第十七話 あの日、あの夏、あの場所で その8
まるで一瞬だったような気も、永遠だったような気もする。それでも、時の流れていたという事だけは確かで、それはつまり、進むのならば、何時かには、終わりが来るという事。
受け入れなければならない。例え、どれだけ望んでいたことだとしても、それは、ありふれていないからこそ、奇跡と、そう名乗れるのだから。
「……そろそろ、だね」
言うと、彼女は私を抱きしめていた手を放して、そっと、静かに離れる。空いた一人分の隙間にまだ熱は残っていて、ほんの少し、温かい。
そんな事を思った瞬間、私の体はふらりと揺れて、倒れそうになって。咄嗟に彼女が支えてくれたおかげで何とか倒れずには済んだものの、どうも、足に力が入らなくなった私は、そのままへなへなと地面へ座り込んだ。
そんな私に合わせて彼女もしゃがむと、片手と体で私を支えたまま、そっと私の頭を撫でて、
「もう、しょうがないなぁ」
そんなんでこの後どうするの、何て言いながらも、声は優しく笑っていた。それに、また甘えてしまおうとも思ったけど、その時、私と彼女の間に舞い込んだ冷たい風で、不意に私達は隔たれる。
果たして、その風がどこからやって来たのかはわからない。でも、只一つ、熱を帯びていた私の心が、現実へと目を向けたのは確かだった。
「大丈夫」
言い聞かせるように。自分にも、彼女へ向けても。それだけでわかってくれたのか、彼女は手を離して、もうすっかり立とうとしている私からもう一度。今度は、名残惜しさも手放しながら。
力を込めて、いつも通りに精一杯足を伸ばす。ピンと真っ直ぐに立ち上がったままに顔をあげると、そこには、何時か見たあの屈託の無い笑顔で、晴れ晴れと笑う彼女がいる。
そんな彼女に答えるように、私も、今出来る限り、笑える限りで、口元を曲げた。
下手に開けっ放しにすると、余計な事を呟いて、きっとこの奇跡を、名残惜しく思ってしまう。
だからこれで良い、これで良いんだ。だって、ここで終わりなんかじゃない。
やっと私は、普通になれた。当たり前でもらえる分をこれまでの数だけ、これからの数だけ、全部もらってしまったから。
何時か、誰にでも来るはずの未来の前借りまでした以上、私は生きなきゃいけない。遠く遠く、ずっと先まで、どこまでもお母さんのいないこの先を、生きていかなきゃ、いけないんだ。
「……ねえ、最後に一つ聞いても良いかな」
そんなことを思っていると、突然、彼女が私に告げる。
「ん、何?」
聞き返すと、彼女は、ほんの少しだけ躊躇ってから、それを、私に聞いてきた。
「祈李、恋愛とかって興味ある?」
「……はい?」
ポカンと数秒、飲み込み数秒、理解に数秒、そうして脳が出した答えは、そんな、気の抜けた声の疑問。
「最後に何を聞いてくるのかと思ったら、何で今それなの」
呆れながらいう私に、彼女は、違う、違うんだよと丁寧に前置きをしながら、
「いや、ふと思っただけなんだけど。祈李、このまま一人で生きていこうとか、そんな風に思ってないかなって。
ほら、何て言うかさ、駄目になった私でも生きてられたのは支えてくれる人がいたからだったから。私としては……いや、私達としては、祈李が幸せに生きていってくれさえすればそれで良いんだけど……」
そこまで言われて、ようやく言葉の意味が理解できた。そうだった、形こそ変わっていったけど、この人の心の拠り所は、何時も誰かとの愛だった。だからきっと、それしか浮かばなかったんだろう。
そんな彼女に、私は、
「言われなくても平気。まあ、恋愛がどうとかはまだわかんないけどさ。でも、もう分かってるから。
私は、元に戻っても一人なんかじゃない。色々な人が、色々な形で私を大切に思ってくれてる。何かあったとき、話を聞いてくれる人は沢山いる。うん、だからさ、お母さん」
すう、と一つ息を吸ってから、もう一度。改めて、声高らかに宣言する。
「私は大丈夫、もう大丈夫。これからどんな事が待っているとしても、私はきっともう大丈夫」
「――だからもう、奇跡何て、願わなくたって大丈夫」
言うと、彼女は一瞬、驚いたような顔をして、だけど、すぐにまた笑う。そして、
「わかった。じゃあ、信じる。信じる、けどさ」
――それでも、ずっとずっと見守ってるから。
それをを最後に、意識は途切れて、その夏の、あの夏の奇跡は終わった。
――カチッ
この先にはきっと、当たり前の幸せは無い。今まで通り、私の日々は、親のいない、人並みに不幸な人生。
生まれた時から決まっていた、不幸な運命を生きていく。
けど、それは誰かの思う不幸であって、私が決めた訳じゃない。
他人は誰一人変えられなくってもしょうがないから、せめて、自分だけは変えていこうと思う。
否定されたって、同情されたって、私はずっと言い張ってやる。
「私は、愛されてた。人並みに、人以上に愛されてた。貴方達に負けないくらい、私は愛されていたんだから、私の、私だけのこの人生を私は今幸せだと思ってる」
過去が何だ、何なんだ。私にも、貴方達にも、残ってるのは今とこれからだけなんだから、もっと、そっちを見てみなよ。
貴方の日々を、貴方だけの日々を生きて、もし、それでも私に構っていられるんなら、その時は、好きなだけ気にしてくれれば良いからさ。
それで、その心に誰かが救われて、貴方みたいに生きていけたら、それって、凄く幸福だと思う。
奇跡よりも、願いよりも、まず、目の前に差し出してくれた手を掴めるんなら、それに越したことは無いんだから。
※※※※※※
林の中、空っぽのカセットプレイヤーを抱えながら空を見る。
青々茂った木々の間に見える青空は、何処までも何処までも澄んでいて、希望溢れているからのように、暖かな陽光は隙間から差し込んでいた。
ここまで光があるということはきっと、もうお昼なのだろう。そういえば、お腹も気付けば空いたような。
「……帰ろう」
このまま暑さにやられる前に、早く時雨家に戻って、ご飯を食べよう。
そうして、私はその場所から、誰もいない林の中から、外へと、一歩踏み出した。




