第十七話 あの日、あの夏、あの場所で その5
目を開いて一番、あの衝撃は忘れない。あの瞳を、私は今も覚えている。
動揺と、混乱と、驚きと。沢山の感情が零れ落ちるまま、陽光と共に差し込んで。
そんな見知らぬ心を、少しの驚きの後、意識もしないまま探りゆく。
目の前の人に果たして私は、どんな人間に見えているのだろうか。
いや、分かってはいる。この町にいる限り、私はある一人の私でしかなくて、私が願うような希望なんてものは何も残っていない。
そう、思っていたのに。
「こんにちは」
理解より先に、思考より先に、私が外へ溢れ出た。かつて、誰かに必要とされるために身に着けた自分。もう二度と使わない筈だったそれは、この日のためにしてきたことだったのかもしれない。
移りこんだ途端、虚構を映し出す鏡の様に、私は目の前の彼女の求める誰かへと変化する。瞳に映る私は誰でもないどころか、私という定義すらない、知らない誰か。
まさか、とは、自分が一番思っている。最後の最後、このまま死ぬのかとすら思っていた夢で抱いたほんの微かな願いが、今目の前で叶っている何て。
「やっぱり! わかりますよ~ここ全然人来ないですもん」
初めて来た場所で何を言っているのか、だけど、今はそれでいい。写し察して浮かんだ言葉を、並べ続けるだけでいい。
そうして嘘すらも当たり前に語りながら、私は私を形作る。何も知らない以上、どんなものでも真実になる以上、出来上がるものが何だって構いはしない。地に足のついた現実よりも、唐突に舞い降りたこの奇跡を逃したくないから。
けれど、そんな、醜さすら帯びた願望空しく、希望は眼前から逃げ出そうとした。
「えっと、その、それでは!」
どうして。
何が駄目だった。
どこがいけなかった。
消えてしまう。
いなくなる。
そんなの嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
最後の最後に抱いた、たった一片の望み。
全部諦めて、でも、これくらいなら良いのかなって思ったのに。
それでさえ許されないの?
夢見ることも許されないの?
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
この奇跡を。
目の前の希望を。
掴みかけた光を。
叶いかけた願いを。
手放したくない。
失いたくない。
諦めたくない。
捨てたくない。
そうなるくらいなら、初めから叶わなくったって良かった。
だから、だから、だから!
――今ここで、逃がしてたまるかっ!
心が叫ぶ。途端、伽藍洞は満たされて、朽ちかけた人形の絡繰りは動き出す。骨を組み、肉を纏い、皮膚を重ね、再び生命となった私に迷いはなく、ただ自分自身の為だけに、その手を前へと伸ばしきる。
空気を抜け絹に触れると、そこに、間違いない肉を感じて。それは即ち、彼女は紛れもない人間であるという事で、確かに現実にあるそれを、希望を、私は掴み取った。
※※※※※※
「……どうしたの? そんなポカンとしちゃってさ」
そこまで語ったところで、まだ序章も序章で随分と驚いた顔をする祈李に、何となく浮かべた表情の意味を考えながら問いかける。
「えっ? ああ、ええと、その……」
「あの時の話をしたからって、祈李まで戻らなくてもいいんだけど?」
「ちっ、違います! いやまあ、驚いたって意味では違いないんですけど……何というか、いろいろこの時点で想定と違ったので」
数分前の覚悟はどこへやら、あわあわオドオドとしながらも祈李は言葉を紡ぐ。
「想定って、どんな想定?」
「それは、その、うまくは言えないんですけど、何というか、そういうのはもっと後だったのかと思ってたので。他でもない私がそうだったから」
そんな答えが返ってきて、私は、
「成程、そういう事か」
ぽつりと、そう返事をすると、その言葉の意味がまた良く分からなかったのか、今度は少し困惑気味の顔をしながら、祈李は小さく首を傾げた。そんな姿に、私はきっと少し苦笑気味な顔を戻していると、
「……あの?」
後の言葉が続かなくて驚いたのだろう、どことなく不安げな声で窺う祈李に、
「ああ、ごめんごめん。祈李が何を言いたいかは分かったんだけど、それとは別に、私の衝動が理解出来てないみたいで良かったなって思ってさ」
「衝動、良かった?」
飲み込むために言葉を反芻するのは、やっぱり意味が分かっていないという事だけど、このままモヤモヤさせ続けているわけにはいかない以上、話すべきかな。
「……それはね、本来人として生きているなら、踏み込みべきじゃない事なんだよ。必要とされるためだけに人を理解して、都合よく振舞って、自我もなく只々それを繰り返すのは、人じゃなくて、機械か人形のする事だから」
人間、一度してしまった経験は染みつくもので、習慣の様に身についたものはいつまでも捨てられず、死ぬまで選択肢として纏わりつく。まして、それが人間として生きる事を捨てる事だとしたら、それはもう、おしまいだ。
「あの時の私の衝動はね、人間なら抱かなかった。ただ人間として生きていたなら、浮かびもしない感情だった。自分の願いが叶うために、自分じゃない誰かの理想になろうなんて、それこそ、普通の人間なら出来ない」
まあ、他にももっとおかしな部分はあるだろうけど、
「とにかくさ、そんな風に湧き出る衝動を、祈李が知らなくって良かったなって思ったの。それは、少なくとも貴方は、人間のままで生きていられたってことだから」
本当に良かった。苦しくても、辛くても、一度人間としての在り方を捨てたら元には戻れないから、私が死んだ後、祈李がそうなっていなくって。
そう思って、いつの間にか無意識に逸らしてしまっていた視線を戻すと、目の前には、どうしてか、今にも泣きだしそうな表情を浮かべた祈李がいた。
「……えっと、どうしてそんな顔してるの?」
その姿に意味が分からなくなって、思わず疑問が零れ落ちる。何か、不味い話をしてしまったか、いや、そんな事は無い筈。そんな思考を巡らせた、その時、
「私は、私自身は、何も出来なかったんですか?」
その声は、少し震えていた。まるで、何かを悔いる様に。それが、きっと私の事なのは嫌でも理解できて、そこまで来てようやく、私は何故自分がこの話をし始めたのかを思い出す。
自分では序章のつもりだったからすっかり抜けていたけれど、祈李からすれば、これだけで十分質問の答えになってしまう。
――全部全部知ったから、だから、せめて貴方に娘として、もらう分を返させて欲しいんです。
いっそ、救われていなかった方が返せるだけマシだ。一番最初に貴方という存在の価値から全部もらった、だからもう何も貴方からはいらないよ。寧ろ、今まで貴方が幸福だったんなら良かった。
こんな事を言われて、果たしてどうすればいいと言うのか。結局自分は救われていたのに、貴方にはもう何も返せないのか。そう思って、当然だ。
こんなの本当、始まりでしかないってのに。だから、
「これからだよ」
宣言する。全部話すまで、もう二度と勘違いさせないようにはっきりと。
「あの日、奇跡が起きて、願いが叶って、私は確かに救われたけど、それはあの日の私、三司澄希という私まで。貴方が知っている澄希、貴方を知っている澄希が救われたのは、間違いなくあの夏からだよ」
※※※※※※
この世に、別の世界というのが存在するとは思わなかった。目を閉じると、魂でも抜けたように現実の干渉は消え失せて、私はここではない何処かへ落ちていく。
歌詞も、綴られた文章もないのに浮かび上がるハッキリとした虚構の世界に居るのは、心だけの自分。たった一人の孤独な場所で、私はあるがまま、素直なままの自分になって、曲の終わるその時までは、自由に世界を歩いて行った。
それがまた、随分と心地よくて、戻りたくないと、そう思う。だけど、終わりのない曲は何処にも無い。何時か、その世界は終わってしまって、私は現実に戻らなければならなくなる。
でも、どうしてだろう。聞き終えてからは、少しだけ、現実に向き合ってみようと思ってしまう。
終わった時、現実に目覚めるのが苦しみばかりの世界でなくて、外界から隔絶されたこの場所だからだろうか。それとも、露と消えると分かっていても希望を持ってしまうくらい、私が素直にさせられてしまったからだろうか。
いや、それだけはない。素直何て、それはない。私は自分の希望の為だけに、この子に嘘をついているのに。
少し前、祈李という彼女と、友達になった。勝手に少し話しただけで友達と言っていたくらいにはその辺の境界線の曖昧な私だけど、彼女だけは、少し違う。
臆病と、そう呼ぶべきなのだろう。あれから暫く経ったけど、未だ彼女は何処かで一線を引いている。友達になったその日までは、今よりずっとそうだった。
だけど、きっと私には彼女をそう呼ぶ資格はない。だって、他でもない私自身が、彼女よりもずっとずっと臆病だから。
なのに私は、彼女に一歩踏み出させた。
「もし、それでも貴方がこの関係を友達と呼べないのなら、構わない。これからの時間でそう呼べるようになっていけばいい」
彼女は、そのための努力をしてくれている。自分を開いて、私の方へ歩んでくれている。そんな彼女に対して、私は初めから開いていたと嘘をついて、そのくせ私は歩み寄ることをしていない。
果たして、これのどこが友達なのか。只々彼女も知らないうちに彼女を利用しているだけ。私が失った、“形だけの友達を”、結局、私は続けている。
楽しい筈なのに、嬉しい筈なのに、救われている筈なのに、心に空虚が満ち満ちているのは、間違いなくそのせいだ。
でも、何時までもそんな私じゃ、いられない。そう思った時に見つけたのが、巡魂祭りのチラシだった。
行ったのは、たった一度。ああいや、それも間違いだ。何時か家に帰れなかった夜に、何処か明るい場所を求めて、たまたま歩いて辿り着いただけ。顔見知りは沢山いたし、行ってみるくらいはしても良かったんだろうけど、私はそこまで歩めないまま、外から様子を眺めていただけ。
小さい子が、同い年が、年上が、大人が、みんなみんな楽しそうに笑ってる。自分もいつかあの中で、何も気にせず笑えないかと、そんな幻想を抱いていた。
けど、今ならその幻想も、叶うかもしれない。彼女となら、友達として、一緒に行けるかもしれない。
誘ってみよう。その為にも、一歩踏み出してみよう。変わりたいと思っていて、丁度いい口実もあって、何より自分自身で、彼女に言ってしまったのだから。多分、嘘つきはやめられないけど、ならせめて、その嘘を、出来る限り現実にしてしまおう。
原動力は十分。後は話すだけ。そう思って、私はその日あの場所へとやって来て。何気なく装いながら、自然に嘘をつきながら、震える手足を抑えながら、勇気を振り絞っているのをバレない様に、私は、それを彼女に話して、そして、私のその勇気は、確かに、その実を結んでくれた。
嬉しかった、本当に嬉しかった。そして、だからこそ私はあの日、あの一歩を踏み出せたのだろう。
「私は、祈李の全てを受け入れたい。受け入れた上で、私は祈李と対等でいたい。祈李が苦しんでいるのなら、私はあなたを救いたい。だから……だから、祈李の抱えているそれを、よかったら私に教えて欲しい」
理想人形になっていたあの頃、私は一度だって深入りはしなかった。どれだけ信頼していても、どれだけ親しく思っていても、人には、超えてほしくないものがある。
それを、乗り越えられたらさらに深い関係になれる。でも、失敗してしまったら、これまでの全ては塵の様に舞い散って、何もかもが消え失せてしまう。
だけど、そんなリスク、負う必要はなかった。だって、私は誰かに必要とされればそれでよかった。失う覚悟を持ってでも欲しい関係何て、初めから無かったから。
それを嫌だと思えたのは、奇跡が起きただけじゃ得られなかったものを、沢山沢山祈李から貰ってしまって、一歩どころか、二歩も三歩も踏み出してでも、私は祈李が欲しくなってしまったせいだ。
今だけの幸福、今だけの楽しさよりも、彼女との未来を、彼女との日々を。そう思えるくらいのものをくれた彼女に、友達として、私が何かを出来るというのならさせて欲しい。
嘘吐きでも、そう思う心だけは本物だから、本物にしたいから。私が貰うばかりはもう嫌だ。
だから、対等に。
だから、私に救わせて。
私に、貴方を心から友達と呼べる為のものを、私に、どうか返させて欲しい。
そんな、私のちっぽけな勇気で、貴方は心を揺らしてくれて。
私が踏み出したもののよりずっと重い一歩を踏み出してくれて。
そうして祈李が話してくれたから、私はこの奇跡の起きた訳を理解できたんだ。




