。
昨日の電話は、やはり何かの間違いだろう。
知らない女にいきなり責められたことは不快だったが、それ以上のものではない。
直人はそう考えた。
考えたところで、四〇四号室の方から小さな子どもの声が聞こえた。
テレビの音もする。
生活の音だった。
直人は紙袋を持ち直し、四〇四号室の前に立つ。
インターホンを押した。




