第十六話 私が欲しかったもの その1
いつの日だったか、たった一度だけ、夢を見た。
よく覚えていないけれど、それでも、覚えていることがある。
それは、この町で過ごす、何気ない日常だった。
舞台は時雨家、そこには綾音さんも、遥も、彼方もいて。確か、真那もいたと思う。
思えば、真那とはあの頃からの付き合いだった。何も知らない私に、無関心だった私に真那は、どうしてか接してくれていた。
あの頃に何を思っていたのかは、今でもよくわからないけれど。
まあ、それはこの際どうでもいい。
この夢において一番大切なことは、私がそれを、幸せなものだったと覚えていることなのだから。
あの一刻の幻想に、私はそれだけの価値を見出していた。無意識に、うん、本当に無意識に。
あれ程現実では嫌ってた癖に、あれ程現実では馴染まなかった癖に、夢の中のそう変わらない日々を、私は幸福だと感じた。
どちらかが嘘ってわけじゃない、かと言って、どっちも嘘ってわけじゃない。どっちも私の心が感じた、紛れもない本物の感情だ。
ならきっと、そこには私へ幸せだと感じさせる何かがあったはず。
夢にはあって、現実にはなかったもの。
それは、何だ。
何だろう、何なんだろう。
……………………本当に、何なんだろう。
そう思うばかりで、答えは出ない。
出ない、出ない、出ないんだ。でも、それでも今私には、それが一番必要だ。
私の中には、それだけしか手掛かりになりそうなものがない。
17年も生きてきたはずなのに、何度も自己の内面を見たはずなのに、ヒントになりそうなものは何にもなかった。
もしかしたら、意識が知る限りの記憶を超えたさらに奥底にある何かが、たまたま夢となって出てきたあれしか、もう、願いの欠片が残っていないのだろうか。
それを、私はどれ程強く願ったのだろう。
何を、無意識に根付く程に願ったのだろう。
どうして、それを私は忘れてしまったのだろう。
たった一つ、ただ一個、あの夢の中にあった願いの破片は、今更、拾えるのかな。
今更、この純粋からかけ離れた心で、願いとして祈れるのかな。
不安だ、不安しかない。
もし、それを思い出せなかったら、最後に残された奇跡、その機会にすら、私はたどり着けないんだ。
だから、頑張るしかない。分かってる、分かってるよ。でもさ、しょうがないじゃん。自分に向き合った結果、私は一度過ちを犯したんだからさ。
嫌だって、心の底から嫌なんだって思って、その心に寄り添って、我慢しながら自分に向き合って、その結果出た答えが、暴力で他者を傷つけてでも自分を守ることだった。
そのせいで、後から自分は更に苦しんだ。その時の解放と引き換えに、未来に帰ってくるものが思いつかなかった。
それが、トラウマになってるんだよ。私が自分で考えて、自分一人で結論付けたものが、間違いだったって結果が。
今回も、もしかしたら願いの結論を間違えるかもしれない。そしたらまた、いや、私はあの時よりも大きなものを失ってしまう。
そうなったら、今度こそ私は立ち直れない。下手したら、苦しすぎて死んでしまうと思う。
だって言うのに、難問の答えへほとんどヒント無しにたどり着かなきゃいけないなんて、何て酷い話だろ。
見れるなら、是非ともあの夢をもう一度見させてほしい。ただでさえ曖昧なものなんだから、もう一回見るくらいいいだろうに。
ああ、どうして、あの一回しか見なかったんだろう。
どうして………………。
本当に、どうして………………。
………………………………………………、あ。
そうだ、あの日、私が夢を見た、あの日は、
「私が、この町を出ていく日だった」
※※※※※※
・視点 三司祈李
「ほら、もうすぐだよ、祈李君」
真那にそう言われて顔をあげると、そこには、嫌でも見慣れた家々があって、ほとんどの家がもう明かりすら灯っていないその中に、一つだけ、輝くものがあった。
友寄さんの家を出たのは、十一時半、そこから更に歩いたのだから、とっくに深夜零時を回っている。
家事をしなきゃと言いながら、その頃にはほとんど眠りこけていたのを、何度も見た。そのくせ、朝は誰よりも早起きで、誰よりもはつらつとしていた。
きっと、あの明かりの下で、あの人は今日も起きているのだろう。こんな、心配をかけてばかりの私を待って。自分でも驕り過ぎだとは思うけど、どうしてかそんな確信があって、今更ながら、何となく、私は足を早める。
あのドアを超え、大きな畳の上で待つあの人の顔を、一刻も早く見なければならない気がしたから。
けど、
「………………」
扉の手前、ほんの少し手を伸ばせば扉の開くところで、私はつい立ち止まった。私は、この扉を開けていいのだろうか。
初めは、事件を起こした時。次は、町を出た時。その次は、帰って来た時。それから、あの人を選んだ時。そして、何にも話さず、祭りへと飛び出した時。あの人を、あの人の気持ちを、私は何度裏切ったのか。
あの人が私を助けてくれなかったら、こんな風に育って、思考して、自分のままに立っていたかもわからない。だってのに、私は何もあの人に返さなかった。それどころか、私はあの人を恨みさえしていた。
あの人が私を連れ出さなかったら、普通を知って苦しむことなく、愚かであっても幸せな無知のまま死ねたかもしれなかったのにって。
本当、今更だ。どうして今になってそんなことを思っているんだか。でも、確かに思ってしまった以上、気にしないわけにはいかない。
それ以上のものがせき止めていた感情が、私の心から溢れ出る。後悔、恐怖、そして自責。もろもろが私の足に乗っかって、言う事を聞いてくれやしない。
とうとう、今度の今度こそ、私は見限られたかもしれない。そう思って。
何も出来ず、立ち竦んでいた、その時。
ガラリ、と、何かが開く音がして。
そして、
「祈李っ!」
勢いよく飛び出してきた誰かは私の名前を呼ぶと、何をするでもなく、私をギュウと抱きしめた。
突如塞がれた視界、窮屈になる呼吸。顔に、体に、ぬくもりと柔らかな肉とそれを覆う布地の感触が満ちる。
それは、それは、それはあの日、助け出された日、事件を起こした日、それ以外にも、何度も感じた、抱擁の感覚だった。
「良かった、良かった、本当良かった……。もしかしたら、帰ってこないんじゃないかって思ってた……」
まだ思考が追い付かない私を置いて、綾音さんは噛みしめるように言いながら、痛いくらいに私を抱きしめる。そして、その状況をようやく理解した私は、どうしてかわからないけれど、静かに目を濡らしていて、出そうとしても、言葉が出ない。
そんな私の耳に、更にドタドタと足音が響く。それは、段々近づいてきて、それは、おそらく扉付近で消えて、
「祈李姉!」「お姉ちゃん!」
同時にそんな声がしたかと思うと、空いていた私の両脇に、更にぬくもりが加わった。
「…………あったかい」
その時の衝撃が、少しばかり勢い付いていたその反動からか、ようやく開いた喉から出たのは、そんな、他愛もない言葉。
でも、実際、体以上に、心は、どうしてかあったかくなった気がして、根を詰めて悩んでいるときに、不意に緊張を解されたようなあの安堵感と落ち着きが、ずっとわからない願いについて考えていた私の思考を溶かしていく。
考えなければならない事があるのに、それより先に、今はただこれを感じていたいという欲が、何よりも優先されてしまう。
どうしてだろう。
どうして、この人たちを私は受け入れてしまうのだろう、この人たちは私を受け入れてくれるのだろう。
裏切り、不信、そんなことを続けてきた私へ、どうしてこの人たちは、怒りよりも憎しみよりも先に心配を向けてくれるのだろう。
怯えて立ち竦んだのは事実だけど、それでも、受け入れるつもりだった。帰って来てからの事を考えれば当然だ。私はあの人に会ってから、あの人だけが全てだった。私が彼女たち一家にしたことなんて、欠片ほどもない。
そもそも、私は一度家を出た。救ってくれた恩を仇で返し、あまつさえ失意を言い訳に何も償わず恩恵だけを享受し、最後には選びもせずに逃げ出した。
ずっと、ずっと不思議だった。こんな私を、酷かった私を、どうして綾音さんたちは見捨てずにいてくれたのだろう。
私が、私が母の娘だったからだとしても、今思えば、それにしてもこの人たちはあたたかすぎた。そもそも母が死んだなら、私は荷物だ。この家に子供が生まれるより前に、綾音さんは迷惑な遺産を受け取った。
それをせっかく手放したというのに、何故、この人は私を救いだして、育てて、あそこまでしてくれたのだろう。
実の子供でもないのに、ここまで、ここまで………………ここまで思ってくれるのは何故だろう。
この人たちは、こんな私の事を家族と、そう呼んでくれていたのは、本当に、どうしてなのだろう。
この人たちにとって私は、そんな風に扱う価値など何一つなかった筈なのに。
そうだ、ああそうだ、私は、心配される意味なんて無い筈なのに…………。
「………………貴方まで、いなくなってしまうんじゃないかって思った」
「え?」
突然の言葉に、つい私は一言で返してしまった。すると、綾音さんは、それを合図にするかのように、未だ強く抱きしめながら、それを言った。
「あの日、澄希さんがいなくなったあの日、私の家族からは姉さんが消えた。それから何年も待って、ようやく帰ってきたと思ったら、形見を残して死んじゃった。残ったのは、貴方だけ。互いに何も知らない貴方だけ。そんな貴方を、私は見捨てた。自分の家族を理由に、私、家族を捨てちゃったの。
それから、遥が生まれて、彼方が生まれて、家族を知った私は、貴方を捨てたことの意味をようやく理解して、それで、貴方を助けて、取り戻せたと思ったの、やり直せるって思ったの。
姉さんも、母さんもいないけど、母親になった私と、姉さんみたいな子供、それに、私の子供。あの夏に始まって、終わってしまった家族を、今度は私が一から作れるんだって。
でも、貴方がいなくなってしまって、今度もまた、何もできないまままた家族を失うんじゃないかって、怖くて怖くて、怖くって、しょうがなかったのっ」
言葉が、出なかった。というより、何を言っていいのか分からなかった。
始まりは、確かに私の母親で、経緯も私の母親だったけれど、私を、私が含まれていた家族は、そうじゃなかった。
私がいたのは、時雨綾音が母親で、遥という妹と、彼方という弟がいて、そして、私が長女の、そんな家族の中だった。
「………………ああ」
それはすんなりと、そこから悩んでいたのが馬鹿みたいに。腑に落ちた。
私は理解した。随分と、埃をかぶる程長い時間がかかってしまったけど、理解できた。
あれを、あの夢を幸せだと思った訳は、今、こうしてただただぬくもりを受け入れているのと同じだ。
嬉しかったんだ。私。
あたたかいと思ってたんだ、私。
どれだけ嫌だと、どれだけなじまないと思っていても、その実、私は失うことが寂しくって、悲しかったんだ。
だから、あの日町を出て、その日常が無くなったから。
家族との日々が無くなったから、あの夢は幸せな夢だったんだ。




