第十五話 家族 その3
それは、例えるとするのなら、凍え死にそうな吹雪の中でほんの小さな火種しか残っていないような。
芯の芯にあたたかさは確かにあるはずなのに、外側は氷にでも覆われてしまったように冷たくって、一人で突き動くための熱など、もうどこにもありはしない。
ああ、また一つ例えるとするのなら、それはきっと、終わることのないと思っていたあの夏の日々から、気付けばもう随分と遠いところまで来てしまったような。
いや、違う。ようなではなくて、確かな意思をもって、俺たちはあの場所から遥かに遠い土地へと逃げ出したんだ。
※※※※※※
その日々の始まりは、新たな春を迎える少し前。冬の残り火がまだ冷たく燃える頃だった。
『じゃあ、行こっか』
最後の楔だったら妹との別れを済ませた少女はにこりと笑ってそう言うと、もう何も引きずるものはないと言わんばかりの軽快な足取りで、荷物持ちの男も気にせず歩きだした。
そんな少女を、男はただ沈黙のまま追いかける。その足には責任と覚悟、それから、ほんの一匙の気がかりが纏わりついていた。
そんな彼らが向かうのは、いつか都会へと向かう為に乗ったバスの始発点。ただし今度は、故郷からの逃避行の為に。
バスに乗り、列車に乗り、故郷の面影すら忘れる程の遠方の地へ、男と少女はただの彼らとして生きる為に降り立った。
そこには、それまでの彼らを知る者は誰一人として存在しない。
例えその体に大きく醜い火傷傷を宿していても、彼らが覆い隠す限り、誰もその真実を知り得ない。
自由を束縛するレッテルも風潮も、そこには何ひとつありはしなかった。
『私、今とっても幸せ』
その地で暮らす日々の中で、少女は男に口癖の様にそう言っていた。
ふとしたとき、一仕事を終えたとき、ゆったりとした時間を過ごしているとき。何気なく、さりげなく、にこやかに笑いながら。
その笑顔は、きっと男以外の誰しもが見たら一目で彼女が幸福なのだと分かるもので、あの町にいる限りは、もう二度と見ることのできなかったものだろう。
男にもそれは分かっていた。分かっていたから、男はただそれを肯定するだけで、それ以上の心中を少女に伝えることはしなかった。
何せ、ただただ普通の日々が当たり前に過ぎることがどれ程素晴らしいものなのかなんて、少女が誰よりも知っている。
だから、他者が何を思おうと、どんな判断を下そうと、本人が幸せと思っているならば、それでよかった。
あの日、重くのしかかっていた責任はそれだった。そのせいで重たくて持ちあがりそうになかった足を上げたのは、そのための覚悟だった。
全ては、少女のその顔と声を知るためにしたことだった。
だから、これでいい。
幸福があるのなら、それでいい。
それがどうしようもない程に虚構だったとしても。
例え、愛しさによって歪んだものだとしても。
その歪みが、自らの心を痛めつけたとしても。
※※※※※※
あの夏が終わった後の事、少女が男に問いかけた。
『勇樹は、私の事、スキ?』
覚悟で固まっていた男の耳に響いたその言葉は、強張っていた心を抱きしめ、永遠にしまい込もうとしていた感情へあっという間に火を付けた。
男の少女を救おうという意思の中には、善意で隠しきれない少女への愛しさがあったから。
でも、それはどこまでも男の独りよがりな感情で、愛しさ故に、男はその愛しさを捨て去ろうとすら決めていた。
『勇樹は、私の事、スキ?』
だからこそ、その言葉はあまりにも魅惑的だった。
けれど、だからこそその言葉が何よりも苦しかった。
だって、それを問う少女の目に光は無くて。
手先は震え、声は怯え縋るようで。
今にも崩れてしまいそうな膝を、必死に必死に支えていて。
何より、少女の心が、そう言ってくれと懇願するように叫んでいたから。
だから、男は答えた。
『……ああ、愛してるよ』
自分の心からの愛が、かつて少女が失ってきた多くの好意の代替品でしかなかったとしても、それで少女が救われるならば、それでいいと。
例えその救いには、本当の救いは無いのだとしても。
心から愛しい人がそれで生きてくれるというのなら、この思いが真に報われる日は来なくても、それでいいと思えたから。
彼女を際限なく愛すこの心に意味があるなら、それでいいと思えたから。
……けれど、
『私、今とっても幸せ』
それは、少女が口癖のように呟く言葉。
『私、今とっても幸せ』
何度も、何度も聞いた言葉。
『私、今とっても幸せ』
言い聞かせるように言う言葉。
――――私、今、とっても幸せ?
誰しもがその笑顔に騙されていても、男の耳には、その言葉がもう普通に離れない少女の悲痛な叫びが響いていた。
何かの代替品にするには、男の愛はあまりにも誠実だった。それ故に、少女はそれがもたらすものを信じることが出来なかった。
それ程に少女の人生には貰えるはずのものは何もなく、確かだと思っていた現状全てが簡単に覆る恐怖が心の髄まで染みこんでしまっていたから。
でも、それと同時に、少女にはもうそれなしで生きることが出来る力など、どこにも残っていなかった。
男のそれは、これまでずっとずっと求めていた、心からの愛だったから。
こんな自分を愛したいと求めてくれる、唯一の人だったから。
そんな少女の苦しみを、男は誰よりもそばで見続けていた。
幼い頃、初めて出会った少女は、何もかもを諦めていた。けれど、その奥の奥、少女自身ですら自覚していない心の底には、普通への焦げるほどの憧れがあった。
ただ、親に愛される。ただ、姉として妹と居られる。ただ、当たり前に友人と日々を過ごせる。そんな、余りにもありきたりな幸福な日々を、壊れかけても尚望み続けていた。
そんな少女を、運命はどうしてこんなにも遠い所へと追いやってしまったのだろうかと、苦痛しか生まない自己矛盾に苛まれる少女を見るたびに何度も、何度も何度もそう思った。
彼女を苦しめているのが分かっても、それでも愚かしく少女を愛しく思い続ける自分に幾つもの罵声を浴びせようとして、それが自分が好きになった少女そのものを否定することだと踏みとどまった。
何のために、自分は彼女のそばにいるのか。
何を思って、自分は彼女の隣に立っていられるのか。
自分は今少女のために、一体何を成すべきなのか。
あの日、自分の名を叫び縋る少女を抱きとめてから。
あの日、ボロボロで怯えていたはずの心で振り絞った勇気から発せられたあの問いに、愛していると返してから。
未だ未練を残して、それでも少女を選んで故郷を捨てたあの日から。
もう、迷う理由はなかったはずだ。
例え、そのせいで少女に更なる歪みを与えるのだとしても、この世で一番愛しい人の苦しみを知っていて尚、見て見ぬふりをしなければならないのだとしても。
少女の最後の希望になってしまったのだから、幸せにすると、こんなにも遠くまで連れてきてしまったのだから。
最後まで、抱いた決意を抱えたまま責任を果たそう。
……だから、
『家族に、なろう』
今度こそ、今度こそ少女を、幸せにして見せる。
少女が欲しかったものを全部、全部手に入れさせてみせる。
この愛を以て、少女がもう二度と幸せを幸せとして感じられるようにして見せるから。
そのために、自分の全てを捧げよう。
そう、誓った。
……、はず、だった。
※※※※※※
吸い込まれそうなほど暗い空から落ちる雨粒に、ただひたすらに打たれ続ける。ずぶ濡れのアスファルトに倒れ込んだ体躯は、ピクリとも動かない。
頭蓋から、零れてはいけないはずの何かが熱と共にとめどなく流れ出し、雨水と共に下水へと攫われていく。
耳の奥には、虫のような音を立てる肺の抵抗が響くばかりで、浴びているはずの雨の音も、闇を紅色に照らす照明の音も、何もかもは聞こえもしない。
それでもただ心臓だけは、熱を帯びて必死にその鼓動を続けていた。
『ああ……、あれ、は……、走馬灯……、だった、のか……』
全てが闇に染まりかけた中で、男は、そんなことを考えていた。
それは、いつもと変わらない帰り道だった。気づけば何年も過ぎていた、遠い町での日常だった。
澄希と家族になって、必死に、必死に幸せになろうとして。
そんな中で、身に余るほどの奇跡が舞い降りて。
消去法で選ばれた自分以外の、澄希の生きる理由が出来て。
本当に、ここから。ここからやっと、幸せを澄希にあげられる、そのはずだったのに……。
あまりにも、あまりにも理不尽にその願いは――――
――――『まだ、希望はある』
暗闇の中で立ちあがり、全てを思い出した男は、後悔を口にするより先にそう言った。
二番目の、けれど、一番の奇跡を追い求めて。




