天王山の合戦⑤
「………そう言えば、あれから中将様は日野城から動いていないとの事ですが、どうしたのでしょうな」
「どうしたとは、なんじゃ?」
官兵衛の問いかけに秀吉は質問で返す。
「一旦逃げ込む先に蒲生を選ぶのは分かりまする。安土の留守居役を何度も務めていらっしゃる
左兵衛大夫(賢秀)様に義兄弟である忠三郎(氏郷)様はあの状況下では最も信頼できたで
しょうから」
「まあ、そーじゃろうな」
というかその二人まで寝返っていたら詰みであろう。
北近江は明智の居城の坂本、南近江は蒲生の日野があれば、京から美濃への道は完全に遮断されて
しまう事になる。そうすればいかに京を脱出しても、どうしようもない。
「ですが、そのまま日野城に居続けている事が解せませぬ。近江の諸将を集めて明智に対応するにせよ、
一旦中将様の本拠の岐阜に諸将を集めるにせよ、日野という土地は守るには易い場所ですが
後々の事を考えるには居続けるには不適当な場所。そこから動かない事は少々解せませぬ」
周囲を先ほどの秀吉のように見渡した後、
「察するに逃亡の際に動けぬほどの負傷をされたか、
最悪の場合、お隠れ(逝去)あそばされている可能性も」
「官兵衛、お前なぁ…」
縁起でもない発言に、秀吉は呆れた顔で官兵衛を見る。
「官兵衛、それわしだからえーが、他の奴にそんな無神経な事絶対に言うなや」
「こんな事、秀吉様以外には言えませぬ。最悪の事も考えねばならぬ立場ゆえ」
「ま……そーなら、ええけどよ」
官兵衛という人間は元々、発言や行動に危なっかしい所がある。
一度それが祟って荒木村重の有岡城に1年幽閉の身となり、牢屋生活の中で足が不自由になるはめに
あったり嫡男が殺されかけたりしたのだが、
それくらいではこの男の生き方はそうそう変わらないらしい。
(……ま、わしが言える話じゃないかもしれんがの)
自分自身、余計な手出し口出しして何度も織田家の先達や上役に怒られ続けた半生である。
それを思えば、官兵衛のやっている事はあまりどうこう言えるわけでもないのだが、
(わしは半分以上は分かってやってたが、こいつはほぼ無意識じゃからのぉ)
「……お主の言う通り、なにかあった事は間違いないじゃろ。中将様の性格を考える限り、
日野に籠ってわしらが戻ってくるのを待つような悠長な性格はしておらん。
ご健在であるのが間違いないならば、とおに明智征伐の軍をおこしているだろーよ」
織田信忠という人間は、日常の大人しく行儀正しい普段とは一転変わって、
戦場ではどちらかといえば良くも悪くも猪突猛進で突き進む気がある。
恐らく、信忠を日野城から動かせない、なにか事情があるに違いないと秀吉は踏んでいる。
「普段は苛烈で果断な印象がある上様がこと戦事については慎重居士で、中将様はその逆で
あったのは意外でありましたなあ」
外からみる印象と織田家家中に入ってからの印象がまるで真逆で、
官兵衛も当初は戸惑ったものだった。
「……上様自身が桶狭間での経験があるからの。そりゃあ、ご自身がおんなじ立場になられたら、
慎重にもなるだろうて」
この当時の大名は、当主の逝去によって没落した家を数えれば数知れない。
近畿の覇者であった三好長慶しかり、東海一の弓取りと言われた今川義元しかり。
個人の能力に依存する部分が多かったため、絶頂期にあった家が次代では容易く没落する
事例が無数にあった時代である。
ーーーそれでも結局、起きてしまったわけではあるが。
今はとにかく眼前の明智軍に勝利しなければなにも始まらない。
秀吉の目は、明日にでも起きるであろう戦の趨勢を眺めていた。




