第十七話 あの日、あの夏、あの場所で その1
記憶と幻想の世界に佇んでいた時。唐突に、何か軽くなったような感覚を覚える。重く、包み込むような中で沈み込んでいたのから解放されたような、そんな感覚。
それは、世界が崩壊し、現実へと引き戻される合図。一夜の幻は朝の霧のように消えて、きっと、もう二度と見ることはない。
だから、私はありがとうと、共に歩いてくれた彼女にそれだけ言うと、瞼から染みる光を道標に、その一歩を踏み出した。穏やかに、安らかに、あの子が言葉に返してくれた微笑一つ、空いた背中に背負いながら。
【2019年 8月18日】
・視点 三司祈李
「………………んっ」
網戸だけ残してカーテンも開け放っていた窓から漏れる光の眩しさに、思わず私はそんな声を零しながら、薄目を開きつつ体を起こす。暫くそのままでいた後、光に慣れた目をいつも通り開き、見慣れた景色が飛び込んできたことで、今もまだ鮮烈に残っているこの記憶が夢であったのだと理解する。
時計を見ると、六時過ぎを秒針は相変わらず忙しない様子で動いていて、そのおかげで現実というものの流れを何となく思い出す。同時に、こうしている今も抱えている記憶が一夜の幻として消えようとしていることを思い出した私は、既に決まった心を以て、すべきことをするために立ちあがろうとした、その時。
手から、何かが落ちそうになったに気付いて、咄嗟に私は掴み取る。瞬間、手肌に流れ込むその感覚には覚えがあって、何だったかとも思うより先に何かを握っているその手元を見た私は、そのいつの間にか忘れていたものの正体を思い出した。
垂れ下がっていたヘッドホン部分を一先ず首に掛け、それから、私は改めて手に持っているそれを、澄希さんの……母の形見を見つめてみる。朧気な記憶ではあるものの、寝る前は確かに持ってはいなかった。だから、どうしてだろうと考えていると、
「………………う゛………」
その唸り声のした方を振り向くと、眩しさからか、少し不服そうな顔をしながら眠る真那がいて、それだけで、この奇妙な現象が途端に腑に落ちる。
うっかり寝返りで壊してしまう可能性を考えなかったのか、何て小さな悪態を吐きつつ、私は彼女がどうしてそんなことをしたのかを思い浮かべ、これまで、私が気づかない間もくれ続けていたその不器用な優しさに、
「……ありがとう」
少し、照れ臭かったけれど。それだけ言って、眠りやすいように少しカーテンを閉めてから、部屋を出た。
朝のしんと静まり返った空気感に従って、私も出来るだけ音を立てない様にゆっくりと階段を降りていく。
廊下まで出てもそれは変わらずで、のんびりと、穏やかに。そんな風にしていると、つい二日前に夜中一人で抜け出した時の自分を想像して、只笑うしかなくなってしまった、その時、
「……改めて、毎日朝早くちゃんとしたの作ってるってすごいわね」
「これくらい全然よ。やらなきゃいけない事やってるだけ」
「私何て買ってきたのばっかで料理なんてしてもないわよ」
「あんたはその分仕事もしてるでしょ」
「だから余計に気にしてるのよ」
台所に差し掛かったところでそんな声が耳へと届いて、それに導かれるようにして台所に顔を出すと、綾音さんと清美さんが並び立って、随分と仲良さげに話しながら朝食を作っていた。
その光景に、どうにも私は邪魔するのも悪い気がして一旦引っ込もうとする。けれど、踵を返したその途端、まるで私の意志に反するように、ぐぅ、と随分と大きな音が鳴って、私が誤魔化すより先、二人がこちらを振り向いて、
「……その、おはようございます」
今すぐにでもその場から逃げ出したい衝動を抑えながら挨拶すると、二人は顔を見合わせて、それから、ほんの少しだけくすくすと笑いながら、
「「おはよう、祈李」」
早朝の柔らかな朝日のように暖かな声で返してくれた。
「いただきます」
前に昇る食欲を満たす前に習慣づいた挨拶をしてから、私は目の前の朝食へ箸を運んでいく。炊いたばかりのご飯に、ベーコンエッグとお味噌汁。時雨家では定番の献立で、いつも通り美味しい。美味しい、けれど……。
「…………」
「…………」
黙々と、何を言うでもなく只ジィっと、監視カメラのように目線が二つ、食べる私に向けられている。何か害があると言うわけでは勿論無いけれど、それでも、こうも眺められていると何だかむず痒くなって、
「……あの」
「ん? どうかした?」
「いや、その、何で、そんなジロジロと?」
何事もないように返事をする綾音さんにそう訊ねると、綾音さんは、少しむっとしたような表情を浮かべて、
「今日はちゃんと食べていくか、監視してようと思ったの。ね、清美」
そうなんですかという目線を向けると、清美さんは表情を変えずに頷く。そんな二人を見比べながら、私は言葉の意味についてを少し考えつつご飯を口に運んだ時、そういえば昨日も一昨日も朝食を食べることなく家を出て行ってしまっていたことを思い出した。
「綾音さん」
呼びかけながら、私は食べ進めていた箸を置いて、改めて綾音さんへと真正面から向き直る。そして、
「今度はどうしたの?」
そう綾音さんに問いかけられて、私は、
「……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
心から。伝わるかはわからないけれど、それでも、心から。頭を下げて、目を瞑って、そして、何より正直に。
「ごめんなさいって、何に?」
言葉が響く。それは、決して冷淡ではなかったけれど、それは、だからこそむしろ私の胸に深く突き刺さる。何にと言われれば、それはもう、何もかもだ。自分の知っているもので、自分の知らないもので、果たして、どれだけこの人に大変な思いをさせてしまっただろうか、どれだけ迷惑をかけてしまっただろうか。
返答次第で、このごめんなさいの重さは、きっと大きく変わる。それこそ、押しつぶされてしまいそうなくらいに。
ああ、だから、
「………朝ご飯を、食べなくって。挨拶も言わずに、出て行って。沢山沢山、心配かけて。なのに、今も頭が別の事で一杯で、気づけなくって、ごめんなさい」
一番近くて、けれど、今までで一番傷つけてしまったかもしれないことを、私は出来る限り精一杯思いを言葉に込めて。今更、意味はないかもしれなくても、それでもと思っていると、
「……顔を、あげて頂戴」
静かな声で、綾音さんはそう言って。私は、何を言われてもいいように身構えながら顔を上げる。すると、
「えい」
そんな声と共に、開けた視界に突如として飛び込んできた指が、勢いよく私の額を弾く。その予想外の痛みに、思わず「あでっ」というなんとも間抜けな声を出してしまって、
「な、何するんですか!」
いきなり何だと訴えながら困惑気味に綾音さんに視線を向けると、綾音さんは手をひらひらとさせながら、
「何って、お仕置きよお仕置き。祈李があんまり馬鹿真面目に謝るから」
「馬鹿真面目にって、だって、綾音さんそれで怒ってたんじゃ……」
「怒ってなんかないわよ、むしろ急に謝られてビックリ」
本当に意外そうな声色でそう言われてしまって、私の困惑はさらに大きくなる。だから私は、
「でも、監視してるって言ったじゃないですか」
「ええ、それはそうね」
これまた、あっけらかんとした様子でそう答えられてしまって、途端、妙な脱力感が私に襲い掛かって来る。意味が分からない。この人は何を思っているのか。そんな思いが、つい言葉として零れ出る。
「……思うよりも先に受け入れられたから気づけてなかったというのは、言い訳でしかないかもしれないですけど、でも、私は、怒られるべきことをした筈じゃ、無いんですか?」
もっと人生経験があったり、察しが良かったりする人ならこの人の心が分かったのかもしれない。でも、私はむしろずっとずっと鈍感で、自分すらもわからないような人間だから、こんな風に真正面から聞かないと何もわからない。
そんな、愚かさと、臆病では止められなかっただけの質問に、
「ええ、そうね。その通り。だけど、今私が祈李を怒る理由ってのは、もう何もない筈よ」
真っ直ぐに、はっきりと、迷いなくそう答えて。そんな彼女の言葉に呆気にとられた私に、綾音さんは、
「どうしてこんなことをした、どうして何も言わなかったんだ何てのは、私に言う資格は無い。心配してたのよっていうのは、私の心を押し付けるだけ。こっちの気持ちも知らないでは、私が言ってないんだから当たり前」
私に対して、自分に対して、優しく、言い聞かせるように、
「それにね、祈李」
晩夏に残る灼熱の中、安らぎをくれるそよ風のように、
「貴方が怒りだと思ってるそれは、“叱る”って言うの。叱るっていうのは、自分が未熟だと、成長してほしいと思っている人にするものなの。なら、そんなこと思えないくらい立派な貴方に、私が何か言えるはずがないじゃない」
そんな言葉を、貰ってしまって、私はそれ以上何も言えなくなってしまった。
何を思おうと、それを言ってしまったら、きっと、今度は叱られてしまうから。
だから、
「……はい、ここでこの話は終わり! 言いたいことが言えたなら、これ以上ご飯が冷めないうちにさっさと食べる! 良いわね?」
パン、と手を叩いて促す綾音さんに従って、置いた箸を再び手に、私は朝食を再開した。
「……よし」
朝食を終えた後、洗面所にて歯磨きはじめもろもろを済ませて部屋へと戻ると、眠り着姿のままからいよいよ着替え、あんまり無いなりにそれっぽく選んだ服を着た自分自身と鏡越しに向き合った私は、小さく呟く。
はたから見れば、いつもと変わらないその服装の何がよしなのかわかりはしないだろう。実際、大して変わりは無い。だけど、だからこそだ。
最後だとか、もう二度とは無いだとか、そう思うとついつい恰好を付けたくなってしまうけれど、そんなの、所詮私の心持の問題だ。正体を知ったところであの人との関係性は変わらないし、これまでが無かったことになるわけじゃない。なら、私は今まで通りに過ごしたい。
私が大事に抱えていたいのは、他でもないその今まで通りだから。
そうして支度を終えて、心を決めて、最後に、もう一度プレーヤーを手にして、少し前と変わらない様で私は扉に手を掛けた、その時、
「……行くのかい」
背後から、突如そんな声がした。本当についさっき起きたのだろう、その声は少し掠れていて、深刻さも真剣さもなく、只々確認するように。まあでも、昨日あれだけそれらしいそぶりを見せたのだから当たり前といえば当たり前で。だから、
「うん、行ってくる」
何気なくそう返して、
「……いってらっしゃい」
何気なくそれを受け取って、私は玄関へと向かう。
階段を下りて、廊下を抜ければ、あっという間に辿り着く。
そして、今度は光差し込む方へと足を向けると、慣れた手つきで靴を履いて、とんとんと踵を鳴らし、いよいよ外界へと旅立つべく立ち上がり、その一歩目を踏み込んで、
「祈李」
その直後、名前を呼ばれて振り返る。なんとなく、そんな予感はしていた。綾音さんと同じようにじいっと見ていたけど、事情は少しばかり違うのだろうとは思っていたから、私は、
「何ですか、清美さん」
名前を呼んで、聞き返す。刹那、彼女は逡巡するように少しだけ顔をむっとさせてから、目を閉じて、一つ深呼吸。そして、
「言っても、意味は無いと思うけど。私には、何一つできることは無いけど」
只、それでも。
「“せめて、幸せになって頂戴ね”」
今まで見たこともないような笑顔でそう言った彼女に、
「はい。じゃあ、行って来ます」
「ええ、行ってらっしゃい」
それだけ返すと、一歩二歩、ガラリと扉を開けてから、一歩二歩。三歩。四歩。五歩。六歩。数え切れはしないので、それ以上はまあ沢山。
青空に灯る太陽の下、首にはヘッドホン、手にはプレーヤー。いつも通りの服を着て。それから最後にもう一つ、確かな願いを胸に抱えて、私はあの場所へと歩いていく。
始まりのあの場所で、この夏の記憶を、思い出として終わらせる為に。




