第十六話 私が欲しかったもの その2
「……さて、色々と言いたいことはまだあるけど、一先ず、中に入りましょっか」
抱擁が始まってからおよそ数分、行動で、言葉で、そして、最後にはぬくもりで。私に伝えることは全て伝えたのか、不意に離れた清美さんは一転、いつも以上の優しく明るい笑顔を浮かべ、私を時雨家へといざなう。
いつの間にか姉弟達からも解放されて自由となった私は、今度は決して躊躇うことなく、その一歩を踏み出した。
祭りの後帰ってきてはいたものの、記憶があやふやで、自分的には二日ぶりに帰ってきた時雨家に妙な久しさを覚えながら廊下を歩く。雛鳥のように綾音さんについて暫く、いつもたまり場のようになっていた部屋にたどり着いて足を踏み入れると、そこの机には、いつもと変わらぬ夕飯が用意されていて、
「その……おかえりなさい」
たった一人、座して待つ清美さんがそこにいた。
思いがけない人物の登場に、思わず私が部屋と廊下の境で立ち止まっていると、
「…………今は、先にご飯食べちゃいなさい。まあ、色々とあるけれど、貴方はそれ以上に色々あったでしょうから」
そう言われ、どうしようかと考えたものの、食を意識した途端お腹が大声で叫びそうになったため、とりあえずその催促に従う事にした。
「いただきます」
作った本人が見ているというのもあって、省略せずに一言言ってから、目の前の夕飯に手を付ける。見ただけでなんとなくわかってはいたが、夜も遅く、私の分しかないというのに、全てのご飯が温かかった。
勿論、この家にレンジがある以上、元々作っておいたものを温めただけの可能性の方が高いと思う。でも、それでも、私のためにそうしてくれたという事実だけで、どうしてだろう、心は酷く熱を帯びた。
さっき出迎えてくれたのも、きっと誰かが私がもうすぐ帰るというを教えたのだろう。私の知らないところで、誰かが私のために動いてくれている。
ずっと、今日は、ずっとだ。真那も、友寄さんも、綾音さんも、遥や彼方も。きっとそれは、私が思う以上に、幸福なのだろう。
誰かがいなければ、私は今ここにいなかった。きっとあの森の中で、未だに霧がかった孤独の中で泣いていた。あの日、いらないと切り捨てた誰かにも頼れずに。
ああ、だからこそ。だからこそ、あそこまで言っておいて何様だという話だとは思うけれど、ここできっと私の帰りを待っていてくれたあの人とは、何が何でも向き合わなければならない。
「ごちそうさまでした」
頭であれこれ考えながら黙々と食べ、食べたのだという合図をし、私はいよいよ彼女と向き合おうとして、
「……美味しかったです、綾音さん」
これまで、ずっと言いそびれていたはずの言葉を一つ吐いてから、私は清美さんへと向き直った。
「久しぶり、ってわけじゃないわね、もう。あの日も、つい二日前だもの」
「そう、ですね」
互いに顔こそ合わせているものの、表情どころか何もかもがぎこちなくて、会話も弾まない。
ただ、それでも沈黙は気まずかったのだろう。私がどうしようかと躊躇っている内に、清美さんの方から、一歩踏み込んでくれた。
「……びっくりしたかしら、私がここにいたの」
「びっくりというか、驚きは、しました。その、だって、私………………」
思い出すのは二日前の夕暮れの頃。あの日、私は彼女に言った。
『もう、私には必要ない』
そう、ああ、今思えば本当に自惚れていたけれど、私はこの人をこれ以上ない程に拒絶し、切り捨てた。貴方は、お前は、もういらないと。はっきりとこの口で言い放って、
『せめて、幸せになって頂戴ね』
そんな言葉を貰って、その時は、当たり前だ、なんて思ってた。見えない未来に何一つ絶望があるとは思っていなかった。
だけど、結局私は、今こうしてすべてを失った。そんな、きっと、互いに自覚は無かったとしても、願いを託された私は、何一つ自分で叶えられはしなかった。だからだろう、気づけば、私は思わず目を逸らしてしまっていて、
「気にしなくていいわよ、あんなの」
「そんな訳にはいかないです」
「貴方が悪かろうと私は良いのよ。だって、あんなの“呪い”でしかないんだから」
それを聞いた私は、咄嗟に顔をあげて清美さんの顔を改めて見て、揺れる瞳の奥底に滲む心情から、その言葉がどうしようもない程に心の底からの物だと理解して、言わせてしまったことを、後悔した。
「呪いだなんて、そんなこと……」
否定しようとしたけれど、清美さんは、
「いいえ、あれは紛れもない呪いよ。あれは、願いと呼ぶには元となった感情があまりにも醜くくって、貴方に希望じゃなくて、重い枷を背負わせた。後悔ばっかり、間違いばっかりの私の人生を背負わせたのよ」
はっきりと呵責からのそれを拒絶した清美さんは、呪いの意味をそう訳して、だけど、私はほんの少しピンとこなくって、
「人生を、背負わせた?」
思わず問いかけると、清美さんは更に気まずそうに、息苦しそうにしながら、それでも、はっきり答えてくれた。
「ええ、そう。私は人生を背負わせた。終わったと分かっていながら、私は貴方の幸福によって、私の半生の詰まった願いが叶わなわなかったことに意味を持たせようとしたの。無力さと夢の屍への、せめてもの、手向けとしてね」
※※※※※※
・視点 三司清美
言い切って、私は思わず下を向いた。どうして今更ここに来て彼女と向き合おうと思ったのかの、その意味を、吐き出して。
鼓動が、ほんの少し早くなる。それに急かされたのか、私が構えるよりもずっと先に、その緊張と恐怖は私の胸へとやって来た。こんな年齢になって、他にもいろいろなことがあったろうに、今この時が、人生で最も震え怯えているという自信があってしょうがない。
二番目は、あの日だ。ただ、あの日はそれ以上のものがあったから知らず知らずのうちに誤魔化せていた。でも、今は違う。これでもかという程素面で、これ以上ない程に真正面から向き合っている。
思えば、こんなに正直に自分の気持ちを言葉にして向き合ったのは初めてかもしれない。
今までは、全部ひた隠しにしてきた。
どうして私を贔屓して姉を見捨てるんだと、両親には言えなかった。自分で言うのもなんだけれど、賢かった私は、そう言って何かが変わるわけでもないし、むしろ自分が何かしら被害を被ると理解していたから。
ああうん、そうだ。私はあれだけ姉に執着していながら、そのくせ最初から姉をどこかで見捨てていた。他でもない自分可愛さで。あの境遇で、それでも私を愛してくれていた姉を見ていたはずなのに。
そして、そんな醜い執着を抱えていたというのに、あの冬の終わりの日、私は姉を引き留められなかった。飛び出して無理やり引き留めようともしなかった。
もしかしたら、無意識にそんな資格がないと分かっていたのかもしれない。何を言ったって変わらないと分かってしまって、諦めてしまったんだと思う。でも、あの時は何よりきっと、私には、勇気が足らなかったんだと思う。
安全な道を外れてでも、自分の欲しいものを、望んだことを手に入れる勇気がなかった。傷ついてできる傷の痛さを知っていたから、その傷がもたらす苦しさを知っていたから。
思うだけなら誰でも出来るとはよく言ったもので、どれだけ臆病に染まり、どれだけ醜くなろうとも、私の外面はどこまでも普通だったのだ。
『なら、今度こそ、今度こそは、あの子に向き合ってみてください』
それはあの日、全てを打ち明け、打ち明けられたあの日の事。全てを晒した友寄君は、私にそう言った。
全ての真相を聞かれ、姉さんの、勇樹さんの、友寄君のこれまでを聞いた私は、英雄譚を聞いた子供のように、大きな何かを抱いてしまって、それで、私はつい聞いてしまった。
私には、何が出来るのかと
終わったのだと、けりがついたのだと泣きついたくせに、湧いてしまった感情に突き動かされて、そんなことを言ってしまった。
答えを聞いて、私は悩んだ。それはそれは、これ以上ないって程に悩んだ。聞いてしまったことを後悔すらした。うじうじと、子供のようにうずくまった。
でも、それでも私が今日ここにいるのは、それ以上に。
「出来た事を、出来なかったと悔いるのは、もう、嫌だ」
一歩を踏み出したくなるくらいに、素直にならなかったことを、後悔したからだ。
だから、何を言われてもいい。あの日以上に拒絶されたっていい。ただ、それでも私は、あの日言えなかったその先を、せめて、この子には伝えたかった。
そう思った、私の耳に、
――――ごめんなさい
そう響いた訳を、私は理解できなかった。
※※※※※※
・視点 三司祈李
「ごめんなさい」
私の言葉を待っていた清美さんに、私はそんな言葉を返した。それが、きっと意外どころか予想外だったのだろう、顔を上げた彼女は、普段の顔からは想像できない程に呆けた驚き顔をして、
「……どうして、どうして、貴方が謝るの?」
心底わからない、というのがこれでもかと伝わる疑問をぶつけられた私はその訳を、同じくらいに、これ以上なく正直に答えた。
「私はあの日、貴方を自分が嫌で嫌で仕方がなかったはずの孤独へと追いやってしまいました。
理由も、長さも、境遇も、どれもこれも違うところばかりで、互いに理解し合えることはない。その上、貴方は私に母を見ていた。貴方は母の幻影を望むばかりで、私には、私自身には何も興味がないんだって、だから、私は貴方と決別しようと思ったんです。もう、過去の幻影を枷として背負いたくないって。
でも、今なら、少しだけだとは思いますけど、それでも貴方が、清美さんが私に幻を見たわけが分かる気がします。その人は、自分だけの大切な人じゃなくって、悪い感情もたくさん抱えてしまって、でも、それでも一緒にいたいと思える人を失うことがどれだけ辛いことなのかを知って。
目の前に希望が、可能性が、機会が現れてしまったなら、それに縋らずにはいられなくなってしまうこの衝動を、私は理解してしまいましたから」
言葉を吐いている今現在も、私はあの人の事を考えてしまっている。どうすればもう一度会えるのかと、奇跡を追い求めている。
私にとっての救いはそのまだ見ぬ救いだけれど、清美さんにとっては、それが私だった。死んだ姉が最後まで守ろうとした、姉の面影を宿した忘れ形見。何もかも手遅れだった清美さんの前に現れた、最後の希望。
あの人に渡せなかったものを、言えなかったことを、出来なかったことを、せめて、せめてこの子には、と。
だから、
「理解できなくて、ごめんなさい。理解しようとしなくて、ごめんなさい。嫌悪してしまって、ごめんなさい。拒絶してしまって、ごめんなさい」
そして何よりも、
「貴方がくれていたものを、愛として受け取れなくて、ごめんなさい」
時間も関わりも関係ない。私が何も知らなくったって、報われなくたって、この人は私を愛してくれていた。
なら、あの日、それを知った上で理解せず拒絶してしまったのなら、理解した私に出来ることは、傷つくかもしれなくても、それでも、謝ることだけだ。
そうして、私は頭を下げて、目を瞑って、言葉を待って。
そして、
「…………ありがとう、ありがとうね」
そんな私に返されたのは、さっきとは違って、けれど同じくらいのぬくもりと、湿り気交じりの震え声だった。




