狐火の記憶
黒い霧が、境界を埋め尽くしていた。
崩れる。
空間そのものが、軋んでいる。
無数の扉が悲鳴のような音を立て、
闇が裂け始めていた。
その中心で。
なゆたは、荒い呼吸を繰り返していた。
鬼面は砕け、抑え込んでいた妖気が止まらない。
視界の端が、黒く染まる。
「返して……」
掠れた声が漏れる。
視線の先には、大剣を握るヤマト。
黒い目。
九尾に侵されたままの姿。
「兄ちゃんを返して」
その瞬間。
空気が、止まった。
ヤマトの口元から、
笑みが消える。
「……兄?」
九尾の声が、
初めて揺らいだ。
低く。
戸惑うように。
「何を言うてる」
黒い狐火が、ゆらりと揺れる。
「お前の兄は——」
一瞬、言葉が止まる。
「お前が殺したはずやろ」
なゆたの肩が、震えた。
だが。
「違う。知らない」
即答だった。
黒い霧が、さらに溢れる。
「返して」
九尾は黙る。
その沈黙が、
逆に異様だった。
(……兄?)
理解できない。
なゆたの兄は死んだ。
それは変わらない。
なら——
今、誰を見ている。
九尾の中に、わずかな違和感が落ちる。
その瞬間。
ふと、記憶が過った。
━━昔。
まだ、幼かった頃。
狐の子だと、
石を投げられていた。
「化け狐!」
「気味悪い!」
誰も近づかない。
誰も、触れない。
血の滲んだ手を握り締め、
九尾は黙って俯いていた。
その時。
目の前に、
小さな影が立つ。
「……大丈夫?」
顔を上げる。
そこにいたのは、
幼いなゆただった。
周囲がざわつく。
「おい、近づくな!」
「そいつ狐だぞ!」
だが、なゆたは離れない。
「なんで?」
九尾が聞く。
「みんな嫌がるのに」
なゆたは少しだけ考えて、
小さく笑った。
「ボクも嫌われてるから」
その言葉だけが、
やけに鮮明に残っていた。
━━バキッ!!
境界が大きく崩れる。
九尾は意識を現在へ戻した。
黒い霧が暴れている。
「っ……!」
ニコが腕で顔を庇う。
「まずいわよ、これ……!」
「境界が耐えきれない!」
サクヤが槍を突き立て、
崩壊を抑え込もうとする。
だが止まらない。
「なゆた!」
ヤマトの体が、わずかに震えた。
黒い瞳が揺れる。
「逃げろ……!」
掠れた声。
一瞬だけ、
ヤマト自身の意識が戻る。
「ヤマト……!」
なゆたが手を伸ばす。
だが次の瞬間。
赤い妖気が、
再びヤマトを呑み込んだ。
「っ、ぁああ!!」
苦しそうな叫び。
九尾が舌打ちする。
「……ちっ」
その声に、
サクヤが目を細めた。
「支配が乱れてるのか」
「……うるさいなぁ」
九尾の声が低くなる。
狐火が、
強く燃え上がった。
「そない簡単に戻られたら困るんよ」
ヤマトの大剣が、
再び持ち上がる。
だが。
その動きは、
さっきより鈍かった。
「ヤマト!」
なゆたが叫ぶ。
赤い目が、
わずかにこちらを見る。
「……逃げろ」
「嫌だ」
即答。
なゆたは一歩踏み出す。
「置いていかない」
九尾が、
静かに目を細めた。
「……変わらんな」
ぽつりと零す。
「昔から」
その声には、
わずかに熱が混じっていた。
「なんでお前は、いつもそうなんや」
なゆたは眉を寄せる。
意味がわからない。
だが九尾は、それ以上言わなかった。
代わりに。
狐火が、一斉に広がる。
「っ……!」
空間が裂ける。
巨大な亀裂。
境界そのものが崩れ始めていた。
「もう限界だ!」
サクヤが叫ぶ。
「このままじゃ全員飲まれる!」
扉が落ちる。
闇が崩れる。
足場が消えていく。
その中で。
九尾の声だけが、
妙にはっきり響いた。
「死にたないなら来い」
狐火が、
奥へ続く道を照らす。
「出口くらいは教えたる」
ヤマトの中にいる九尾は振り返る。
ニコは険しい顔で舌打ちした。
「……信用できない」
「やろうなぁ」
九尾が笑う。
だが。
その笑いは、
どこか寂しそうだった。
「けど」
狐火が揺れる。
「今は、俺しか道知らへんよ」
崩壊音が迫る。
境界が、
完全に壊れ始めていた。
ここまで見て下さりありがとうございました。
境界が崩れるってなんでしょうね




