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十二話

 絶景を知っているか。

 そこには途方もないものがある。

 そこにはすべてがあって、そこですべてがなくなる。

 生きてきた今までの時間も経験も関係もなにもかもが、その光景を前に洗い流され無色透明に消え失せる。

 しかし、無色透明でありながら、見透すことができないだけのもので満たされ尽くして真白に染まってしまうのだ。

 絶景を知っているか。

 そこには途方もないものがある。

 過去を零に精算し、未来を無価値に変える。

 そこには絶望があるのだ。

 この上なくうつくしい、絶望があるのだ。




 誰かが語りかけていたような気がする。

 エリステスが目を開けると、視界に白いものが被さっていた。

 手をやれば湿った感触。どうやら濡れたタオルで額を冷やされていたらしい。

 濡れタオルを片手に起き上がれば、そこは見慣れた自身の寝室で、エリステスは二秒ほど己がどうして此処にいるのか理解できずにいた。

 きょと、と視線を彷徨わせ、エリステスは窓辺にカインを見つける。

 カインは外を眺めていた。

 窓を開いて、入り込む風に白い髪が揺れている。

 エリステスのほうからはカインの後ろ頭しか見えなかったけれど、何故か彼がいつもの品性乏しい顔をしているとは思わなかった。

 カインの後ろ姿は、窓の向こうを眺める姿は、なにも持たざるもののように見えたのだ。

 家も、血縁も、誇りも、名前も、力も、友も、後ろに続いてきたすべての道も、これから歩むであろうすべての道も、見てきた光景、これから待ち受ける光景、そのなにもかもを、持っていないように見えたのだ。

 そんな人間が、どうしているだろう。


「カインヘル」


 呼びかけに、果たしてカインは応えた。

 エリステスが起きたことなど気づいていただろうに、ようやく振り向いてまばたきをするカインの表情は白い砂丘を思わせた。

 広大で、途方もなくて、果てしなくて、決して透明ではないのに透き通ったなにかがあって、真白にさらさらと流れていく。

 カインヘル・アベルカムとは、こんなひとであっただろうか。

 エリステスの知るカインは、いつも己を嘲笑し、馬鹿にして、貶めて、楽しいと、面白いと、指をさして、腹を抱えて断じる、ひととして底辺に位置するような性根の持ち主だ。

 大笑いして、だいすきなどとふざけたことを言う、最悪なやつだ。

 最悪な。

 真白が赤に塗り潰される。

 脳裏に蘇る光景。

 目を見開いて硬直するエリステスのそばへいつの間にか寄ってきたカインが、彼の背中を擦った。

 突き出されたのは濡れタオルのために用意されていたであろう桶。

 そうか、自分は吐き気がこみ上げているのだ、と理解するより早く、エリステスは吐瀉物を桶へと零した。

 殆ど胃液ばかりだ。

 喉が灼けて、数度咳き込む。

 カインが背中を擦る。

 落ち着いた頃、握りしめていた濡れタオルで口元を拭われ、桶を持ってカインは寝室を出た。

 呆然としている間もなくカインは戻ってきて、ベッドの端に座ってそのまま仰向けに転がった。


「満足したか?」

「……は?」


 カインは苦笑いする。

 普通のひとのような反応だ。


「振り返ってもらうどころか、記憶にさえ留められていなかった。憎い相手を自分の持つ力で叩き潰した」


 エリステスは嗚呼、と顔を両手で覆う。


「お前の願った通りだよ。なにもかも、お前のいいようにしてやった。満足はできたか?」


 嫌味を言う口調でも声音でもなかった。

 エリステスは嗚呼、嗚呼、と声を零す。


「カインヘル、お前、分かっていたのか」

「くだらないってことに? 所詮借り物の力では意味がないってことに? 消化不良にしかならないってことに? 望みに対して、俺が見合わないってことに?」

「分かっていたなら、何故」

「望んだのはお前だろう、エリステス」


 違う、そうではなくて、とエリステスはもつれた言葉を必死に作る。


「こんなものだ、こんな結末になる程度の過程だ。どうして、どうしてお前は付き合ったんだ。常のお前なら私のこの様を嗤ったのだろう。だが、いまのお前はそんな様子もない。なんだ、どうしてだ。なにが故だったのだ」


 カインは身を起こし、ベッドから数歩離れて大仰に両手を広げた。

 カーテンが揺れて、遅れて風が寝室を吹き抜ける。

 白い髪の流れるさらさらという音が、今にも聞こえてきそうであった。


「絶景を知っているか。俺は知っている。後にも先にも、後も先もなくなる光景だ。それは果てであり終であり、絶頂だ。

 等しく無価値になる。

 過去に見聞きしたもの、触れ合ったなにか、全てがすべて無価値になる。未来も同じ。希望さえ抱く隙もないほど埋め尽くされる。これ以上のものは、どこにもいつにも存在し得ぬのだと。

 等しく無価値であるということは、つまり等しく価値があるということと同義でもある。

 エリステス。お前にはなんの価値もない。凡俗凡人ひと山幾らの塵芥。お前のような俗物は古今東西掃いて捨てるほどに存在する。悪しき例としてすら扱われるような典型的な存在であるにも関わらず、自覚し改めることもできやしない芥もくた。それがお前だ。

 それが、一般的なエリステスの価値だ。

 だが、俺にとってはお前より上等な人間も、お前より下等な人間も、畜生も路傍の石も、王も皇帝も、等しく価値がないという均一な価値しかない。

 だから、エリステス。お前がどれだけ愚かでも、お前がどれだけくだらなくても、お前を見て楽しいと感じ、お前に好意を感じたなら」


 風が吹く。

 雲も流れたのか、カインヘルの顔が影になって見えない。


「お前は俺のなかでなによりも価値がある」


 絶景を知っているか。

 そこには途方もないものがある。

 そこにはすべてがあって、そこですべてがなくなる。

 生きてきた今までの時間も経験も関係もなにもかもが、その光景を前に洗い流され無色透明に消え失せる。

 しかし、無色透明でありながら、見透すことができないだけのもので満たされ尽くして真白に染まってしまうのだ。

 絶景を知っているか。

 そこには途方もないものがある。

 過去を零に精算し、未来を無価値に変える。

 そこには絶望があるのだ。

 この上なくうつくしい、絶望があるのだ。


「エリステス、お前は俺の愚にもつかない粗末な希望だよ」


 エリステスのなかで言葉にできるほど整理のついた感情が湧かなかった。

 フライハイトに無価値と扱われ、この結果を招いた。

 羞恥と虚無と遣る瀬無さ。己の器というものをどこまでも思い知る。

 そうして、カインに無価値なほど価値があると言われる。

 褒め言葉などではない。憤るべき言葉だ。

 けれども、無価値と断じられるに値する器しか持たぬエリステスは強く唇を噛み締め、爪を立てるようにシーツを握り締めてから言うのだ。


「…………これからも、私の騎士でいてくれるのか」

「もちろんですよぉ、ご主人様ぁ」


 にやにやと厭らしい顔でカインが嗤う。

 エリステスは安堵した。

 カインを手放すことなどできやしない、カインという力を失えばなにも持たないエリステスは、安堵してしまった。


「頼りにしている……カインヘル」

「お任せください、マイマァスタァー」


 カインが嗤う。

 げらげらげらげら。

 やかましく、耳障りなはずの笑い声はどうしてだろうか。

 エリステスの耳には、広大な砂丘での出来事のように、まるで響いて聞こえないのであった。

おしまい。

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