第三話 救い人 その2
どうすれば良いのだろうと、私は時雨家で椅子に腰かけ考える。
「誰か教えてくれないかなあ」
小さなつぶやきは、ちりじりになって風に運ばれていく。
「お待たせ」
声とともに、綾音が、二人分の麦茶をもって部屋に入ってきた。自分の分を受けとって口にする。冷えた麦茶は、私の喉元を過ぎていった。
一息ついた私は、綾音と向き合う。
「ごめんなさい、急に来たりして」
「何言ってるの、清美ならいつでも大歓迎」
「そう?ならいいけど」
「さて、今日の要件は、もしかしなくとも祈李?」
「正解」
「めげないねえ、集まりの時もあからさまに拒絶されてたけど」
「言われなくてもわかってるわよ」
「珍しいね、こんな強硬策に出るなんて」
「今はそれ以外手が思いつかなくて、しょうがなくよ」
「やっぱり、友寄君の影響?」
「さあ、どうかしらね」
「彼、丁度昨日連絡くれたわよ。数日後にはこっち来るってさ」
「知ってる、来る前に聞いてたもの」
「意外、連絡とってたんだ」
「先を越されちゃったけど、私も責任取ろうと思ってたからね」
「成程、だから帰ってきたわけか」
「ええ。じゃなきゃ帰ってこないわよ、こんなとこ」
「それもそっか」
「……あの子も、帰って来るべきじゃなかったのよ」
「清美には、そう見えた?」
「見える見えないじゃなくて、事実よ。本当、何考えてるんだか」
「友寄君の事だから、考えなしってことは絶対にないと思うけど」
「それくらいは分かるわよ、彼以上に努力が似合う人は知らないもの」
「認めてるんだ」
「……ただの僻みよ、彼が逃げるのをやめたから、私も向き合うしかなくなったんだもの」
「変わらないのね」
「生憎、こういう生き方しかできないから」
「まだ、そう言ってるんだ」
少し、声色が変わる。綾音の顔を見ると、先ほどまでと同じ笑みを浮かべていた。
「綾音」
「何?」
「一つ、言っておくけど、私は今でもあの人たちの事、憎んでる」
「だから?」
「だから、言い訳にしかならないのは分かってるけど、あの時は、もうこれ以上自分の人生を縛られたくなかったの。たとえそれが、あの子の不幸と引き換えだったとしても。それだけは、分かって」
「……それで納得させれると思う?私を」
「いいえ。思ってないし、求めてもない」
「そう」
「でも、今のあの子を救いたいって思ってるのも本当なの」
「矛盾してるよ、それ」
「ええ、だって、元から歪んでるもの」
そういって、私は立ち上がる。
「もう行くの?」
「ええ、また来るわ」
「そう」
会話はそれで終わる。私は玄関へと歩みを進め、扉を開けて外に出る。先ほどまで遮られていた日差しが、容赦なく私を照らした。
しばらく歩いていくと、見知った道へとたどり着いた。目の前の分岐は、片方は家へと、もう片方は町の外へと続くバス停へと続く。少し迷った後、家の方へと足を向けた。
「ただいま」
返答は待たず、すたすたと居間へと向かう。机と座布団だけが無造作に置かれたその空間は、相変わらず整然とした様子で私を出迎える。
座布団を動かし、人目を気にせずどさりと寝転がる。先ほどまでの理性は消え、私という本能が、不快さとともに目を覚ました。
わずかに軽蔑と嫌悪の溢れた眼差しが脳裏に浮かぶ。
「いいじゃないか、幸せなんだから」
人前ではいえないようなことを呟く。しばらく待っても、その声に返される音は何も無かった。心にもない言葉を聞かれなかったことに安堵した後、あのやり取りを思い返す。どれだけ、嘘をついただろうか。
綾音には…親には、さぞ身勝手な屑に見えたに違いない。それは仕方がない、事実なのだから。彼女は愛や勇気がある立派な人間だ。嫌悪して、逃避して、忘れようとして、それでも逃れられなかった私とは違う。
「私が――」
何度も口から出そうとした言葉が、今日も喉につっかえる。その言葉が出た彼の顔が頭に浮かび、私の心から何かが零れる。
先を越された劣等感、追いついてやろうという対抗心、そしてまた、一歩踏み出すことを躊躇わせる言い訳。
いやに巡りだした思考を振り払おうと、私は勢いよく体を起こす。現実へと心を戻した私は、立ち上がって歩む。
居間をでて、いくつかの部屋を過ぎ、一つの扉を開ける。他の部屋とは打って変わり、そこにはいくつも物が、過ぎ去った日々をつなぎとめるように残っていた。
何度も、何度も片づけられようとした。親に、親戚に、そして私に。けど彼らはそれを、ありとあらゆる手段で回避する。まるで、部屋の主が戻ってくることをずっと待っているように。記憶の奥底から、私の名を呼ぶ声が聞こえる。
明るくて、いつも自由で、正直者で、好かれていて、それが羨ましくて、妬ましくて、憎くて憎くてしょうがなかった、忽然と消えて、そのまま私を置いていった人。
――もしも、もう一度だけ会えるなら、私は何を言うのだろうか。




