第十七話 あの日、あの夏、あの場所で その6
私は、ずっと心の何処かで、私みたいな人間はそういないだろうと思っていた。もしかしたら、自分が一番不幸なんだとすら思っていたかもしれない。
少なくとも私の世界では、私が一番苦しんでいて、この町では、誰も私の苦しみを理解できる人はいなくって、それは、不変の理なんだと。
周りに幾ら人がいるかの話じゃない。例えどれだけの集団の中にいたとしても、只一度心が孤独になってしまえば、どんな場所でも一人ぼっちの自分がそこに立っているだけにしか思えなくなってしまうから。
でも、それでも死んでいない限り、生きなきゃいけない。生きていなきゃいけない。ずっと、重荷を抱え込んだまま。
誰かに頼れたならば、一言でも、誰かに話す勇気を抱けるほどの何かがあれば、少しくらい楽に生きていられたのかもしれないけれど、それが不可能に等しいことだという事は、自分の心が誰よりも知っている。
だからきっと、祈李は音楽の世界に逃げ込んだのだろう。あの世界は、あまりにも孤独を肯定してくれるから。どんな救済の言葉より、あの旋律の方がよっぽど自分を慰めてくれるから。
それを、私は理解している。理解しているからこそ、祈李の告白がどれくらいの意味を持つものなのか、分からずにはいられない。
思えば、祈李は初めから、嘘だけは吐いていなかった。私とは正反対なくらいに臆病な正直者だった。隠すために嘘を吐くのでなく、隠すために正直に。誰も疑いを持たなければ、隠し事にも気づかれはしない。私だって、そうだったように。
そんな祈李が、私に打ち明けてくれた。知られたくないと思っていたものを話す事が、自分に今できる正直なのだと。個人的な思い込みかもしれないけれど、多分、そう思って。
だからこそ、私は考える。果たして私は、私に“この世界で自分は孤独ではなかった”のだと教えてくれた彼女に、一体何を返せばいいのか。
奇跡は、あの日からずっと続いていた。願いがかなった瞬間だけが救いだったのだと、これまでの日々は私が嘘で掴み取ったのだと、盛大に勘違いしていた。今までの日々は全部全部、今日までの前座だった。
私は、祈李程強くない。だって、諦めてしまったから。音楽に逃げて、臆病になって、それでも、諦めてしまった私に比べれば、何千倍も何万倍も何億倍も凄い。
何時かを願うのは、疲れる。意識がある内はずっと頭にそれが浮かんで、無理だろうなと分かっていても期待して。そして、一日の終わり、まどろむ意識の中で、今日は駄目でも明日こそと希望を抱く。
それを何回も何回も繰り返して、繰り返す内に、心の何処かで、そんなものは無いと悟ってしまう。そこで、ぷつりと諦めてしまったのが、私。
実際、私が欲しかった希望は、現実の何処にも無かった。それも、希望を希望だと自覚するよりも、ずっとずっと昔から。
代わりを探すって手もあったかもしれないけれど、それを選ぶには随分と時間をかけすぎたせいで使える気力は何処にも無くて、文字通り、希望は消えた。私という存在から、希望は消えてしまった。
けど、そんな私は一つ、おかしい事をしている。ともすれば、矛盾のような事を、一つ。あの、すべてを諦めた日、私は、もしもを夢に見ている。
夢に見たという事は、無意識に思っていたという事で、有り得ないと分かっていて、だからこそ諦めた筈なのに、何で私はそんなもしもを願ったのか。その答えを、今までの日々が教えてくれた。
本当、単純な話ではあるけれど、私は、報われたかったんだ。
この、奇跡の日々の中で、どれだけ自分の心を瑞々しいと思っただろう。焼けて、砕けて、錆びついて、そんな事、もう二度と無い筈だったのに。
今もこうして心が揺れ動いているのは、それを取り戻すほどの何かを私が手に入れたからで、それは間違いようも無く、ここまで生きてきた意味だ。
昔から、天国だとか、極楽だとか、何にしたってそういうものが人の中にあったのは、最後の最後、苦しみも、痛みも、悲しみも、全部全部私がいいことをしてきたんだって言い張って、幸せになれると希望したかった人がいたからで、誰にでもある、当たり前の権利として在って。
それなら、他の誰かと同じように私でさえ報われていいのだというのなら、私より頑張ってきた祈李は、尚の事報われなきゃいけない。希望を捨てなくって良かったって思って、心から喜んで、そうして自分を肯定できるくらいには、報われなくちゃ駄目なんだ。
そして、権利と言えるかは分からないけれど、きっと今、この世界で彼女を、祈李を報いれるのは、多分、私だけだから。
――――頑張ったね
嘘吐きな私が抱いたこの正直を、せめて、貴方に。
※※※※※※
あの日から、幾つかの日々が過ぎた。暑さも少しずつ強くなり、全盛と呼べるくらいにまで来たけれど、熱を帯びているのは、決してこの世界だけじゃない。
今、私の心は生きている。心臓の鼓動が、色彩持った感情を血流に乗せて全身へと送り出す。そうして末端まで満ち満ちるそれは、嘘だったものを有り得た本物へと変えて、今日も私は、澄希として生きていく。
この町の姿は、人は変わらない。だから、本当の私の現実も変わらない……ああいや、やっぱり少しばかり変わった事はあった。
何処か霧がかったようだった彼との距離は、手を伸ばすのを躊躇うくらいの近さだったと気づいて。そんな彼とあの日買った音楽プレーヤーで、時折目の前の景色を誤魔化して。僅かにでも、揺れ動いてはいるのだろう。
だけど、そんな現実よりも大きく、私の心は揺れている。
『澄希さん? どうかしましたか?』
あんまりにも心が浮き立ちすぎて、落ち着く為に世界を見据えると、そのまま足も止まっていたらしく、祈李が不思議そうに尋ねてくる。
そんな彼女に、私は一言、何でもないとだけ返して、そのまま彼女の手を取ると、目星をつけた屋台の方へと、引っ張りながら歩いていく。この素晴らしい現実へ、焼け焦げた暗闇が追い付けないくらいの速度で。
約束したお祭りの日は、滞ることなく訪れた。この日へ向けて、どれだけ思いを馳せたか、両手の指でも数えきれない。
浴衣を借りて、着方も覚えて、あれやこれやと計画を立てながら、過ぎ行く時間を噛みしめて。幼馴染でも何でもない友達と過ごすだけの一日をあんなにも待ち遠しく思ったのは、人生で初めてだった。
そして今、彼女と過ごす当日はその想像も何倍も何倍も楽しくって、輝いて、幸福で。只惜しいことが一つあるとするのなら、きっと顔中に溢れているだろうこの感情が、祈李に伝わらない事だ。
どれ程に私が偽っても、あまりにも大きな現実は、紙を破り捨てるより簡単に私の虚構を打ち破る。故に、何処までも現実で出来たこの世界は、決して私に嘘を許さない。澄希という私は結局、祈李の世界でしか生きていられない人間だから。
仮面に選んだ顔は、狐だった。ありきたりだけど、丁度良いと思って。それに、これもまた浅はかな考え方だとは思うけど、伝わらなくても、私は化けているだけだと自覚している方が素直な気がして。
今更になって少しでも悔いているのは、自分でも馬鹿だとは思う。別に、今でもあれを間違った選択と言うつもりはないし、寧ろ、あの時はあれが正解ではあったけど、それでも、何時しか私は、もしもを考えてしまうようになってしまった。
それだけで良いと思っているなら、どうしてあの日の、勇樹と出かけた日の事を、私は心の隅に留めているのか。一時、町から少し離れて、作っていないとは言わずとも、素直でいられる人と、素直なままで一日生きた。それを私は、何処かで、“覚えていたかった”のだろう。
あの、森の奥の小さな場所での日々での、心地よくて、安らかな時間。不満という言葉も浮かばないほどに満ち足りて。何であれ、この時間が続く限りは、どうでもいいと、そう思っていたけれど。理想だろうが何だろうが、私は、結局人間でしかないらしかった。
自分は、演じ続けているのに。彼女は全てを打ち明けて、受け入れられて、それは、どれ程心地良いのかな。
この場所での日々が嫌いじゃないけど、もっといろんな所に出掛けられたら、今より楽しくなるのかな。
もっと素直に、正直に、私のままで笑えたのなら、祈李との、友達との時間は、ずっと幸福に思えるのかな。
空っぽの器は、それはそれは満杯になった。けれど、それよりも更に大きなものを知ってしまった器は、気づけば、その淵を少しづつ広げて。満ちていた筈の器には、ちょっとばかり、隙間が出来た。
これ以上に、今以上に。
もっと、もっと、もっと、もっと。
地続きの今じゃなくて、これからの、その先が欲しい。
醜いだろうか。強欲だろうか。だけど、不変何て何処にも無くて。尊い日々を尊いと認識していても、幸福欲に勝てはせず、移ろう現実と時間と共に、救済の奇跡は私にとってきっかけでしか無くなってしまった。
私は、只人になりたい。あの、何より幸福な只人になりたい。臆病で、弱くて、醜くって、けど、代わりに何処までも素直でいられる只人に。
この祭りに彼女を誘おうとした始まりは、少しでも嘘を現実に、友達になりたいという欲だったんだ。なら、いっそ全てを現実にしてしまってもいいじゃないか。だって、こんなにも楽しくって、こんなにも嬉しくって、こんなにも明るくなっている私の心だけは、決して、嘘なんかじゃないんだから。
「だから、私が言えたことではありませんが。彼女と、これからも仲良くしてあげてください。それがきっと、彼女にとって最も良い事でしょうから」
夜の事。そう言われた。話しただけで分かるくらいその人は、まなさんは、祈李の事を見ていたみたい。その人が私にそう言ってくれたのが、そんな意図はないだろうけど、何か、許されて、肯定されたような気分になった。
やっぱり、そうなんだ。“これから”は、特別な事じゃない。当たり前の欲として、当たり前に願っていい事。
なら、この願いの為に、素直になっても、良いんだ。
先立って、歩いていく。緊張混じりのせいか、少しばかり速足で。
向かう先は決まっている。ズルいかも知れないけれど仕方ない。私は臆病で、そんなでもないと話せそうにないから。
苦しみの中で見ていただけだと思っていた何時かの祭りの記憶の中に、一つ綺麗なものがあった。それは、ぼぅっと眺めていた私を、彼が手を引いてあの場所へと連れていってくれた記憶。何時の間に忘れてしまっていたのは、花火の美しさを搔き消す程の苦しみの雨が、ずっと降り注いでいたからだろう。
思い出して、そこしかないと思った。陽光の元では、いつもと何も変わらない。だけど、闇の中で一人告白できるほど、私に勇気は備わっていなくて。何より、陰りばかりの醜い記憶を、人で無かった私の心すら揺れたあの美しさで、ほんの少しでも誤魔化したかった。
怖さは勿論あるけれど、祈李を信じていない訳じゃなくって、寧ろ、信じていないのは、信じる心を疑っているのは、他でもない自分自身の方。
だから、こんなにも酷く怯えている。今でも、本当に言うのかと誰が耳元で囁いてくる。だけど、どれだけ足掻こうと変わらない事実が一つ。
私は、三司澄希だ。どんな偽りでも、これだけは捨てられない。根底は、決して揺れ動かない。理想も、虚構も、現実も、全部全部、私が私としてこの世にいるから存在している。
それでも、素直な自分だという在り方を求めているのは、それが、私の求める私だからなんだろう。
そして、ああ、それを追い求めたいと思わせてくれたのは彼女なんだ。
本人に、きっとその自覚は無いのだろうけど、願いも、希望も、人間らしさも、全部全部、彼女がいなきゃ手に入らなかった。
だからこそ、せめて自分の欲しいものぐらいは、自分の手で掴んでみせる。
貴方に私を伝えるには、どうしても過去が必要だから。自分がしたから受け入れてとは言わないけれど、それでも、理想になれない私のままで、私は貴方とこれからを歩かせて欲しい。
諦めの願いから生まれた奇跡の果てで、新たに生まれたこの願いよ。どうか、叶ってくれますように。
そんな風に思いながら、彼女の方を振り向いて、見えた横顔のその目は、花火で燦然と輝いていて。
初めにあったあの時みたいに、また、私に希望をくれて。
そうして生まれた小さな勇気で、私は言葉を紡ごうとして。
そこで、ぷつりと途切れた私の記憶が次に目覚めたのは、一つを残して全てを失った、あの、随分と酷い雨の日だった。




