第四話 何もない日 その1
【2019年 8月5日】
・視点 三司祈李
――カチッ
何かの音が聞こえた。それに伴って意識が芽生える。無意識に、当たり前に私は目を開けようとしたが、瞼は閉じたままだった。
徐々に体全体が目覚め始め、私は現状を知っていく。足は地についている。手も開いたり閉じたりできる。肌は空気が確かにあることを感じさせる。眼が開くことを拒絶していることを除けば、何もおかしなことはなかった。
辺りの情報を得ようと腕を腕を動かしてみるものの、ただ空を切るのみ。鼻から息を吸い、口から吐き出しても何もない。
これ以上何をすべきか途方に暮れかけた時、再び音が聞こえた。文字通り右も左もわからないまま、私はその方角へと向かうことにした。
一歩一歩、確かめるように慎重に歩く。何も見えないということだけで、私の心には強烈な恐怖が襲い掛かって来る。転ばぬように、慎重に歩く。
ただひたすら歩き続け、何分が経っただろうか。音はあれ以降なることはなく、当てもないまま真っ直ぐ進むことに不安を覚える。けれど立ち止まったところで何もないのも事実であるため、私はその心を押し殺す。
先へ、先へ、先へ。
何にも頼らず、振り返ることをせず。
前へ、前へ、前へ。
何かがあると信じて疑わず、頼る人もおらず。
歩いて、歩いて、歩いて、永遠にも感じられるほど歩き続けた。
――ドンっ
突然の鈍い音とともに、私の身体が後ろへと傾く。その衝撃でか、ずっと閉じていた私の目が開かれた。
月明かりのある夜のような空間に、目の前の人を含め、何人もの人物が立っている。
どこかで見たことのある彼らは、皆一様に私を見て何かを呟いている。重力がなくなっているかのようにゆっくりと、けれど抗うこともできないまま、体が倒れていく。目の前の人に助けを求めようと、私は右手を前に伸ばした。
「っつ!」
思わず、目を見開く。痛みの走ったほうを見ると、私の右手の手首から先が失われて、黒い血が噴き出していた。それを知覚した途端、今度は胸に痛みが走る。下を向くと、私の胸に、何本もの針が刺さっていた。
瞬間、私の意識が落ちていく。ようやく開いた目は再び閉じられていく。
完全に闇に染まりかけたその刹那、誰かが私の手を取ろうとした。けれどそこに掴む手はなく、私は地面へと倒れ、すぐさま意識を失った。
次に目を開いたときに見たのは、明かりのぶらさがる天井だった。荒くなった呼吸のまま、あたりを見渡す。少しして、目が覚めたことを認識した私は、一つ深いため息をついた。
落ち着きを取り戻した私は立ち上がる。そこで私の鼻腔に、湿ったにおいが広がった。
後ろを振り返って窓の外を見ると、いつもの陽ざしは消え去り、久々の雨が降っていた。心音も邪魔をしなくなり、荒々しく水の打ち付ける音が聞こえる。
そういえば昨日、天気予報で既にこの雨を知っていたことを、私は今更になって思い出した。
「……」
「……何?」
洗面所、私を見るや否や歯を磨く手を止めて、馬鹿みたいに目を開いて呆けている真那に、私は思わずそう問いかける。
真那は悩むような素振りをして、質問から1分程立った頃、無言で鏡の方を指差しながら、目線で私に促した。
何なんだと思いながらもそれに従って鏡を見ると、そこには目元が泣き腫らしたように赤くなって、寝起きにしたって随分と酷い顔が映っていて。成程、朝からこんな顔を見せられたらああもなるなと、私は納得せざるを得なかった。
顔を洗ってすっかり目が覚めた後、私は流れ作業のように台所へと向かった。
道中、すれ違った時雨姉弟にに真那と似たような顔をされたけれど、二度目だからか、今度は気にせず歩いていく。
それから、いつものように朝食を食べ終えると私は歯を磨き、部屋に戻って身支度を済ませる。
慣れた手付きでカセットテープとプレーヤーを持っていつものように玄関に向かおうとして立ち上がった時、窓の外を見た私は、本日二度目、堂々たる雨の存在を思い出し、一つ大きく溜め息をついた。
※※※※※※
「……あのさ、本当に大丈夫?」
どんよりと暗く、ザアザアと音を立てて降り落ちる雨を眺めながら、同じくらいにどんよりとした心を抱えながら机に突っ伏していると、そんな声が聞こえてくる。
「何の話?」
顔もあげず、下がったテンションのまま気だるげに声に返事をすると、
「いや、何の話じゃなくてさぁ……」
今度は、あからさまに呆れたような、面倒くさそうな声が聞こえてきて、
「私を気にしてる暇があったら勉強しなよ」
ムッと来た私がそう言うと
「そう思うなら視界に入るところでそんな無気力そうにしないでくれない?」
という、ぐうの音もでない正論を真正面から叩きつけられた。
そうして、遥に文句を言われて仕方なく、私は机に突っ伏すのをやめて、今度は畳に寝転がる事にする。
背中が畳についてすぐ、大して変わってないじゃんなんて声が聞こえた気もするが、おそらくは、気のせいだろう。
時計を見ると、時刻は既に十時を過ぎていた。いつもなら今頃、澄希さんと楽しく談笑をしていた頃だ。
けれど憎らしいことに、外では未だ、これまでの鬱憤を晴らすかのように雨が降り続けている。
眺めながらどうしようかと思ったが、結局那にも思い付かなかった私は、さっきのやり取りを都合よく忘れ、暇潰しをすることにした。
「ねえ、遥」
「ん、何?」
「いやさあ、そういえば真那ってどこ行ったのかなって思って。今日は全然見ないから」
「ああ、それなら確か彼方連れて調査してくるって言って結構前に出てったよ」
そこまで聞いて、そう言えば最後に見た真那が外行きの格好をしたことを思い出してから改めて外の光景を見やって、
「この雨でとは、二人ともよくやるなあ」
何て、心にもないことを呟くと、
「私もそう思う。て言うか、そういえば祈李姉、今日は出掛けなくていいの?」
と、そんな答えのわかりきっているだろう質問に対して私は、
「今こうして暇してる時点で分かるでしょ」
「まあ、それはそうなんだけど」
そこまで話したところで、話題も尽き、遥も勉強に集中したところで、とうとう会話が途切れてしまった。
何とか捻り出そうとしても思い浮かばず、かといってこれ以上騒がしい真那と弟のいない貴重な時間を有意義に使う受験生をこれ以上邪魔するのも気が引けて、仕方なく私は黙り込んだ。
何も発することのない時間を過ごして暫くが経った頃、ここ暫くはずっと、澄希さんとしかまともに会話をしていなかったなあと、私はふとそんなことを思う。
そして、改めて考えた現状に少しばかりの新鮮さを覚えるのと同時に、私は昨日までの彼女との時間を思い返してみる事にした。
来て暫く、綾音さん、遥、彼方、そしてどうしてか居候している真那との日々は、退屈とは言わないものの、代わり映えはなく、むしろ昔を思い出すばかりで、嫌気が指してはあの場所に行き、何とか気を晴らして過ごす日々だった。
でも、澄希さんに出会ってからは、鬱憤晴らしの場だったあの場所は一番の楽しみの詰まる所へ変貌して、気付けば嫌なことなんて忘れていた。
楽しくて、嬉しくて、そんな日々、そんな時間は今まで過ごしたことがなくって。
だからなのか、今のこの時間は、何処か息苦しくてしょうがない。
でも、かといって今出ていった所で、それはそれで嫌な思いをするだけだろう。
降り帰りの末にそんな結論を付けた私は、雨に濡れる無人のあの場所を思い浮かべながら、今頃、私の知らないあの人は一体何をしてるのだろうか何て考えて、そのままだらりと転がった。




