第十七話 あの日、あの夏、あの場所で その7
そういうことだったのかと、あれだけ泣いていながら妙に冷静に理解したのを覚えている。腑に落ちた、というにはまさしくああいうのを言うのだろう。
どうして思い出したのかと言われれば、彼の死が、あの夏以上の喪失を私にもたらしたから。
それ程に大切だった祈李が自分のお腹の中にいるというのは不思議な感じがしたけれど、それ以上に、虚ろの中で彼に縋るしかないながらずっと生きてしまっていたのは、きっとこの為だったんだと、私は、ようやく自分の人生の意味を理解した。
持てる夢は無く、抱ける希望も無く、何にも縋れず、自分だけでは到底生きていけない私が最後に目を向けたのがこの町だったのは、結局、何処まで行っても心はあそこから抜け出せていなかったからだろう。
骨壺を連れて行ったのは、あまりに彼に縋りすぎていたせいと、私が手放させてしまったこの町の景色を、せめて、返させてほしかったから。
綾音が私たちを受け入れてくれたのは、奇跡だったと今でも思う。得なんて一つもなかったのに、それでも私を受け入れてくれた彼女の母親を、彼女を、私は裏切った。
彼女は私のせいじゃないと言ってくれたけれど、結婚した彼女に家を託してたった一人で出て行ったのは、間違いなく私のせいだ。
なのに、一度だけ彼女に会いに行った時、ひたすらに頭を下げる私に彼女は、
「うちを頼ってくれた、それだけで十分よ。貴方を家族にしてあげられなかった私に謝られる理由なんてないわ。悪いのは、私だもの」
そう言われた帰り道、どれ程自分の弱さと愚かさと醜さを呪ったか数えきれない。
今更意味の無い後悔を繰り返して、自己嫌悪して、いっそ、死んでしまうべきかとも思って。
でも、そんなくだらない死が許される世界に私は生きていなかった。だって私は、この先に待ち受ける運命を知っている。自分の生きた末に待ち受けるあの子の地獄を知っているのに、一体、誰が死ねるのか。
過去と未来だとか、理屈だとか、現実だとか、あの奇跡はそんなものを超越した何かであって、きっと、運命は変わらないのだと思う。分岐が諦めの果てである以上、あの奇跡がない未来では、私はもうとっくの昔に死んでいるのだろうから。せめて、出来る限りを成す責任が私にはある。
それでも、無邪気に笑う幼い貴方を見る度に、産んでしまったのは私のエゴでしかないのだと考えてしまった。私は、あの奇跡を無かった事にしたくないだけで、産まれた以上人生を歩む彼女に、苦しみしかない道への切符を渡してしまっただけじゃないかと。
実際、運命が何か変わらないかと、両親の元を訪ねたみたけれど、やっぱり事はとっくの昔に終わっていて。かつてこの町に蔓延した私という存在も、消えることは無くって。跡地には、無力な私が、只一人。
あの日の、過去を語る貴方を思い出す。泣きじゃくる貴方を思い出す。ごめんなさい、ごめんなさい。私が私として生きようと思わなければ、こんな事にはならなかったのでしょうか。中途半端に人間でいようとしたのが駄目だったのでしょうか。いや、そもそも、私が産まれてこなければ、貴方は……
『いけない』
いつか、そこまで考えたところで、誰かが叫んだ。
『それだけは、いけない』
内から脳裏に響く声は、一言ばかり、私に告げる。
『それは、あの日私なんかに救われてくれた彼女の全てを侮辱することになる』
そこでようやく、私はぎりと歯を食いしばる。これ以上、くだらない弱音を吐かない様に。
私に、ここまでの私を悔いて罵る権利はない。まだ、終わっていないのに、出来ることを本当に全て、人生全部をかけてやったわけじゃないのに一体何を悔いるというのか。
私はまだ、三司澄希という名の母親として、何も成し遂げていないというのに。
貴方は、この子は、祈李は救ってくれた恩人である前に、彼が残して、私が確かにこの世に産んだ、たった一人の私の娘だ。そんな子の幸せの為に生きる事に、難しい事何て何もいらない。今、ここで、母親として生きている私は祈李の為に、死ぬまで生きれば、それでいい。
何時か、私のいない未来でも、祈李が只々祈李として、こんな風に無邪気に笑ってくれていれば、それだけでいいんだよ。
『生きる』
起きて、食べて、働いて。
『生きる』
世話をして、家事をして。
『生きる』
未来の為に、少しでも、少しでも。
『生きる』
私がこの世にいる限り、揺るぎの無い幸せを。
『生きる』
だから、もっと、頑張らない、と……。
ある日の事、それは、どうしようもなく全身を駆け巡って、眠りにつこうとした身体は、そのまま地面へ倒れ伏す。何かをしようとしても、何処もうまく動かない。
絶対的なそれは、既に私を支配して、それ以上を私に許してはくれなかった。それはまさしく、理不尽の様に。
そんな最中で、久しく聞こうともしていなかった命の燃える音がした。燃えて燃えて、間もなく燃え尽きようとする刹那に盛る猛火の音が。
手を伸ばす。目の前には、今日も安らかに眠る祈李がいる。何とか触れて、起こさぬようにそっとそっと抱き寄せると、幼い貴方の暖かな熱が、凍える身体へ伝播してきた。
生きている。今、この子は生きているんだ。そして、この熱のままに生き続けて、いずれ、この子はあの夏に辿り着く。辿り着けるように、出来る限りはしておいた。
貴方が教えてくれたあの音楽の世界は、死んだ後、貴方が見つけてくれたあの場所に向かうだろうから、どうか、もう一度見つけてね。
いつか、貴方が自分の道を見つけた時、その道を選べるように、出来る限りお金は貯めておいたから、好きなように使ってね。
本当、そんな出来る限りばかりで、変えられないものの方が多かったけれど、私と違って色んな人があなたを見てくれるように、せめて、それだけ祈らせてね。
貴方にはまだ、私の知らない、貴方だけの未来が待っているから。どうか、どうかその未来が、幸せでありますように。
ああ、でも、やっぱり、貴方が一人でも幸せでいられるくらい、貴方にあげる事が出来なくって、当たり前に未来を生きる、ごく普通の、理想の母親に成れなくって、
「……本当に、ごめんなさい」
最後に一つ、悔いを残して、私はこの世から消え去った。
※※※※※※
「あの夏が私にとって何だったか、貴方が私にとって何だったか。これで、答えになったかな?」
語り終えて、休み代わりにふぅと一つ息を吐いて、私は彼女に問いかける。色々話す為に時折話が脱線していた気もするけれど、ひとまず言うべきことは全部話せた、と、思う。
まさか、こうして伝える機会があるなんて思ってもいなかったから、正直、ちょっと疲れた。言葉にするというのは、やっぱりものすごく心を使う。これで良いかなあとか、大丈夫かなあとか、ついつい考えてしまう私だけかもしれないけれど。
上手く、話せていたかな。言葉に変えられていたかな。こんなもので、祈李の役には立てただろうか。
何て、そんな風に思いながら答えを待っていた、その時。
「――私は、愛されたかっただけだった」
そんな言葉が、私の耳へと響き渡った。
※※※※※※
・視点 三司祈李
心が酷く熱を持つ。いつもなら、うじうじと越えられない一線を飛び越えるようにして言うものがそうなのだとしたら、これは、間違いなく告白なのだろう。
改めて、友寄さんの言っていた意味が良く分かる。こんなの、普通なら願いにすらならない。
この世界、少なくとも日本では、愛されるというのはごく当たり前に存在するもので、わざわざそれを願ってしまうのは、きっと、一握りの少数派なんだ。まあ、それでも私みたいに願う人はいるだろうけれど。数ある一つ、私が他の人と違っていたのは、
「私の願いは、只普通に、当たり前に“親に”、“お母さんに愛して欲しかった”」
綾音さんでも、友寄さんでも、清美さんでも、遥でも、彼方でも、その他大勢の誰かからでも、私の心は満たされない。無かったんだと諦められていたら、他に代わりを縋れていたのだと思う。
でも、どうにも私の心は、まともな記憶もほとんどないくせにそれだけは随分とはっきり覚えていて。それに代わり何てない。どれだけ他を知ったとしても、それは唯一のものなのだと、愚かな程に理解してしまっていたから。
こんな、こんなありふれたものを自覚するのにどれだけの時間をかけているのか、馬鹿だ、馬鹿、大馬鹿だ。気づけなかった私がどれだけ苦しんで、怖くて、悩んだと思ってる。気づけなかった。気づけなかった。気づけなかった、けど。
こうして、ある筈の無かった機会をくれた事だけは、少しくらい褒めてあげてもいいかもしれない。
だから、そのご褒美を、ちょっとなら貰ってもいいだろう。
「……悔いを残して死んだって、そう言ったよね」
「え、う、うん。そう、だけど……」
何でも来いと覚悟していたというのに、奇跡とはいえ、どれだけ都合がいいのか。もしくは、都合がいいから奇跡なのか。まあでも、どっちでもいいや。チャンスがあるのに、生かさない理由はないんだから。
「なら、ここでその悔いの分を返させて」
言うと、随分な困惑顔をされた。どうやら自分であれだけ言っていたくせに、私の意図が分かっていないらしい。悔いだって思っているなら、悔いらしく相応にひきづっていて欲しいのだけど。
ああいや、それこそ言っていた。この人はどうにも一度無理だと思い込むと、基本的に全部諦めてしまうたちらしい。だから、こんな奇跡の場でさえも、過ぎる程謙虚に受け入れてしまっている。
『そうなんだ、だから、言うならもっとわかりやすくいってあげてくれ』
そんなその人にどう言えばいいかと考えていた頭に、突然、知らない誰かの声が響いた。柔らかで、優し気な、男の人の声。それは、まるで友寄さんの様な。後ろから聞こえた気がして振り返るけれど、そこには誰もいない。いる筈が無い。
だけど、それでも一つ、確かなものを貰って、とんっ、と、躊躇わない様に背中を押してくれたような気がしたから。
もっと素直に、正直に、思うままを言ってみよう。
「……だから、叶えてよ。理想になりたかったなら、普通になりたかったんなら、今、ここでそうしてよ」
真正面から向き合って、離さないと目線を向けて、それから、私は両手を広げた。自分でも華奢だとは思っているけど、一人分くらいなら、空いている。ここまでしてようやく意味が分かったらしい、けど、また一つ悪い癖。最後の最後でためらう彼女に、私は、一つ問いかけた。
「――――――ねえ、お母さんは、私の事を愛してる?」
刹那、瞬き一つする間に、私達の距離は縮んでいく。元々何億光年に等しい程離れていた筈のと比べれば随分と短くなったその間を、一秒でも早く辿り着こうと駆けていく。
そんな、数秒ばかりの永遠の後、十数年空きっぱなしだった隙間は、窮屈な位に埋められた。
「愛してる」
軽やかに、何気無く呟くみたいに。
「愛してる」
少し重たく、確かめるように。
「愛してる」
ずしりと、言えなかった分を重ねて。
「貴方を。貴方を、愛してる。“愛してるよ、祈李”」
その、真っ直ぐな返答は、確かに私の心へ返された。
ぎゅうっと、痛い程に抱きしめられるお返しに、私も広げていた手でこれでもかと抱きしめ返す。柔らかで、優しくて。直前まで気にしていた事何て全部どうでもよくなっていく。
心底から待ちわびていたように熱が湧き出でて、頭から手足の指の先の先まで巡り行くと、内側から灼けてしまいそうなそれのせいだろうか、気分が熱気球の様に浮かんで浮かんで、膨らみすぎて堪えていられなくなった私から、抱いた時から抱えたままの、無垢な願望は零れ落ちようとして。
十数年、透き通り瑞々しくあり続けたものは、瞬き肌を伝ってから、晴れ晴れとした霧へと変わり、空の彼方へと静かに消える。
その代わりと言わんばかり、初めからあったように何かがすぅと内に入り込む。情熱よりも穏やかで、熱狂よりも華やかに、飾り気も無く、だけど何よりも鮮やかな色彩は、ずっと欲していた只一色で、私の全てを染め上げた。
これを、これこそを、私はずっと知っていたかったんだ。彼方の日、身体一杯に感じていたこの何より暖かな温もりを。
それを、何と呼べば良いのか。知っていたけど、知らなかった。知らなかったけど、知っていた。
だから、今改めて。今度は、もう何も忘れないように。
抱きしめて、噛みしめて、確かめて。感じる限り、身体も心も、全部全部で。
私は、愛を知ったのです。
母親の愛を知ったのです。
かくして、最後の奇跡は、その役目を終えたのです。




