第三話 救い人 その3
「ありがとう、って言ったのよ」
ひどく優しい声で、彼女は話す。遠い昔の記憶のはずなのに、語られる言葉には鮮烈さがあった。この人にとってその奇跡がどれだけの影響を与えたのか、聞いているだけで分かった。
亡夢伝承を調べていくうちに、今も生きている体験者の情報を手に入れた私は今、その人の元へ取材に訪れていた。
年は既に九十を超え、たった一人で生きていたその老婆は、私の質問に生き生きとした表情で答え、事の顛末を語ってくれた。
その話は、奇跡としか言いようがなかった。ひと夏のその出来事は、間違いなく体験者の脳に刻まれることだろう。
「あの人は、突然現れたの。失って、諦めて、孤独さに押しつぶされそうになった私の前に、もう一度だけ会いに来てくれた。あの時のあの人のまま、私に希望をくれたのよ」
「希望?」
「ええ。あれは、もう二度と会えないって、何度も何度も突き付けられた後だったから」
「何を話したんですか?」
「それはもう、色々よ。ええ、本当に」
そこで、彼女は突然沈黙する。
「……芳江さん?」
「えっとねえ、ごめんなさい。内容は、思い出せないの」
「いえ大丈夫です、芳江さんにとっては昔の事でしょうし――」
「違うの」
はっきりと、彼女は言う。
「違うって、何がですか?」
「……奇跡には、必ず代償があるのよ」
「代償、ですか」
「そう、代償」
それは、懺悔だったのかもしれない。夢を、現実にしてしまおうとしたことへの。
「私はあの人と過ごす時間が好きだった、あの人と話す事が好きだった」
「好き、だった?」
「ええ、そう。好きだった」
「何で、過去形なんですか?」
返答の代わりに返されたのは、もの悲し気な笑顔だけだった。
取材内容を軽くまとめた後、私は芳江さんの家を後にした。既に赤く染まった空の下を歩きながら、私は考える。
もしも自分だったら、私は誰を望むのだろうか。当てはまりそうな人の顔を思い浮かべていく。でも、どうにも見当が付かなかった。何故だろうと思考して、一つの結論にたどり着く。
私は、今だ喪失を知らないのだ。
昔から、他者との関わりが薄かった。というよりも、自分以外をあまり信用していなかった。立場が、場所が、時が変われば、人は簡単に変わる生き物だという事を知っていたから。
得るものもなかったが、失うものもなかった。けれど、それを決して不幸だとは思わなかった。すぐ近くに、得る者もないまま、ただひたすら多くのものを失った人間がいたからだ。
幸福には、基準がある。一定の水準を満たしていれば、自らをある程度幸せだあると定義できるだろう。
基準はそれぞれの生き方によって異なるが、いずれにしてもその線引きを知っているからこそ、人はそれを維持しようとしたり、さらに上を目指したり、或いはそこへたどり着こうとしたりする。
なぜならば、本来人は、幸福であろうとする生き物だからだ。




