十一話
カインはフライハイトの拘束を解いた。
ぱっと瞬きの間に距離を取ったフライハイト。瞬きの間とは、あくまでエリステスや他の人間の動体視力でのこと。
カインにとってはのろまに過ぎる。
エリステスに手出ししなかったのは正解だ。
人質にでもしようとすれば、カインは仕方ないという体を装ってフライハイトの腕をもいでいた。
カインの態度からエリステスに人質の価値はないと判断したのかもしれないが、それならばご主人様は自分に感謝するべきだろうから報告するべきだろうか。さぞかし素敵な顔をするだろう。
どこまでも価値がないだなんて。
「さぁて、当初の予定変更。カインくんが懇切丁寧に赤い霧吹き散布してやんよ」
「……逆恨み晴らすのも他人任せかよ」
「こら! 正当な恨みかもしれないでしょっ? お前が今まで食ってきたパンを作った小麦がご主人様の余命幾ばくもない大切なひとがご主人様にせめて託そうと命を賭して育て上げた最後の小麦だとしたらどうするんだよ! 勝手なことを言うな、謝れよ!!」
「お前が大分勝手なこと言ってんじゃねえか……お前の後ろで主人がすげえ顔してんぞ……」
「エリスちゃんは生理期間の女子みたいなのが通常運転なんだよ」
「……カインヘル……いい加減に、してほしい」
カインは仕方なさそうに肩を上下させた。
こんなときでも「してほしい」という言い方をするしかないエリステス。命令をしても一蹴されることを知っている侯爵様。可愛いかわいい可哀想。
惨めで無様でそれに相応しい器しか持たない様が、とっても面白い。
エリステスは何度も何度もカインを笑わせてくれたし、楽しませてくれている。笑顔の絶えない職場とはなんて素敵なのか。
だから、カインはいいよ、と許すのだ。
それが望みならば叶えよう。
それをしてほしいならしてあげよう。
欲しいものはなに? 確認して応えがあれば、自身の思考を差し込まずに実行してあげよう。
カインは浮かべる。真白の笑みを。
脳裏に浮かぶのは生まれる前の光景。
カインヘル・アベルカムが生まれる前から引き継いできた、絶景の記憶。
真白の世界。
閃光に染まった空と大地、一瞬で吹き抜けた熱風は大地を融解させて、その場にいた兵士たちを余さず消した。
あれが神の雷か。
なにが起きたのか理解する必要はなかった。ただ、自分の番が迫り来るまでの一瞬いっしゅんを胸に頭に心に焼き付け、受け入れるだけ。
うつくしかった。
その光景は、途方もなく、うつくしかったのだ。
これ以上の光景はないと納得できるほどに。
これ以上の色彩は不要だと全身から捨て去らさせるほどに。
それは、一つの生をまたいでも尚、変わらない。
「――絶景哉」
ぞっとした。
怖気が全身を駆け抜けた。
なんて顔でわらうのか。
なんて様でわらうのか。
真白一色、透明に透き通りながらもなにも見透かせるものが存在しない無限にして夢幻を表情一つで創り上げ、その男は存在していた。
「なんて有様だ……お前はそれでも人間か」
無意識の呟きにゆらりともせず、カインヘルはまるでなにかを紹介するように顔の横で片手を広げた。
「人間でございますよ。ええ、お前より完成しているだけで」
あまりの速さに空気が熱でも孕んだか。
フライハイトが最期に感じたのは痛みでも音でもなく、頬を撫でた熱風の感触のみであった。
カインヘル・アベルカム。
無色透明、真白の幽鬼。
冒険者としては無名であっても、傭兵としては伝説とさえ謳われる怪物。
大なり小なり戦争という国事に関わる故に、あまりにも強大な存在は国家包みで情報が規制される。
故に、カインの存在は王侯貴族や高等軍人であれば既知であるものの、民間では如何に凄腕の冒険者であっても噂を知っていれば大したものというほど。
情報というものが重視される冒険者でもこの扱いなのだ。
どれだけカインの存在が隠匿されているか、察せるというものである。
如何に相手にとっては突然の状況であろうとも、得物を持つSランク冒険者を訳も分からぬうちに屠殺してみせた手腕は、異常という他ない。
更に言えば、カインの動きは常人にはとても捉えられるものではなかった。
エリステスには……カインに己の力でフライハイトを圧倒しろと言ったエリステスには、気づけばフライハイトが消えて壁と天井と床が赤く塗り替えられていたという不可思議な現象が起きているようにしか見えない。
真っ赤なのだ。
四方上下が、ひたすらに真っ赤なのだ。
醜怪な物語の描写にあるような肉片だとかは存在しない。
丁寧に丁寧に丁寧に丁寧に均等に均等に均等に均等に微塵に微粒に粒子が如く破壊された人体がぶち撒けられて、部屋を赤い箱に変えたのだ。
エリステスは部屋が赤いことを理解しても、すぐには何故赤いのかを理解できなかった。
そんなエリステスの鼻腔に突き刺さったのは、鉄さびと生臭さの混じり合った独特の臭気。
頭で理解するより、体が反応した。
胃が引き絞られるような感覚がして、せり上がってきた胃液が食道と喉を灼きながらエリステスの口から溢れる。
「っぐ、ぅ、うえ……っ」
膝を突いて、手を突いて、ぬるりと滑って、エリステスは真っ赤に染まった手のひらを見開いた目で凝視する。
まるで、糸で吊ったような動きでカインを見上げれば、真っ赤に染まった部屋のなか、エリステスでさえ真っ赤になったのに、変わらず真白の姿で立っていた。
ふらり、と遠のいたエリステスの意識。
最後に視界を染めたのは白であった。




