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第十六話 私が欲しかったもの その4

 眠りにつく。肌触りの良い絹の布に包まれているような感覚を覚える漆黒の闇の沼の中で、穏やかに、淑やかに。


 あまりにも安らかで、何もかもを忘れ去ってしまいそうなその中で私に在るのは、意識と呼んでもいいのかわからない何かだけで、それでさえも起きてしまえば鮮烈な現実に塗りつぶされ、永遠に思い出すことのないものだ。

 

 ただ、時折その安らぎの内で、私達は不可解な幻想の海に溺れる。ある時は、遥か昔の記憶の一節を、ある時は、現実では在りえざる世界を。そしてある時は、己ですら自覚していない心の内海の中核を。


 そんな、酷く自由であり、又、酷く不自由である何かを、人は、夢と呼んだ。



――――カチッ



・視点 三司祈李


「っつ!」


 唐突に聞こえたその音に驚いて、私はつい飛び起きる。


 急激に働き始めたせいでまだうまく機能していない思考を巡らせながら、それより先、本能的に警戒するように周囲を見回した私の目には、辺りに蔓延る不可解な漆黒が映りこむばかりだった。


 少しして、落ち着きを取り戻した私は自身を囲う暗闇に困惑しながらも、一先ず現状を確認しようと、初めにまばたき、次は無意識に自分の半身を起こした腕を以て体中を触り、異常がないことを確認した私は、最後に両足で立ちあがる。


 位置の変わった頭を振り、改めて辺りを見回すけれど、周囲は変わらず黒く染まっていて、一寸先ですら怪し気に思える程で。


 でも、それ以上に不可解なのが、その闇の中に何一つとして物の面影が存在せず、その上で自身の身体だけが、ぼうっと蝋燭の火のような白い光に包まれているようにハッキリと見えていることだ。


 それはまるで、この世界に自分しか存在していないようで、何故だか、妙に寂しくて、其処まで思ったところで、私は、


「………………あ」


 奥底に閉まっていた記憶を思い起こして、つい、そう零す。


 この孤独を、この虚無を、この闇を、私はいつからか知っている。それは、この夏に起こった出来事の前日譚。あの日も、確かこんな風に唐突に………………。



――――カチッ



 その音は、思い出しながらもあやふやだった認識を、一瞬で鮮明なものにする。ああ、そうだ。あの日、訳の分からない空間で、私は奇妙な夢を見た。


 謎の音。謎の声。謎の人物。全てが、謎に包まれている。けれどその最中、一つだけはっきりとしたものがあって。それは、さっき響いた音の根源であり、その音は、始まりを告げる音であり、相反す様に全てを終わらせる、そんな一押しの音。


 そして、あの人と過ごす日々の要であり、あの人との思い出であり、けれど、どうしてだろう。いつからか、その存在を忘れてしまっていたもの。私の知らないあの人がこの世に残した音であり、私に残された、唯一の接点。


 その日々を。


 その時間を。


 その姿を。


 その救いを。


 私は、思い出して。



――――カチッ



 瞬間、その音を合図に突如として漆黒が晴れ、何でもなかったはずのその場所は天井に青々とした空が広がり、周囲を生き生きと茂る木々に囲まれ、けれど、そこだけが開けた草原の中央に二つ残された切り株、その一つに座り、カセットテープを入れ替えては再生し続ける少女は居た。


 カセットテープをプレーヤーにセットし、再生ボタンを押す。それから、およそ一分ほど聞くと停止して取り出し、また新たなカセットテープをセットする。


 その動作を、彼女は何も喋らず、表情も変えず、ただ淡々と機械のように繰り返して、何を思って、何を考えているかなんてきっとわかるはずがない。


 そんな、冷淡さすら感じる少女を、私はきっと、ずっと前から知っていた。



 だから、私は彼女が何を考えているのかを理解している。


 私は彼女が何を思っているのかを理解している。


 私は彼女が何を望んでいるのかを理解している。


 ああ、ただ、だからこそわかってしまう。それだけでは、何の意味もないのだという事を。


 だから、私は。




 一歩。宙に浮いた足が、確かに地に着いたことを感触で確かめる。微かにジンと、足裏から肉を、骨を、神経を伝って響くそれをしるべに、また、一歩。


 動作自体は同じように繰り返しだけれど、でも、踏み出している限り、身体は、心は、前へ前へと進んでいく。


 立ち止まり、固定されていたものを打ち破り、絶えず変化をし続ける。


 風が、地面が、空が、僅かにその在り様が、見え方が一秒後には別物になって、一度として同じにはならず、一度として元には戻らず、変わったと思う頃には、それはもう過去になって。


 いくら取り戻したくなっても、いくら懐かしんだとしても、もう一度は決して起こり得ない。


 だけど、私はその可能性を手に入れた。



 たった一夏、たった一時。


 それだけの日々、それだけの時間。


 けれど、それを超えるほどの救いがあった。それを超えるほどの希望があった。


 だからこそ、私は最後の奇跡だと、最後の機会だと、もう一度だけ起こるかもしれないだけのものだと言われながら、それでも希望を求めてそれを目指し、悩み、苦心して。


 けれど、その一方で、私は。



――――カチッ


 私が彼女の元へ向かうその間も、彼女は未だ相変わらずの様子でその動作を繰り返していた。


 伏せっている目線はプレーヤーに向いているか、或いは閉じられていて、私には文字通り目もくれていない。


 それどころか、ヘッドフォンで耳も塞がっている以上、周りに広がる現実を、彼女は知覚すら、いや、知覚しようとすらしていないのだろう。


――――カチッ


 彼女がカセットテープを入れ替えているのは、少しでも現実に浸ってしまう時間を消すためであり、カセットテープが絶えないのは、他でもない聞き手である彼女自身がそれを望んでいるから。


 終わっても終わらない。曲こそ変わっても、曲を聴いているその時間に関しては永遠に終わらない。


 それは、言うなれば不変の新鮮さであり、飽きてしまう事も、つまらなく思う事も決してなく、むしろ、永遠に続いてしまえばいいとさえ感じる。


――――カチッ


 だから、それだけでいい。触覚が感じているものも、曲に混じって聴こえてくるものも、閉じた瞼から感じる明るさも。そして、それら全てが形を作る、自身が存在する現実すらも。その全てがどうでもいい。


 そんなものがなくたって、この時間を、この生を、私は謳歌し満足している。


 だというのに、


 どうして他の物がいろうか。


 どうして顔をあげなければならないのか。


 どうして終わりを望む必要があるのか。



 ああ、そうだ。あの輝かしい日々。あの喜ばしい時間。


 あの人の、あの人と過ごす救いの夏なんて、永遠に続いてしまえばいいのだ。


 誰が捨てるか。


 誰が手放すか。


 誰が諦めるか。


 誰が負けるか。


 誰が失うか。


 誰が懐かしむか。


 誰が。


 誰が。


 誰が。


 誰が。


 誰が。



 ………………誰が。



「出来るなら、諦めたくないよ。私だって」



 ごう、と、閉じていた感覚を無理やりこじ開ける程の強く、冷たい風が吹いた。草木を揺らし、雲を運び、そして、身体をよろめかせるくらいに吹き付けたその風のあまりの衝撃に、思わず何事だと反射で顔をあげる。


 瞬間、現実から切り離されていた感覚は蘇り、拒絶おんがくで塞がっていた耳は、一音も逃さずにその声を拾ったのだろう。言葉は無くとも、私を見つめる彼女の目線だけで理解できた。



 光差す青空、風そよぐ草原、その最中。


 一夜の夢、遠き過去への疑問が生んだ、在り得ざる邂逅。


 私の知らないあなたを。貴方の知らない貴方わたしを。


 全ては、もう一度あの人へ辿り着くために。


 あるはずの無かったものを貰ったはずなのに、それ以上を未だ望んでしまう、愚かで純粋な私にけりをつけるために。


 奇跡を希望にしている時点で、まだ私は弱いのかもしれないけれど、それでも、私は先へと歩いていきたい。


 後戻りはできないところまで知ってしまった以上、今更可能性は手放せないから、だから私は、向き合うんだ。


「………………馬鹿だね。貴方わたし


「言われなくてもわかってる」


「それ以上に大馬鹿だって言ってるんだけど、まあ、どれだけ訴えても、もう足りないんだよね。だって、貴方わたしは真那から問われた時点で、可能性に縋ってでも、それでも立ちあがったんだから」


「本当に、ただ縋っただけだけどね」


 少し褒められすぎているような気がして私がそう言うと、彼女わたしは、呆れたような顔で笑いながら、


「何言ってるのよ。何にも期待できなくって、何も信用できなかった貴方わたしが希望に縋れたなんて、それだけでもう大した話じゃん。


 私が言うのもあれだけど、さ。少しは認めて褒めてあげなよ。他でもない、自分自身の選択を」


 そう、真正面から答えられて。ああ、本当にその通りだと思わされてしまって。変な話だと思うけれど、そう言ってもらえたことが、なんだかとっても嬉しくって。


 けれど、


「……いいの? あの人との永遠を望まなくって」


 同時に、それが傲慢だと解っていても、私はそう問わざるを得なかった。決して捨て去るわけではないけれど、それでも、私の選択を選ぶという事は、それはつまり、あの幸福な日々を、幸福“だった”、思い出にするという事で。


 すると、それを察したのだろうか。彼女(わたし)は、今度は優しさを込めるように思い切り笑って、


「いいよ、いい。だって、それであの人ともう一度会う事も出来なくなるっていうなら、その方が、よっぽど嫌だから」


 そう返されて、私は、


「……………………そっか」


 答え一つ、その裏に、歪むことのない決意を隠して頷いた。そして、


「………さて、そんなこんなで、許可もとったことだし、そろそろ本題に入ろうか」


 言葉と共に、私は、彼女わたしに手を伸ばす。今の私も、過去のかのじょ(わたし)も全員連れて、最後の希望へ向かうために、最初の願いを知るために、まだ見えもしていない遥か彼方に向かうために。


「うん」


 首にヘッドホンをかけ、片手にカセットテープの入ったプレーヤーを抱えながら、空いた片手で、ぎゅっと差し伸べた手を握り返して立ってくれた彼女わたしと共に、歩き出す。


 今の子の出来事さえ霧の中に溶けてしまう現実まで、まだ時間はある。だから、急がず焦らずに、ただし、希望へ向かうんだから、弾むように軽やかに。


 一歩一歩、進んでいこう。




――――カチッ




※※※※※※




「○○」


 色のくすんだ、ちりじりの記憶。


 そこには、誰かの声があった。


 誰がどうして言ったのかは、ボロボロ過ぎてよくわからない。


 何と言っていたのかは、ノイズが酷くて聞き取れない。


 只、それでも、それは誰か(わたし)の名前で、呼ばれた誰か(わたし)は無邪気に反応し、そして、読んでくれた誰かの方へ向かっていったのは、どうしてか理解できる。


 それはきっと、無意識なほどの意志でさえ覚えていようと思う程の何かがあったからだろう。



 『○○』


 真っ暗な、闇の中の記憶。


 そこには、誰かの声があった。


 誰がどうして言ったのかは、ボロボロ過ぎてよくわからない。


 何と言っていたのかは、ノイズが酷くて聞き取れない。


 只、それでも、何となく、分かることがある。


 怯えてしまう程に目の前は暗いのに、どうしてかそうはなっていない。


 それどころか、むしろ、誰か(わたし)は随分と安堵している。


 それはきっと、顔を埋め、体を預けている何かに、ぬくもりと優しさを感じていたから。


 ぎゅうと包んでくれている誰かに、心から信頼し甘えていたから。


 だから、きっとその口元は緩んでいて、


『○○』


 けれど、その記憶の最後、


『………………ごめんね、○○』


 その言葉を最後に、誰か(わたし)の胸には、凍えるような寂しさがあった。




「○○○○」


 狭く、孤独な部屋の記憶。


 そこには、誰かの声があった。


 誰がどうして言ったのかは、ボロボロ過ぎてよくわからない。


 何と言っていたのかは、ノイズが酷くて聞き取れない。


 只、それでも、その時の感情だけは、確かに心で覚えている。


 無知のまま納められた部屋で、その中の日々だけが全てで、自分がどんな状況のどんな存在なのかさえ理解してはいなかったけれど、それでも、その胸の奥には、苦しさと拒絶が染み出ていた。




※※※※※※



 歩み始めて、暫く。


 もうすぐ夢から醒めてしまうだろうという予感のし始めた、その頃。


 遠き日の記憶の断片を見てきた私は、一つ、思い出したものがあった。



 それは、始まりに見た夢の記憶。その中で、誰かが零していた言葉。



 だれか、わたしをたすけて



 わたしを、みすてないで



 わたしを、ひとりにしないで



 あの時聞き取れなかったのは、きっと、私が覚えていなかったから、私が気づいていなかったから。



 そして今、それを知った私は、その時でさえ零れなかったものを。



 私の、本当の願いへ、とうとう私は辿り着いた。

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