第十五話 家族 その4
亡夢伝承の真相、それは、生者が生きていくための儀式。
生者を思う死者の祈りによって引き起こされる、未来へと進むための奇跡。
死という絶対的な運命を一度だけ惑わし、残されたものへ託す奇跡。
絶望の淵の中に現れた最後の希望を胸に、生者が先へと一歩踏み出すための、本来ありえざる夢物語。
失われたものはもう戻らない。だから、その一抹の夢を永遠に望んではいけない。例えそれが生者にとって、どれほど残酷なことだとしても。
それをわかっていたとしても、その苦しみを知っていても、それでも、貴方には生きていてほしいと、顔を上げてほしいのだと、そう伝えるための最後の機会。
そんな、ありえたかもしれない“もしも”が紡ぐ、刹那の奇跡の物語。
本来ならば、そのはずだった。
※※※※※※
男が生きてほしいと願ったその少女には、未来という名前の“もしも”は存在していなかった。
少女には、男以外の希望など、もうこの世にありはしなかった。男のおかげで何とかツギハギされて保たれていた心は、余りにも理不尽な簒奪によって砂粒にまで砕け散って、この世には一欠片しか残っていなかった。
それは、苦しむの果てにこの世を去った誰かの焼け跡にもう面影などなく、ただただ燃え尽きた灰だけが残っているように。
死者は、もう決して甦ることはない。もう、その生を生きることはない。それ故、未来という名の奇跡は、どこにもありはしなかった。
『どうして』
後悔して、後悔して、後悔して。数え切れない悔いの先に決めた覚悟はその報酬に、最後の最後にふさわしい、何よりも大きな失意を男へ与えた。
自分の死など、どうでもいい。自分の苦しみなどどうでもいい。歩んでいく道に茨が茂り、地面は灼熱を宿していたとしても、その地獄を進んでいくつもりだった。
泥を啜り、地を這って。どれ程醜く、どれほど汚くてもいいから、生きて、ひたすらに生きて、澄希へ幸せをあげたかった……。
……、いや……、
『……違う、違うだろ』
あげたかったなんて、余りにも傲慢が過ぎるだろう。
初めは、愚かな同情で中途半端に手を差し伸べた。わがままに、幼稚な心であの子を振り回した。
その後は、平気なふりをしているだけだったのに、自分はもういらないのだと勝手に決めつけて澄希を見捨てた。普通の尺度でしか、物事を見れなかったから。
一番必要な時には怖気づくだけで何もできず、挙句、自分本位の感情を糧に動き、結局役には立たなかった。救うなんてもってのほか、どこにでもいる、普通の誰かでしかなかったから。
そして、最後には自分以外を選べない状況を利用して求めに応じるふりをして強欲から澄希の手を引き、はるか遠くまで連れてきた。
覚悟なんて、愛なんて理由を付けていたけれど、自分はあの子に、自分の思う普通の幸福を押し付けていただけだったのだ。
その道さえ歩ければ、大勢の誰かが歩いた道にさえ出られれば、あの子もきっと幸せを掴めるからなんて、幼心を盾にそう思っていただけだった。
あの日。澄希と出会ってしまったあの日から、自分は彼女の人生の舵を奪い取ってしまったのだ。
だから……だから、もう……、
『ああ、そうだ。だから自分は、きっと……』
澄希と、出会うべきではなかった
ああ、だから、
『もう、自分には何もできない。何も、してはいけないんだ』
それだけ言って、男は。後悔の果てを見た男は、名もなき誰かとして、二度目の死を迎えた。
魂を留めておく理由など、もう、何一つとして無かったから。
『諦めてんじゃねえよ、馬鹿が』
風前の灯火であった男の魂に、滾る何かが、乗り込んで来た。
『お前がそんなだったら、俺は後どれだけ自分を罰せばいいんだ』
震え、怒り、悔やむ声が、内側で響く。
『遅かった。ああ、遅かったさ。でも、お前の足は動いたじゃねえか』
それは、この世に生まれたあの日から、ずっと耳にしていた声。
『何もかもが手遅れになる前に、走り出せたじゃないか』
その声の主は、自分か知る限り、たった一人だけだった。
――――誰だ、お前は。
『……俺は、俺だ。ただ、お前だけど、お前じゃねえ』
――――なら、誰だ、お前は。
『……そうだな、俺は、もうお前は名乗れない。だから、代わりに名乗るとするなら……』
声は、一度だけ、決意するように呼吸すると、
『俺は、お前が乗り越え通り過ぎた、ありえてしまった後悔だ』
その言葉と共に、男は、ある記憶を思い出した。
※※※※※※
それは、何も成せなかった、ある一人の臆病者の記憶だった。
幼心にあった勇気は消えうせ、他にもいる誰かとして、普通の中で生きていた。
心内にあるものは、誰もが持っているものばかりで、突出したものなど、何一つ存在しなかった。
そして何より、それにはあるはずの正義感を宿す力は、それ以上に巨大な自尊心によって塞がれ、ただただ傍観することで自分を守ることしかできない臆病な心だけがあった。
そんなそれは、あの日。彼女の机に置かれた花瓶を見ても尚、自分がそうなる未来だけを恐れていた。
それから、数え切れぬほどの日々が過ぎたある日、それが見たのは、それが最も見たくなかったものだった。
錆びた鉄の香りが、これでもかという程に鼻腔に漂う。
空に打ちあがる火花の光が映し出したものは、随分と酷く赤黒く。
大雨の後の水溜まりと思う程に、それは地面に満ちていて。
町のほとんどか空を見上げ、天高い場所へ帰る誰かへと想いを馳せながら花火を見るその足元、血だまりの中央に、その子はいた。
『――――、――――』
絶叫。愚かしい誰かの、声にならない後悔。
あまりにも遅く、余りにも馬鹿な後悔。
だが、その後悔は、最後の最後で仕事をした。
けれど、それでもその後悔は、やはり、あまりにも遅かった。
あの日、流れ出た血液と共に、その子は心を失ったのだ。
意思のないその子は、それでも、ただ生きれると、生きていてほしいというだけで、無価値な生を歩まされた。
もう、生を味わう心は無いというのに。その生に、意味などないというのに。
臆病者が後悔を罪に変えたくないがための、エゴでしかないというのに。
きっと、それはその罰であったのだろう。
もしかしたら、逃げた愚者への怒りだったのだろう。
生かすだけ生かし、結局何一つしなかった臆病者は、理不尽に、その生の道を奪われた。
そして、肉体を失い、魂だけになってようやく、臆病者は自罰した。
安らかなその先など許されないと、逃げることなど許さないと。自らへの、憤怒と憎しみを糧に。
そうして、醜くも現世にとどまり続けた魂がそれでも残した自己の願望が、その子が、幸せに生きる道だった。
あり得ないと分かっていても、そんな未来などないと分かっていても、それでも、どうか、どうかあの子だけは、幸せになってはくれないかと。
そんな、ふざけた馬鹿馬鹿しい、けれど、どこまでも純真なその願いは、同じように残り火を残し、それでも何もできない者達によって、選ばれた。
それは、ありえない未来への【もしも】ではなく、あの日、あの時選んでいればあったかもしれない、後悔に満ちた過去へと向かう【もしも】として。
そこにあった、幸せな結末の可能性に祈りを託して。
代償として、これまでの生の証を失う代わりに、その魂にだけは、これまで刻んだ思いと、彼らの全ての祈りを込めて。
もう一度だけの、本来あり得ないはずの奇跡は、そうして、幕を開けた。
※※※※※※
『お前は、そうして起きた奇跡が達した、一つの未来の結末だ』
記憶を見た男に、それは、男のこれまでの答えを告げる。そして、
『そして、お前がこれから起こすのは、それによって生まれた奇跡を救うための、最後の奇跡だ』
二度目の決意の果てのその先へと、男の道を指し示した。




