第1話 前の住人
七月二十四日 午後三時。
長野直人は、メゾン青葉の前で足を止めた。
薄いクリーム色のタイル張りの外壁は、写真で見たときよりも少し古びていた。階段の手すりは濃い緑色で、ところどころ塗装が剥げている。建物の入口脇にある看板は、日焼けして白っぽく褪せていた。
地上四階建て。
エレベーターなし。
各階六部屋。
その四階、階段を上がってすぐ右手の角部屋が、直人の新しい部屋だった。
メゾン青葉四〇一号室。
家賃は四万九千円。
東京で、一DKで、大学までそれほど遠くない。
安い。
安すぎると言ってもよかった。
だから契約前に何度も確認した。
事故物件ではないか。
室内で人が亡くなったことはないか。
自殺や殺人事件はないか。
火災はないか。
重要事項説明書に書くような告知事項はないか。
不動産会社の担当者は、どれもありません、と答えた。
長く空室だった部屋なので、家賃を下げているのだという。
四階でエレベーターがない。駅から少し歩く。築年数も新しくない。リフォームはしているが、借り手がつかなかった。
説明としては、納得できないほどではなかった。
少なくとも、直人はそう思うことにした。
「四〇一号室で間違いないですか?」
作業員の先輩らしい男が、伝票を見ながら言った。
「はい。四〇一です」
「先に大きいものの位置を決めますか?」
「お願いします。小さい荷物は、いったん廊下側に置いてもらっていいですか」
「分かりました」
先輩の作業員が振り返ると、若い作業員が段ボールを抱えたまま頷いた。
段ボール箱や細かい荷物を先に入れてしまうと、家具の位置を決めるときに邪魔になる。直人は、なるべく無駄に動かさなくて済むように、小さな荷物をいったん四〇一号室の前の外廊下へまとめてもらうことにした。
作業員たちは慣れた様子で動き始めた。
外廊下に段ボールが積まれていく。
若い作業員が、荷物を置きながら部屋の中を覗き込んだ。
「ここ、大学近いんですよね」
「そうですね。歩いても行ける距離です」
「いいなあ。俺もこういうとこ住みたいです」
若い作業員が素直に言うと、先輩の作業員が階段の方を顎で示した。
「お前、ここ四階だぞ」
「でも大学近いじゃないですか」
「エレベーターなしの四階だぞ」
「慣れれば平気じゃないですか」
「じゃあ、このあと冷蔵庫を一回下まで戻して、もう一回上げてみるか」
「すみません、やっぱり住みたくないです」
直人は思わず少し笑った。
四階でエレベーターがない。
それは確かに、この部屋が安い理由として十分に現実的だった。
直人は鍵を開け、空の四〇一号室に入った。
玄関から短い廊下が伸びている。右手に浴室、洗面台、トイレ。左手に洗濯機置き場と収納。その先にダイニングキッチンがあり、奥は引き戸で区切られた洋室だった。
内見で見たときと同じだ。
壁紙は新しい。
床も張り替えられている。
水回りもきれいだった。
直人は靴を脱ぎ、部屋の中を一つずつ確認した。
壁。
床。
窓。
水道。
コンセント。
順番に見ていくと、落ち着く。
傷や不具合をあとから見つけるのは面倒だった。契約書、領収書、保証書。そういうものを捨てずに保管するのと同じで、最初に確認しておいた方がいい。
窓を開けると、外の熱い空気が入ってきた。
四階だからか、思ったより風は通る。
悪くない。
直人は窓を閉め、台所へ戻った。
流し台の下の収納を開ける。
水道管が見えた。
内見のとき、ここまではきちんと見ていなかったかもしれない。リフォーム済みという言葉を聞いて、細かい収納の中まで確認しなかった。
奥に、何か白いものがあった。
直人はしゃがみ込み、指先でそれを引き出した。
封筒だった。
白かったはずの紙は、端の方が少し黄ばんでいる。表には、名前らしいものが黒いボールペンで書かれていた。
ただ、薄暗い収納の前では、はっきり読めなかった。
住所はない。
差出人もない。
封もされていない。
中を覗くと、何も入っていなかった。
前にここを借りていた人のものだろうか。
それとも、内見に来た誰かが落としたものだろうか。
どちらにしても、管理会社に渡せば済む話だった。
そう思ったとき、短い電子音が鳴った。
直人は反射的にポケットを押さえた。
スマートフォンは鳴っていない。
もう一度、音が鳴る。
流し台の下からだった。
直人は封筒を左手に持ったまま、収納の奥を覗き込んだ。
水道管の陰に、古い灰色の固定電話があった。
直人はしばらくそれを見ていた。
固定電話。
なぜ、こんなものがあるのか分からなかった。
直人は固定電話の契約などしていない。そもそも、今どき固定電話を使う予定もなかった。
電話はまた鳴った。
古い電子音だった。
壁に響くほど大きくはない。けれど、空の部屋では妙にはっきり聞こえた。
出る必要はない。
自分宛ての電話ではない。
だが、鳴り続ける電話をそのままにしておくのも落ち着かなかった。
直人は封筒を持ったまま、右手で受話器を取った。
「もしもし」
すぐには返事がなかった。
呼吸の音だけが聞こえた。
それから、若い女の声がした。
『……誰ですか?』
直人は眉を寄せた。
「そちらからかけたんですよね」
『そこ、私の部屋なんですけど?』
「部屋を間違えていませんか。今日から僕が借りています」
『知らない男がいるって聞いたんです』
「何の話ですか?」
『そこから出てください』
「意味が分からないんですけど」
『警察に連絡します』
「どうぞ」
返事はなかった。
電話は切れた。
直人は受話器を見た。
何だったんだ、今のは。
怖いというより、不快だった。
知らない女に、いきなり自分の部屋から出ていけと言われた。しかも、警察に連絡するとまで言われた。
部屋を間違えているのは向こうのはずなのに、なぜこちらが責められなければならないのか。
直人は受話器を戻した。
前の住人の知り合いか、同じ四〇一号室の別の建物と間違えたのだろう。
そう考えるのが一番まともだった。
電話機を持ち上げて確かめようとしたところで、玄関側から声がした。
「すみません、冷蔵庫から入れて大丈夫ですか」
「あ、はい」
直人は立ち上がった。
左手には、まだ封筒を持っていた。
作業の邪魔になりそうだったので、直人はそれを折れないようにズボンの後ろポケットへ入れた。
今は電話よりも、搬入の方が先だった。
冷蔵庫。
洗濯機。
本棚。
机。
ベッド。
大きな家具が順番に運び込まれていく。
直人は玄関と台所の間を何度も行き来しながら、置き場所を指示した。
「冷蔵庫は、もう少し右でお願いします」
「本棚は奥の壁際に」
「机は窓の近くで」
若い作業員が段ボールを外廊下から運び入れ、先輩の作業員が家具の位置を確認していく。
部屋は少しずつ埋まっていった。
空だった四〇一号室に、直人の生活が入っていく。
段ボール箱が壁際に積まれ、ベッドの脚が床に置かれ、机が窓の方を向く。
さっきまで気になっていた流し台の下は、冷蔵庫と段ボールの陰になった。
先輩の作業員が伝票を差し出した。
「こちらにサインをお願いします」
直人は玄関先でサインをした。
作業員たちは、あっという間に荷物を運び終えると、簡単に挨拶をして階段を下りていった。
足音が遠ざかる。
トラックの扉が閉まる音がして、エンジン音もやがて離れていった。
部屋の中が静かになる。
直人は玄関の鍵を閉めた。
段ボールだらけの部屋だった。
それでも、自分の部屋になった。
直人は後ろポケットから封筒を取り出した。
名前らしい文字は書かれている。
ただ、今はそれを読む気になれなかった。
古い封筒も、気にはなった。
だが、中身は空だった。住所も差出人もない。
前の住人のものか、内見に来た誰かの落とし物かもしれない。
捨てるのは少し気が引けるので、管理会社に渡せばいい。
直人はその程度に考えた。
固定電話のことも、そのとき聞けばいい。
古い残置物を、撤去し忘れただけなのかもしれない。
だが、それなら、なぜ電話が鳴ったのだろう。
電話機が残っているだけなら分かる。回線まで生きているとなると、少し話が違う。前の契約がそのまま残っているのか、それとも建物の設備か何かにつながっているのか。
直人には分からなかった。
ただ、今すぐ困ることでもなかった。
たぶん、そのどれかだろう。
台所を見る。
流し台の下の収納は、冷蔵庫と段ボールの陰になっていた。
今すぐ確認する気にはならなかった。
荷解きの方が先だ。
直人は封筒を、契約書類を入れたクリアファイルの上に伏せて置いた。
カッターを取り出し、最初の段ボール箱を開ける。
本。
延長コード。
タオル。
食器。
一つずつ出して、置き場所を決める。
壁。
床。
窓。
水道。
コンセント。
頭の中で順番を作りながら、直人は部屋を片づけ始めた。
窓から入る光が、床に長く伸びている。
家賃は安い。
大学には近い。
事故物件ではない。
ただ、古い封筒が一枚残っていて、知らない女から感じの悪い電話がかかってきただけだ。
引っ越し初日には、面倒なことの一つや二つくらいある。
直人はそう思って、次の段ボールを開けた。




