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第十七話 あの日、あの夏、あの場所で その4

「あー、こほんこほん……よし、落ち着いた。いいよ、うん、お母さん準備OK!」


 本日二度目のお母さん呼びから数分後の事。そう言いながらグッと親指を立てた手を私に向ける彼女は、それはそれはご機嫌そうな顔と声色をしていた。

 人間こういうところは成長しても変わらないのか、何て事をいつかの澄希さんを思い出しながら、また脱線しないうちに話を進めることにする。


「えっと、じゃあそろそろ本題に入ろうと思うんですけど、まず一つ目に、今更ですけど、何でその姿なんですか?」


 この質問を初めに選んだのは、気になってもいたし、少し確かめたいことがあったから。そんな質問に対して、聞かれると思っていたのだろうか、返答はすぐに帰ってきた。


「それに関しては多分、貴方がこの姿の私しか知らないから。同一人物だとわかっていて、母親だとわかっていても、顔も知らない人に会いに行けはしないでしょ?」


 その答えに、何となくわかってはいたけれど、改めて私は納得する。この奇跡は、生きているものが死人に救われる儀式。なら、救ってくれる死者の事を、生者が知っていなければ意味がない。だからきっとそうだろうとは思っていたけれど、でも、それは同時に、


「つまり、やっぱり私は、貴方の事を憶えてはいないんですね」


「……まあ、そういうことにはなるかな」


 どれだけ過去を振り返ろうとも、どれだけ心の深層へ潜ろうとも、それだけは欠落している。無意識に忘れたのか、それとも錆びて朽ち果ててしまったのかはわからないけど、いずれにせよ私からは、親という概念は欠落してしまっている。


「自分のことながら、少し期待はしてたんですけどね。私も知らない私の何処かに、欠片くらいは転がってるんじゃないかなって……酷いですね、私」


 そう言いながら、思わず、私は少し顔を伏せた。

 落胆と同時に、心の底から、幾つか感情が沸き上がってきて、それは、こんな事を言わなければならない悔しさと、何もないことへの寂しさと、何より、自分の母親にお前を覚えていないという事実を突きつけることへの、謝りようのない申し訳なさ。

 事実だけ見れば、本当に酷いことをしている。私は貴方を覚えていない、でも貴方しか私を救えないから、どうか私は救ってくれ。

 いったいどれ程身勝手なのかと、そう思いながら、けれど、堪え切れなくて一言、謝罪の言葉が飛び出しかけた、その時。


「祈李は酷くなんかないよ。悪いのは、全部私だから」


「……そんなこと、無いです」


「無くないよ、祈李が覚えていないのは、覚えていられるだけのものを私が何もあげられなかった、只それだけの話。もっと根本の話をするなら、私がまだ生きていれば良かった話。親として何もできなかった私が悪い、それが事実なんだから」


 そんなこと無い、と、もう一度言おうとして、けれど私の口からそれが飛び出ることが無かったのは、私のこれまでの人生が頭をよぎってしまったから。

 そして、それ以上に影響を及ぼしたのは、語った本人の姿。その顔にも、その心にもあったのは、私への気遣いなんかじゃなくて、淡々と事実を語るだけの意思。

 彼女の人生の果ての結末と、そのせいで普通から変わった、私の人生。肯定とか否定とかの話ですら無く、現実だけが、無機質に其処にある。


「嫌じゃ、ないんですか。娘に顔も覚えられてないなんて」


「嫌というか、まあ、悲しくないって言うのは嘘になるけど、やっぱり仕方がない話だからね、私がどうこう言っていい話じゃない。それに、まだこうして憶えているかどうか何てのを話題にできる時点で、私はまだ幸せ者だから」


 言って、彼女は笑った。それは、まるで受け入れる為の笑顔で、何を受け入れ飲み込んだのかと考えて、答えは、すぐに蘇る。

 奇跡を、ここまで紡いでくれた人。私達を、ここまで結んでくれた人。そして、私の願いを考えるなら、この場にいなくてはならない人。


「お父さん。勇樹さんがここにいないのは、私が何も知らないからですか?」


 その疑問に返答は無く、声が響いて暫くしたら、沈黙だけが場に積もりゆく。

 それ以上は、踏み込んではいけない。そこまでいってしまったら、やっとここまで辿り着いた物語が台無しになってしまう。

 何故だろう、そんな風に言われたような気がして、私はそれ以上何も言えなくなってしまった。


「……さて、そろそろ一つ目の質問は区切りにして、次にいこっか」


「…………はい」


 状態を察してくれたのか、パンっと一つ、手拍子で合図しながら先手を取ってくれたものの、気の抜けた重い返事だけが発せられる。悪い癖だ、すぐにぐらりと感情が揺れ動いて、自分の世界に閉じこもる。

 自分の選択を振り返って悔むばかり、普段踏み出せないくせに踏み出して、失敗から何にも学ばない。

 そうして引き摺って引き摺って、また、一つ判断が遅れて失敗して、ああ、本当に何で私は……


「もう、シャキッとしなさい!」


 突如として頬に宿ったぬくもりで、思考の海から引き上げられる。見ると、彼女の顔がすぐ近くにあって、さっきまでの淡白な表情から一転、少しむすっとした顔で、


「そんな顔するんじゃないの! さっき一人で盛り上がって遮った私が言うのもあれだけど、そんなに気を落としてちゃ、話すものも話せないでしょ? 何のためにここに来たのか思い出しなさい」


 言われて、そこでようやくまた地に足をつけた私は、返事の代わりにコクコクと頷く。

 それでわかってくれたのか、彼女は、にこりと笑って手を頬から引いてくれた。


「それで、次は何? また質問なら、答えられる限りは答えるけど。それとも、さっき言ってた本題?」


「あー、ちょっと待ってくださいね」


 ほらほらと、急かす様に誘う彼女をとどめながら、私は、さっきいろいろと思い込んでしまったせいで見失ったものを拾いつつ、また少し考える。

 正直、聞きたいことなんて山ほどあるけど、それを全て聞いていたら、多分時間が足りない。これもまた何となくというか、妙な確信ではあるけれど、きっとこの時間はそう長くは続かないだろう。

 だから、悔いが無いようにしなきゃいけない。清算というのとはまた少し違うけれど、ここまで紡がれた奇跡の話に終止符を打つのは、私の役目だ。

 そう思ったところで、ようやく私は結論を既に出していたことを思い出す。やっぱり、悪い癖だ。目の前の事につい心を奪われて、振り回されて、肝心な事が抜け落ちる。

 だけど、ここまでやって来たんだ。最後くらい、しゃんとしよう。そして、きちんと精一杯向き合おう。


「聞きたいことが、あります」


「お、決まった? 何々?」


 聞き返す彼女は、変わらず切り替えて明るく、見知った人懐っこさで、そんな彼女に、私は告げる。


「……この夏の事を、貴方は憶えているんですよね」


「この夏、って言うと」


「今の、この奇跡の起きた夏の事です」


「それは……うん、まあ」


 ほんの少し、彼女が惑う。言われる事を想定していなかったのだろう。私が救われる事に、自分は関係ないと。

 それを否定するように、私はさらに告げていく。


「なら、教えてください。この夏、私と過ごした日々の中で、貴方は何を思って、何を考えて私と居たのか。貴方にとって、私は一体何だったのか」


 その問いに、彼女はすぐには答えなかった。じっと暫く黙り込み、笑みすら消して考え込んで。きっと真剣に、誠実に向き合ってくれて。

 やがて、キュッと結ばれていた口元は開かれた。


「それは、どうして?」


 言葉と共に、見定めるように私を見やる。考えて、その上で何だと意図を問うてきたのは、話すべきかと、その価値を探っているのだろう。

 なら、私がするべきことは一つ。自分の心を、正直に解き放つことだけだ。


「自己満足だとは思ってるんです。だけど、それでも教えて貰えなきゃ、私は素直に奇跡に願えない」


 この際、我儘でも構わない。というか、実際我儘だから。


「二人の奇跡で、私だけが救われていた何て嫌だから。私が救われた分、貴方にも何か返せていてほしいから。今更自分の幸福だけを思う何て、もう私には出来ないから」


 傲慢だろうが、欲深だろうが、私のしたい事をする。ああ、この言い方は、ちょっと卑怯かもしれないけど。


「全部全部知ったから、だから、せめて貴方に娘として、もらう分を返させて欲しいんです」


 腹の底から吐き出すように、思いの全てを白昼に晒した。偽りは無く、虚実もなく、空っぽすぎてフラフラになるくらい。

 あれだけ隠してきたことを、これで話してくれるだろうか。下げた頭で、少し切れた息を整えながら考える。

 思考は、もしもで満たされてギュウギュウに、余裕なんて何処にも無く。なら、改めて真正面から答えを受け入れる覚悟をしようと、そう思って、



「……そっか、なら、しょうがないね」


 耳に届いたのは、そんな言葉だった。

 バッと、まだ落ち着かないまま顔を上げると、そこにあったのは、呆れたように笑う彼女の顔。


「私も単純だなあ。あれだけ自分の事を知られるのを怖がってたはずなのに、たった一言でここまで緩んじゃう何て。ああいや、これに関しては、勇樹にもう散々曝け出してきたせいかな」


 ははっ、と、少し自嘲気味に。でも卑屈さは何処にも無く、寧ろ、ずっとずっと晴れやかに。


「まあでも、やっぱりしょうがないか。そうなるくらいには、私も人の親に変われてたってことにしよう」


 並べられる言葉達に込められていたのは、紛れもなく、間違いようもない程の肯定だった。


「……いいんですか?」


「何その顔にその答えは、そっちが頼んだことでしょう?」


「いや、その…………いえ、そうですね」


 色々と溢れそうになったけれど、全部喉元で踏みとどまる。これは、私が自分の事を信用できていなくって、それの何倍も彼女は私を思ってくれていたという、たったそれだけの話。

 なら、問いかけよりも、確認よりも、まず初めにやるべきことがあるだろう。


「それじゃあ、聞かせてください。貴方だけが知っている、貴方だけの、あの夏を」


「……勿論」


 言うと、彼女は目を瞑り、一つ、小さく息をする。緊張は無く、動揺は無く、只懐かしみながら安らかに。

 これから語られるものは、誰も知らない物語。誰しもが内に秘めている、自分だけの物語。現実にしては奇怪だけれど、童話にしては平凡で、けれど、何よりも鮮烈に残り続ける、思い出という名の物語だ。



※※※※※※



・視点 三司澄希


 夢を見ていた。

 暖かで、幸せで、理想的な日々の夢。

 それが夢だと分かったのは、それがあまりにも理想的すぎて、現実を思い出してしまったから。

 私には何もない。叶う望み何て何もない。この夢を、夢と思わず過ごせる心すら、もう何処にも残っていない。

 けれど、それでも私は、思ってしまう。いつか何処かで、こんな日々を過ごせたらと。


 例えば、私が私でなかったら、私は、自由になれるかも。

 誰も私を知らなかったら、私は私のままでいられるかも。

 いや、どっちも無理だ。そんな遠くに行ける程、私の世界は広くない。


 でも、もしかしたら。

 もしもこの町で、私を知らない誰かに出会えたのなら、この理想は叶ってくれるだろうか。

 何て、そんなことある訳無いのは、誰より分かっている。

 だけど、うん、きっとまだ少し願うくらいなら、私にも、許して貰えるかな。



「本当にどうしようもなくなった人間は、夢の中ですら夢が見れない。何もかも現実に食べられちゃうからね。それに気づいてたのかな、あの時は、それはそれは晴れ晴れとした気分だったよ」


 ありとあらゆるものが満ち足りた人間は、勿論晴れ晴れしているだろう。だって満ち足りているのだから。だけど、どうやら正反対でもそれは成り立っているらしく、全てを失い、透き通る程に空っぽになった人間もまた、そのあまりの清々しさに晴れ晴れとせずにはいられない。

 今でも、思う。私の願いが奇跡へと昇華しえたのは、それ以外の望みがなかったからだ。でなければ、私は何か他の物に永遠と縋りつきながら、叶うことのない醜い望みを追って生きていた。

 そんな私は、どんな死者も救おうと思ってはくれなかった筈だ。


 生きたいじゃなくって、生きてみたい。

 前提にある死を受けいれて、それでも、例えば奇跡があったのなら、私はまだ何とかこの世界で生きてみたい。

 そこまで思って、初めて、望みが救いになる。それしかないから、奇跡が起こる。本当にどうしようもない人間にだけ、奇跡は差し伸べられる。


「私にとってのそんな奇跡が、祈李、貴方との日々だったの」


 全てが伝わるかは、分からないけど、貴方が望んでくれるなら、私はどんな言葉にもして見せる。

 親として、友達として、こんなもので貴方を救えるというのなら、私は幾らでも差し出そう。


 夢なき夢から醒めて、貴方に出会ったあの日から。

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