静かな侵入者
店は、何事もなかったかのように静まり返っていた。
割れたはずのグラスも、倒れた椅子もない。
血の匂いすら、残っていなかった。
「……全部、消えてるな」
ヤマトが小さく息を吐く。
サクヤは窓の外へ視線を向けたまま、静かに口を開いた。
「異界の中で起きたことは、基本的に外には残らない」
「便利なようで、厄介ね」
ニコは肩をすくめる。
「証拠が一切残らないってことだし」
その言葉に、誰も返さなかった。
なゆたは、ただ自分の手を見つめていた。
━━まだ、消えていない。
黒い霧が、ほんのわずかに指先に絡みついている。
(……残ってる)
ゆっくりと拳を握る。
さっきの感覚が、まだ身体の奥に残っていた。
「なゆた」
呼ばれて顔を上げる。
ヤマトが、少しだけ真剣な目で見ていた。
「……大丈夫か?」
「……問題ない」
短く答える。
だが、その一瞬の間を、ヤマトは見逃さなかった。
「無理すんなよ」
軽く言うが、その声はどこか低い。
なゆたは目を逸らした。
「……あの術」
サクヤが口を開く。
「人間のものだ。間違いない」
「妖怪を操るってこと?」
ニコが眉をひそめる。
「そこまで珍しい話じゃないけど……今回のは質が悪いわね」
「祢々切丸に繋がってる、ってことか」
ヤマトの言葉に、空気がわずかに張り詰める。
なゆたは小さく息を吐いた。
「……近づいてる」
誰に言うでもなく、呟く。
その時だった。
店の扉が、静かに開く。
カラン、と乾いた音が響いた。
「いらっしゃいませ——」
ニコがいつもの調子で振り向く。
だが、その言葉は途中で止まった。
「……あら」
入ってきたのは、一人の男だった。
人間。
それだけなら、珍しくはない。
だが。
(……違う)
なゆたは無意識に目を細める。
その男は、まっすぐこちらを見ていた。
「ここ、バーで合ってますよね?」
柔らかく笑う。
だがその目は、笑っていない。
「少し、話を聞きたくて」
静かな声だった。
その瞬間。
なゆたの中で、何かが引っかかった。
(……こいつ)
黒い霧が、わずかに揺れる。
男は一歩、店の中へ踏み込んだ。
「半妖について、詳しい方がいると聞いて」
その一言で。
空気が、完全に変わった。




