第十七話 あの日、あの夏、あの場所で その2
「……本当に、会えるのかな」
青々とした空の下、燦々と照り付ける陽光に草花が輝く傍らで、あの場所への入り口を目の前にした私は、気づけばそんなことを呟いていた。
すぐ後ろを見れば、夏風に揺られる稲や雑草はその緑を見せつけるように伸びていて、それは、入り口を作る木々の葉も同様で。けれど、奥へと続くそこだけは、洞穴のような暗さをもって私を出迎えている。
この夏どころか、以前からずっと通っていたはずなのに、今日ばかりは先の見えないことが恐ろしくてたまらない。どうして、何ていうのは考えるまでもなく、さっき堪えきれずに吐き出してしまった不安が、心の底から絶えず湧いてくるからだ。
初めから自信なんてものはどこにもない。これまでほかでもない自分自身がずっと気づくこともなかった願望の真偽を、一体誰に教えてもらええばいいというのだろうか。ああいや、友寄さんは知っているんだったか。まあでも、今聞いたところであの人が答えてくれる訳はないからどの道だけど。
だけど、それでも、私はおめおめと逃げ帰るつもりはない。
勿論この夏の事であの人に、澄希さんに会いたいというのは今でもある。でも、それ以上に今の私には、自分の本当の願いを知ったからこそ、あの人に聞かなければならないことがある。
本来もう決して聞くことのできなかったそれを、あの人の口から直接聞いて、知りたい。それで初めて、私はこの約十七年の人生で起きた事を振り返って、その歩みに意味を見出せる気がする。そして、これから先、私は過去を抱えてどう生きればいいのか、未来へと目を向けられる気がする。
だから、
「……行こう」
今度は自分に言い聞かせるようにそう呟くと、私は多くを抱えながら、あの場所へ向けてその一歩を踏み出した。
明るくて暖かな日向から一転、葉の隙間から木漏れ日が届くばかりの薄暗い道は相変わらず夏とは思えないくらいに冷ややかで、けれど、確かにあるはずのその先へ向けて、怯むことなく歩いていく。
でも、そんな中でも心から不安はまだ零れ続けていて、ともすれば、着かなければいいのに、何てよぎる程に。
だけど、その思いは叶わない。現実の距離はどれほどのものなのかは、通っていた分だけよく知っているから。どれだけ小さく、どれだけ遅く歩んだとしても、前に進み続ける限りは、いずれあの場所へは辿り着いてしまう。
あの人に会いたいと思う限りは、結末は変わらないと、そう、わかっているから。だから、零れてしまう不安を消し去るために、この先に待ち受ける事実を何であっても受け入れられるように、私は、あの人との記憶を、振り返ることにした。
初めは私が逃げ出そうとして起きた事故が原因で、それから少し話をして、その中で音楽プレーヤーの話になって。
今思えば、初めて興味を持ってもらって、話ができるかもしれないと自分でもおかしいと思うくらいに内心で盛り上がっていたからあんなことを勢い任せに言うことが出来た。本当、ちょっとおかしかったと思う。
でも、その蛮勇といっても良いようなその行為で一歩踏み出せたのが、知らぬ間に自分で閉じていた心を開いた瞬間だったのかもしれない。勿論きっかけを作ってくれていたのは澄希さんだったけど。
その次の日、約束を反故にするのもできなくって、それ以上に抱いた興奮がまだ冷めていなくって、そんな心持で選んだカセットを持ってあの場所へと向かった時、ちゃんとあの人がいてくれたことがたまらなく嬉しかった。
その後、気に入っている曲を聴いてもらって、私が気に入ってるのを納得してもらったら、何だか曲だけじゃなくて自分まで認めてもらったような気がして、それがまた嬉しくって。
でも、一番嬉しかったのは、やっぱりあの約束。それ自体はあっさりと終わったものだけど、帰り道、その日の出来事が夢か何かだと思えても、手にしたプレーヤーが約束の記憶を現実へと結びつけて、心に残ったひと時は決して消えることはなくって。
当たり前に私を受け入れて、当たり前に次を望んでくれる。そんな存在がいるというのが、何よりも嬉しかった。
それから、何気ない交流の日々はあっという間に過ぎていって、互いについて色々と話をして、音楽を共有して、そして、友達になってからは、更に。
そしてあの日、私の全てを打ち明けた時、彼女はそれを受け入れてくれて、それが嬉しくて、報われた気がして、ひたすらに泣いて、泣いて、泣きじゃくって。日々はもっと楽しく、もっと嬉しく、もっと穏やかになって。たった二日前のあの日まで、私はそんな日々を謳歌していた。
でも、あの人の真相を知ったうえで振り返ると、私はどうしても考えてしまう。
そんな日々の中で、彼女は、何を思っていたのだろうと。
友寄さんから、彼女も私と過ごした日々に救われたのだというのは聞いたし、言ってくれたことを今更否定するわけじゃない。けど、どうしても気になってしまう。あの日々の何に、彼女は救いを見出したのか。私は彼女をどこまで救えていたのか。
何よりも気になるのは、全てを打ち明けたあの日、彼女はあの境遇の上で、何を思ってあの言葉を、私にくれていたのだろうか。
もし、彼女がこの先で待ってくれているとするのなら、最後にせめて、それくらいは聞かせて欲しい。ちょっと意味は違うかもしれないけど、それでも、何も言わずにさよならは、友達として、やっぱり少し酷いと思うから。
だから、どうかあの場所にいてほしいと、そう思った時。
薄暗がりばかりだった視界は晴れやかに、緑の隙間からは柔らかな光が落葉の様に降り注ぐ。暖かさはほどほどで、夏虫達は遠くで鳴くばかり。
外界など露知らず、木々の中に在るその場所は夏の楽園のような有様で、静けさと共に人を出迎える。
この夏、幾度と来て、幾度と見た景色と変わらない光景。そう、全てが何一つ変わらない。夢でも幻でもない、間違いのない現実。そんな視界の傍ら、数ある木々のその一つに、“彼女”は、いた。
大木に寄り添うようにしている彼女は、太い幹に身体を預け、穏やかな顔をしながら目を瞑っている。
寝息の聞こえてきそうなその調子を見る限り、二度寝か、或いは気の早い昼寝でもしているのか。どちらにしても、眠りについていることには変わらない彼女のその姿に、心に渦巻いていた不安は一瞬にして霧散した。
そして、空いた隙間を埋めるように、今までで一番の安堵と喜びが胸に満ち、そのせいで体中の力が抜けてしまって、
「……はぁぁぁ……………………」
何て、気の抜けた声を吐き出しながら、私は萎んだ風船が落ちるようにへなへなと地面へとへたり込んだ。
奇跡は、起きた。今噛み締めているこの瞬間が、確かにそれを実感させくれている。それが本当、ひたすらに嬉しくってしょうがない。
時間で言えば一日程しか経ってはいないけれど、それ以上にあの全てが消えていった喪失感はあまりにも代償として大きすぎて。だって、同じさよならでも、いつか会えるかもしれないと、もう二度と会えないではわけが違う。
それは、例えるのなら死別のように、けれど、それより遥かに残酷に。
月日が経って、歳をとって、薄れ行く記憶という現実をその過程で少しずつ許していきながら、それでも残っている思い出を懐かしんで初めて、感情ばかり残るだけのそれを受け入れられる。
それを、私はあの夜失った。暗闇の中、不安と恐怖の中で一条の光だけが見えていて、それに向けて走り出すけど、辿り着くための道がないから何時までもいつまでも走り続けるばかりで、けれど、希望があるのがわかっているから、執着を永遠に捨てられない。
だけど、私が幸福だったのは、その暗闇の中、手を引いて歩いてくれる人達が居てくれた事だ。
足元を照らすだけの小さな明かりで、一歩一歩歩くべき場所を示してくれて。でも、希望と違うのは、最後には一歩突き放す事。
でも、それは冷たい訳じゃない。
立ち直って、再び歩きだして、けれど、辿り着いた希望が、望ましいものでなかったときに、そこで立ち止まるんじゃなくって、ここまで歩いてこれたから、この先も、きっと歩いていける筈だと思える。
悔いも失意も全部背負って、先へとあるって行けるものを、あの人達は私にくれた。
だから、私は良かったじゃなくて、嬉しいと言えている。
無いかもと思っていたからこそ、あったことを喜べている。
ああ、そして、だからこそ私は、
「……うん、よし」
頬を叩いて、一つ言葉を呟くと、ちゃんと力を足にいれて立ち上がる。辿り着いたのは終わりではなくて、まだ、やらなければならないことと、進むべき先があるから。
そうして、私は立ち上がったその足で、ゆっくりと彼女の元へ歩いていく。近づいて近づいて、いよいよ、小さな寝息も聞こえて来るような距離まで近づいて。すぅ、と、小さく一つ呼吸してから、
「澄希さん」
いつもの様に、私はその名前を呼んで、返事がわりに、寝起き声でも聞こえて来るのを待って。
待って。
待って。
待って。
けれど、反応は何もなくて、よっぽど深く眠ってるのかと思った私は、仕方なく揺すり起こそうとその身体に触れようとして、
「……あれ?」
そこで、私は違和感を覚える。それは一体何だろうと逡巡する事数十秒、その答えは、ポロリと零れ落ちるように。
微音も聞こえる静寂の中、目の前で眠る様にしている彼女からは、寝息一つしていなかった。
「澄希、さん?」
気づいた途端、よぎったのは、自分の一番古い記憶。黒い服を着た人々の中、私は何かの箱を眺めていて。けれど、それが何だったのかを理解した今甦るのは、それより更に前の事。
目覚めた時、目の前にはその人が当たり前に居て、本能的に直感的に、私はその人に触れようとして、静寂の中触れたその人は、酷く冷たかった。
そんなことを、思い出して。私は、朧な思考しかないまま、いつの間にか震えていた手をゆっくりと。
考えてしまった可能性を、確かめるためにそっと伸ばして。
いよいよ指が彼女の肩に触れた、その瞬間。
――カチッ
そんな音と共に、私に、何かが流れ込む。
しらない声が
しらない音が
しらない苦痛が
しらない思いが
しらない意志が
しらない日々が
しらない時が
しらない恋が
しらない夢が
しらない悲鳴が
しらない嘆きが
しらない絶望が
しらない決意が
しらない愛が
そんな、誰かのしらない記憶が、ひたすらに流れ込んでくる。大河の氾濫が止められないように、あまりにも膨大なそれは、私が現実で理解できる分を超えて、私は溺れるように沈み込みながら、只々その記憶を受け入れるばかり。
そこに私の意思はない。そこに私の心はない。飲み込まれるがままの私は、その一人分の記憶を、“しらない”を知り続けて、いよいよ自分自身がわからなくなってしまいそうになって、その自覚すらも、消えてしまいそうになった、その刹那。
『ごめんなさい、ずいぶんとながくみせてしまいました』
『あなたに、わたしのすべてをあかすつもりはなかった』
『でも、かれのおかげであなたがわたしをしったから、つい、りかいしてほしくなってしまったんです』
『ながいあいだひとりでかかえていたものを、うちあけたくなってしまったんです』
『あなたならいいかと、つい、おもってしまったんです』
『それだけのものを、あなたはわたしにくれたから』
『けれど、それじゃあだめですね』
『ゆうきは、もうたくさんもらいましたから』
『あなたがむきあったように、わたしもむきあわないといけませんね』
『だって、わたしはあなたの』
――カチッ
「……っつ!」
また音が聞こえた瞬間、自分の呼吸音と、肌を撫でる夏の空気で、私は現実へと帰ったことを自覚する。
何秒か、何分か、何時間か、何日か、何か月か、何年か、時間感覚があまりにもおかしくなりつつ、目に映りこむ状況からなんとか今を取り戻しながら、私は今までの事を順繰りに思い出していって、ようやく私は、自分に何があったのかを理解して、
「澄希さん!」
異常から抜け出した安堵より先に、私はそう叫びながら彼女のいるはずの場所へ顔を向けて、けれど、そこには大樹があるばかり、人の跡は何もない。
それに更に焦りを募らせて、必死に辺りを見回して、全てを視界に捉えても尚いない彼女の影を求めて立ち上がって、
『祈李』
その声が、耳に響く。
背後から聞こえたその声の方へ、緊張気味に、ゆっくりと視線を向けていく。
そうして見えた先に居たのは、陽炎のような、あの人だった。
あの人だというのはわかる、わかるけれども、降り落ちる日差しで照らされている筈の彼女の輪郭は揺れて、立っている地面に影はなく、代わりに彼女自身が色のある影のように、全身を薄暗く染めている。
でも、そんな彼女の姿に驚くより先、私は彼女の、ある一点を見つめていた。
それはきっと、私の方へ差し伸べられているだろう手。愚直な程真っ直ぐに私へ向けられたその手には、黒い何かが包まれている。
そんな、素性の知れない何かを、どうしてか取らなければならないような気がして、私は手を伸ばすと、それを感触がするまで握ってから、私の方へ引き寄せる。
すると、纏わりついていた黒はほどけていって、私の胸の前まで来たとき、正体不明の其は、見慣れた四角、一つの、カセットテープへとなった。
もう一度、彼女を見やる。相変わらず様子の彼女に、私は、
「聞けって、こと?」
聞いた途端、その暗がりの顔が、どこか笑ったような気がして、それで、答えは十分で、私はカセットテープをプレーヤーにいれると、首に下げていたヘッドフォンを耳に当てて、そして、ゆっくり目を瞑ると、
――カチッ
いつもの様に、慣れたように、再生ボタンを押し込んだ。




