揺らぎの中で
夜は、静かだった。
あの男が現れてから、誰も口を開いていない。
店の明かりだけが、やけに白く感じる。
なゆたは、椅子に腰を下ろしたまま動かなかった。
視線は、ただ自分の手に落ちている。
残っている。
黒い霧が、わずかに指先に絡みついていた。
消えたはずなのに。
押さえ込んだはずなのに。
……ボクを、抑える?
男の言葉が、頭から離れない。
「……なゆた」
ヤマトの声が、静かに落ちた。
顔を上げる。
視線がぶつかる。
「さっきの、気にすんな」
軽い調子。
だが、目は笑っていない。
「ただの揺さぶりだろ」
「……そうかな」
短く返す。
だが、その声は少しだけ弱かった。
「だってさぁ、」
ヤマトは肩を竦める。
「お前が危険なら、とっくに世界終わってるって」
「それは……」
言いかけて、言葉が止まる。
そうじゃない。
“今は”大丈夫なだけ。
「なゆた」
今度は、名前を呼ぶ声が少し強かった。
「こっち見ろ」
促されるまま、視線を上げる。
ヤマトは、真っ直ぐこちらを見ていた。
逃げ場がないくらいに。
「もし仮にだ」
ゆっくりとした口調。
「お前が危険だとしても——」
一拍、間を置く。
「そのために俺がそばにいる」
言葉は、短かった。
それでも、
それだけでも十分だった。
「……っ」
胸の奥で、何かがほどける。
同時に、
締め付けられるような感覚もあった。
「一人で抱えんな」
ヤマトは少しだけ笑う。
「そういうの、似合わねぇからさ」
なゆたは、わずかに目を伏せた。
……ずるいな
そんなことを言われたら、
否定できなくなる。
「でもさぁ」
ニコが口を挟む。
いつもの軽い調子に戻っていた。
「気になるのは事実でしょ?」
テーブルに肘をつきながら、なゆたを見る。
「“抑えるためのもの”ってやつ」
「……ああ」
サクヤが頷く。
「情報としては無視できない」
「だよねぇ」
ニコは小さく笑う。
「壊すつもりで探してたのに、実は違いました〜って言われても困るし」
沈黙。
「……壊す」
なゆたは、小さく呟いた。
その言葉は、どこか遠い。
なんで、壊そうとしてたんだっけ
最初から決めていたはずなのに。
理由も、覚悟も。
なのに今は、
その“当たり前”が揺らいでいる。
「なゆた」
サクヤが静かに呼ぶ。
「結論を急ぐ必要はない」
「……」
「祢々切丸が何なのか」
淡々とした声。
だが、確実に芯を捉えている。
「それを確認するのが先だ」
「確かめる、か」
ヤマトが小さく繰り返す。
「うん、それがいいわね」
ニコも頷いた。
「壊すかどうかは、そのあと決めればいいじゃない」
三人の視線が、なゆたに集まる。
なゆたは、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥に残っていた重さが、
少しだけ軽くなる。
「……そうだね」
小さく、頷く。
「まずは、見つける」
その言葉は、
これまでと同じようでいて——
少しだけ、違っていた。
壊すためじゃない。
確かめるために。
「決まりだな」
ヤマトが笑う。
「じゃあ次は——」
その瞬間。
カタリ、と窓が鳴った。
全員の視線が向く。
外。
電線に、カラスが並んでいる。
一羽、二羽じゃない。
異様な数。
「……多くない?」
ニコが呟く。
サクヤの表情が、わずかに変わる。
「……おかしいな」
次の瞬間。
一斉に、カラスが飛び立った。
空を裂くような羽音。
その中の一羽が、
窓にぶつかる寸前で止まり——
サクヤの前に落ちた。
「っ……!」
地面に落ちたカラスは、
ピクリとも動かない。
「死んでる……?」
ニコが眉をひそめる。
サクヤはしゃがみ込み、その体に触れた。
「いや……違う」
ゆっくりと、顔を上げる。
「術だ」
その一言で、
空気が一気に冷える。
なゆたの指先で、
黒い霧が、わずかに揺れた。
…来る
確信のようなものが、あった。
祢々切丸に繋がる“何か”が、
すぐそこまで来ている。
静かに、目を細める。
「行こう」
その声は、もう迷っていなかった。
探す。
確かめるために。
その先にあるものを、
全部——
自分の目で見るために。




