第十七話 あの日、あの夏、あの場所で その3
・視点 ???
何を言えばいいのだろうと、ずっとずっと考えていた。
今更。本当に、今更だ。何かを成すには余りにも遅すぎて、いくら罵られようとも反論のしようがない。
まして、本来ならありえるはずの無かった機会だ。だからというわけではないけれど、いざここまで来ても、どうも言葉は浮かんでこなくって、むしろひたすらに悩ましいばかり、何というか、困ってしまう。
一つ、二つ、三つ、四つ。指折り数えて、何回か。私がしてあげられたことを思い出してみるけれど、いくら数えても足りてしまうその事実は、決して変わることは無く。
酷い話だ。正直、あんまりすぎて自分自身でも認めてしまいたくないくらいには。これもまた認めたくないけれど、私も世間一般と比べればまあ随分と酷い人生だったと思う。
まあ、自分が苦しむだけならよかったものの、たった一時自分を抑えきれなかった事で大勢の人を不幸にしてしまった以上、自分だけ嘆くわけには……自分が嘆くわけには、いかないけれど。
ともかく、そんな一生だった私だけど、それでも一つあの子と違っていて、知っていることがある。そのせいで狂ったのだろうと言われては何も返せないのだけど、でもきっと、それを知らないよりはまだずっとずっとましだったと思う。
欠片でも理解していれば、別のもので埋め合わせをして、満足できていたのかもしれない。
けれど、あの子の中には何もなかった。初めから欠落していて、その上正体すらも知らないものを、一体どうすれば埋められるのか。
その答えを、知っていながらわからないまま大人にしてあげるのが、私のすべき役目だった。
そんなことを考えなくていいようにするのが、私のすべき役目だった。
埋めるまでもなく、私があの子に、あげていなければならなかったのに。
どれだけ苦しくても、どれだけ絶望していても、私は、あの子の希望じゃなきゃいけなかったのに。
だから、正直に。
だから、誠実に。
だから、決して悔いは無く。
あの子と、向き合おう。
※※※※※※
・視点 三司祈李
ひとたび目を閉じると、途端、私は世界を移動する。
それは、音楽の作り出す世界。
私の世界。
私だけの世界。
私しかいない世界。
たった一人の、孤独な世界。
現実世界からここに来た時だけが、かつて安らぎと呼べる時間だった。ここにいる間だけは、私は私を雁字搦めにしていた全てから身も心も解放されて、自分自身でいることが出来たから。
寂しいとは思わない。どちらにせよ私は一人ぼっちだ、そう思っていたから、何も気にはしなかった。何も感じはしなかった。
それ以上何もない、現実には何もない、なら、最上のこの世界に託す望み何て、何一つありはしない。
あってくれさえすればいい。だって、現実から逃げられないことが、何よりも苦しい事なんだから。
そんな世界に、まさかこんな風に降り立つ何て、まったく思いもしていなかった。
目を開く。眼前に広がるのは、さっきまでと変わらない景色。だけど、わかる。ここは、決して現実じゃない。
何時だったか、肌を拭った冷風を思い出す。今までの、過ごしてきた日々を思い出す。目の前にある幸福に夢中になって気づいていなかった、些細な違和感はずっと存在していた。
夏にしては、随分と世界は涼しくて。木々が集っているにしては、随分と世界は静寂で。それは、何処にもないはずの狭間に来ていたから。私達以外誰もいない、二人ぼっちのこの世界に。
まさに、奇跡というほかない。こうして息をして、地に足をつけて、当たり前に存在していること自体が異常な世界で、今を過ごしていることが。
もう一度、こうして出会っていることが。
陽射しは絹のように柔らかで、真夏の苛烈さはまるでなく、故に、地面に陽炎は生まれない。だから、もしも無い筈のものが存在しているとするのなら、それは少なくともこの世界では実在する、紛れも無い、本物だ。
まあ、そんなこと考えずとも、随分と人間らしい挙動と躊躇いを見せている時点で疑う余地はないのだけど。
そんなことを思いながらまた彼女の方を見やると、チラチラとこちらを見ながらも目を逸らし、何を思っているのかキュッと結ばれた口元からは、出掛かった言葉が零れそうになっている。
今まで見たことないその様子は、明るく快活な彼女のイメージからはかけ離れていて。でも、今までのどの時よりも、ずっと正直に思えた。
それはきっと、今の彼女が、本当の彼女だから。一部分を切り取った理想像でなく、只々、一生を生きて死んだ彼女だから。
そんな、私の知らない彼女は、一体何を抱えてきたのだろう。何を考え、何を思って私の前に現れてくれたのだろう。
どうしても、そんな事が頭に浮かぶ。絶えず心から湧いてくる。話したい、聞いてみたいという欲のままに胸が騒めいて、ずいと、一歩踏み出してしまいそうになる。
それでいいのかもしれない。この最後の奇跡は私の為のものだというのだから、思うがままにしてしまって、私の中で渦巻く全てさえ消えれば、それでいいのかもしれない。
だけど、それじゃあ駄目だ。
これは私の奇跡だけど、救われるべきなのは私だけじゃない。なら、救える人は救われるべきだ。現実なら馬鹿だと言われるかもしれないけど、何せ、奇跡だ。奇跡なら、少しくらい理想が高くたっていい筈だ。
何より、そうでなきゃ救われたとしても、私は一生後悔する。自分だけが救われたことを、ずっとずっと後悔する。
私が今報われる為にここにいるのなら、目の前の彼女も……貴方も、報われたっていい筈なんだから。
それが、この世界で只一人、私にしかできないのなら、何としても、私が果たして見せる。
だから、騒めく胸を鎮めるように。
だから、大きく深呼吸して。
だから、もらっていたものを返すように。
だから、出せる限りの勇気をもって。
だから、今度は、私から。
「久しぶり、って、言った方がしっくりきますか?」
そう問いかけると、彼女は一度私の目を見て、逸らし、また少しばかり躊躇いがちにその目を伏せて、それから、暫く逡巡するように目を閉じる。
それはまるで、出会ったばかりの頃の私のようで、理由こそ違えど、その臆病も理解できて。
けれど、
「うん、久しぶり、祈李」
最後には覚悟するように一つ頷き、顔を上げて真正面から私へ向いて、ほんのちょっぴり笑いながらそう言った彼女には、私には無かった勇気があった。
「ええと、その、元気にしてた? ああいや、その体調面というか。精神の方はわかってるから……」
一歩踏み込みこそしてくれたものの、まだ距離感がつかめていないのか、おっかなびっくり、変に気を使ってくる。そんな彼女に、私は。
「今は特に何もないです。でも、しいて言うなら、凄くホッとしてる。ちゃんとまた会えたから」
「そ、そう?……なら、良かった」
返答が意外だったのか、一瞬ぎょっとしたような顔になったものの、澄希さんはすぐにまた笑みを取り戻し、少しばかり噛みしめるようにしながら胸をそっと撫でおろす。そんな彼女が、私は随分と朧に見えた。
個人という意味でなら、やっぱり間違いなくこの人は三司澄希だ。でも、それと同時にこの人の輪郭にあの澄希さんは、どうにもぴったりとはまらなくて、記憶に残る印象では、揺れ、乱れ、定まらない。
だけど、それに対して私はどうしてとは思わなくて、むしろ、その状態に妙な確信すら覚えていた。
それがどこからやって来たものかは考えるまでもなく、この奇跡を起こした根本である、私の本当の願いが何なのかを知ったから。
だから分かっている。目の前の彼女が果たしてどんな存在なのか何て、ここに来る前から分かっていたんだ。
反応を見るに、少なくとも私の顔は平静を保っているらしい。だけど、微かに震えるその足に限っては正直で、彼女に一歩近づくことだってできやしていない。
口だけは達者なのは、いつもの事だ。ここまで来ても、それだけは何一つ変わってくれはしなかった。だけど、
「……ねえ、澄希さん」
これから、また私の心がどう変わっていくのかはわからないし、この足が一歩を踏み出すのかもわからない。只それでも、この回る口先くらいは、せめて。
「ん、何? 祈李」
何を聞かれるのか分かっているのかいないのか、ホッとしたまま緩んだ頬で、何の疑いもなく彼女は聞き返してくる。その表情には、この夏に何度も何度も覚えがあって。
でも、本当に少しばかり、私の知っている彼女とは違っていたから。
「“貴方は、誰ですか”?」
数秒、彼女の時が止まる。それから、緩んでいた頬が引き締まって、笑みが顔から消え去った刹那、一度だけ彼女が浮かべた表情が果たして喜びだったのか、それとも悲しみだったのか、或いは寂しさでも感じたのか、私には分からなかった。
理解できたことと言えば、ここからがこの奇跡の本番だという事だけで、それを証明するように彼女は、
「そこまで言えるなら、もう取り繕っても意味ないか」
はぁ、と小さく溜息を吐くと、切り替えるように一つ瞬きをしてから、私を真っ直ぐに見つめなおす。そして、
「きっと覚えてないだろうから、改めて言わなくっちゃね……私は澄希、三司澄希。分かってるとは思うけど、もうこの世にはいない筈の死人で、貴方の望んだ奇跡によってここにいる、他でもない“あなたの母親”よ」
はっきりと、澄希さんは。お母さんは、そう言った。
「何ていうか、その、やっぱりというか……改めてはっきり言われても、思ったより実感が湧かないです。頭では理解してる筈なんですけど」
「それは……まあ、この姿だからね。貴方からしたら、友達の中身が違う人だって言われてるんだし、無理もないんじゃない? かく言う私もまだちょっと不思議な感じがしてるから」
言いながら腕を伸ばし、掌を開いたり閉じたりして自分の身体の動く様子を見つめている彼女は、相変わらず私の知っている澄希さんの姿の筈なのに、言われたからだろうか、視界に映る情報と頭で理解していることがズレて、何ともいえない感覚がしてくる。
だけど、受け入れなくちゃいけない。だって、他でもない私が望んだことだから。その為にも、まずは、
「……お母さん」
「は、はいっ!」
違和感を心に馴染ませようと私がそう呟いたのと、彼女が反応したのはほぼ同時だった。互いに急なことで少し驚いたせいか、途端、しばしの沈黙が訪れて、同時に何とも気まずい空気が流れだす。
きっと、互いに目を泳がせて、手なんかもじもじさせたりして、どうしようと悩んでいると、耐え切れなくなったのか、彼女が先に口を開いた。
「えっと、どうかした?」
「あ、いや、すみません。ちょっと試しに呼んでみただけで……」
「あ、ああ成程、試しにね、試しに……そう……」
正直に返すと、途端に彼女はあからさまにしなしなとがっかりして、声も小さくなっていって、最後には聞こえないくらい小さな声で何かをぶつぶつと呟き始め、その様子を見た私の心に、とてつもない罪悪感が押し寄せる。
理由もわからず、でも、あまりにも落ち込んでいく彼女に申し訳なさはどんどん積もって、そんな私の出した結論は、一つだった。
「ごめんなさい」
「……ん、え? ちょ、ちょっと、何でいきなり謝るの?」
「いや、だって、いきなりすごい落ち込んだので。何か悪い事しちゃったのかなって思って」
「違う違う! 第一私落ち込んで何て……いや、確かに落ち込んだけども! 違うから! 祈李は何にも悪いことしてないから!」
「え、じゃあ何で?」
「そ、それは、その……」
問い返すと、また途端に、今度はどこか気恥ずかしそうにしながらおどおどし始めて、そして、自分の内で堪えきれなくなったのだろうか、不意に覚悟を決めたようにすると、
「嬉しかったからよ!」
一言、叫ぶように出た言葉が、私の耳へ轟いた。
「嬉しかったから、って、何がですか?」
「何って、貴方がお母さんって言ってくれたことに決まってるでしょ。だって私、貴方にそれすら言ってもらえる前に死んだんだから!」
「……え、それだけですか?」
「それだけ何て話じゃないわよ! いつ話せるようになるのかなとか思いながら貴方と接してて……」
そこから先、怒涛の勢いで彼女が語りだしたのは、記憶に無い幼い私がしたことについてで、そのあまりの熱量に気圧された私は只々一方的に聞くことになる。
彼女の話は幼い私がいつ何をしたのか、まるでついさっき見たかのように鮮やかで、懐かしさはこれっぽちもない。
覚えはないけれど、それでもきっとしたんだろうなと思わされる話を聞いていく中で、鈍い私にも分かることがあった。
それは、姿こそあの人だけれど、彼女は間違いなく、私の母親だという事で、だからこそ私には、しなければならないことがあるという事。
正直、もう少し聞いていたくはあるけれど、でも、このままじゃ進むものも進まないので、仕方なく。
「――お母さん」
未だ私の事を語る彼女を、私は、確かにそう呼んだ。




