第十五話 家族 その2
死者を見送る祭事の日。刹那に咲き誇る花々の光は、一瞬の間にかわりがわり地上を照らし、闇夜に様々なものを映し出す。
野山に田畑、家々に道々、そして、年に一度の大花火を眺めて空を眺める人々。
誰も彼もが光景をその目に焼き付けようと、上を向いて過ごしていた。
ただ、二人を除いては。
町で一番空に近い山の上、花火を誰よりも綺麗に眺められるはずの場所で男が見ていたのは、花火に目もくれず、うわごとのように何か呟きながら座り込んでいる少女だった。
男が少女の預かり知らぬところで少女を守っている間に少女が運命の出会いを果たしていたと知ったのは、八月の初めの頃だった。
喧嘩をして、いつものように生傷を負って歩いていた帰り道。男は偶然森から帰る少女に出会って、そして、ひどく驚愕した。少女が、見たこともない程に幸せそうな笑顔を浮かべて歩いていたから。
それ以前、時期を言うならば七月の初めから少女には出会っていた。時雨家に居候をしていると知った少年はすぐさま時雨家へと向かい、そして、一度だけ会って話をしてから、以降はできる限り関わらない様にしていた。
ことを起こして以来、少女から男へと火元は移り、少しずつ彼女へ向けられる炎が減りつつあった中で、万が一にも火元が戻った時に耐えられるほどの精神はもう少女には残っていないのだと、その一度だけで分かってしまったから。
けれど、それから更にしばらくが経った頃、少女は時折男に会いに来るようになった。
未だに苦しんでいるはずなのに、どうして会いに来るのかと疑問を抱いた男が訳を聞いたものの、少女は何も語らず、ただ一言。
『心配だから』
それだけ言って、くすりと、人形だった頃のように。けれど人間らしく、弱々しい優しさを込めた、大嘘つきの笑みを浮かべた。
そんな彼女が、ただただ純粋に笑っていた。確証はないけれど、多分、心の底から。ずっとずっと、自我を持って生きてきた時間のほとんどが不幸と嘘に沈んでしまっていたあの少女が。
『友達が、出来たんだ』
楽しそうに、嬉しそうに。端的な言葉の節々から、素直な感情がこれでもかというほど零れ落ちていく様子は、その人物と少女の関係性を何より物語っていた。
つい最近出会ったばかりの、同い年の女の子。過ごした時間で言えばきっと少女の人生で最も短いであろうその子は、何よりも大きく強い救いの種となったのだ。
そんな子について楽しそうに語る少女の話を聞きながら、男は考え、思った。
後悔しておきながら、結局また自分は何もできなかった。結果的に傍にいることも叶わなくなって、本当に助けになっているのかなんて考えながらやっていたこともきっと、直接的には彼女を救う事には何の役にも立っていなくて。
贖罪になるかもしれないと言い聞かせながらでないと出来ないほど脆弱で臆病な意志で、それでも必死にやっていたことは、そう信じたいだけかもしれないのだとしても、確かに無駄ではなかったのだと。
彼女が、救いになるなにかを見つけることが出来たその一端くらいにはなれたのかもしれないと、そう思った。
だからこそ男は、心も体も自分が思っている以上に傷ついているはずなのに、後悔を燃やした執念を抱きながら、他人からはともすればごみ屑でしかないような日々を真面目に過ごし続けていた。そのはず、だったのに。
いつの間にか出かけていた少女が遅くになっても帰ってこないという話を時雨さんから聞き、手分けして探していた中で、男は空に打ちあがる花火を、脳の奥底に眠っていたかつての記憶を重ね合わせた。
それは幼い頃、まだ壊れたままの人間だった少女を連れて小さな山を登り、二人で花火を見たという古い記憶。後悔に焼かれ続けてすっかり忘れてしまっていた、幸福な思い出。
まして、あの頃の事を思い出したくもないはずの少女は猶更覚えていないであろうそれに、心当たりを失くしたうえでアテもないまま探し続けていた男は、最後の可能性を懸けた。
何があったかは知らない、何をしていたのかも知らない。ただ、無事で見つかってくれればそれでいいと願いながら。
燦然と輝く花火から放たれた光が暗闇の中を駆け抜け、何かからはじけ飛んで男の目へと飛び込んでいく。
美しさを伴っていたはずのそれは、男が一番見たくなかったのものを、鮮烈に映し出した。
手足は凍ったように固まり、喉奥からは声のかわりに妙な音が響く。何かしなくてはと理性では分かっているのに、本能は拒絶し、逃避しようとしていた。
けれど、夢か、或いは幻覚かと必死に思い込み信じ込もうとしても、目が耳が情報を拾い集め、闇の中のそれはどうしようもない程に現実なのだと告げてくる。
これまで成してきたことの価値は、目の前の少女の絶望を以て、全てが無へと帰したのだと。
何より、自分は結局、また何もできなかったのだと。
『ゆう、き?』
これまでで一番の後悔に身も心も侵されかけた瞬間、その声が、男を現実へと呼び止めた。
声のした方を見ると、そこには、一人の少女がいた。
十七年という短い人生で、余りにも多くを失い、余りにも惨たらしく希望と幸福を略奪された少女がいた。
何一つできなかった無力な愚か者だというのに、そんな自分を縋るような目で見つめる、一人の幼い少女がいた。
『ゆうき、ゆうき、ゆうき』
ズルズルと力の入らない体を引き摺りながら、手を伸ばして近づいてくる。
『ゆうぎっ、ゆぅぎっ、ゆぅぎぃ』
やがて、少女は男の足元まで辿り着くと、未だ竦んで棒のようになっている足に縋りつき、泣き崩れながら男の名前を呼ぶ。
その声は、その顔は、男に何かを求めていた。無力で、臆病で、愚かな自分に。
既に成長したその体に似合わない幼子のような叫びが、何も答えないままの自分の耳に響き続ける。
少女は……、彼女は……、澄希は、こんな男に対して、無垢なまでに助けを求めていた。
いや、違う。無垢なのではなく、本来なのだ。
当たり前に心を持って、当たり前に苦しむ人間ならば、誰だって助けてほしいと願うはずなんだ。
あまりの絶望で澄希はもうそれを失ったのだと、ずっと勘違いをしていた。
澄希は、ずっとずっと求めていた。
助けてほしいと、求めていた。
ただ、誰もその願いを聞いてやらなかったんだ。
摩耗してあまりにも弱っていた精神では、誰の耳にも届かなかったんだ。
だから、誤魔化すしかなかった。生きる事しか知らなかった彼女は、何とか生きていくために、封じるしかなかったんだ。
幼い時に与えられるべきだったものを何一つ貰えず、渇望の苦しみを抱えながら、成長しているふりをしなければならなかったんだ。
自身の存在価値を固定され、それ以外の道を閉ざされた彼女は、生きたくもない人生を生きるしかなかったんだ。
本当の彼女はこんなにも、こんなにも幼く弱いというのに。
一人でなんて、生きていけるはずがなかったのに。
自分は、そんな彼女に大きすぎる幻想を抱いて、贖罪という名の言い訳に逃げ、傍にいながら彼女を十年以上も見捨て続けていたのだ。
この世で一番愛している人を、誰より傍で殺し続けていたのだ。
『……澄希』
男は、自分に縋る少女の名を呼ぶと、そっと足元から放し、そしてしゃがみこみ、彼女と同じ目線になってから、今度は自分から抱き寄せた。
力は込めず、けれど、決して話さない様に強く抱きしめ、そして、
『……ごめん、ごめんな』
数え切れぬほどの後悔と自身への怒りから溢れ出そうになる涙を堪えながら、まだ自分の名を叫びながら泣きじゃくる少女にそう告げた。
その手には、震えがあった。けれど、様々な理由はあれど、それにもう臆病さは残っていなかった。
多くの人を幸福にしようという花火達は未だ天高く咲き誇り、光と轟音を町中に散らしていく。でも、暗闇の中にいる彼らには、それらはもう届いてはいない。
有象無象は誰一人、彼らの幸せを祈らない。彼らの喜びを願わない。ただ、自分たちが漠然と幸福であることを、何も考えずに享受している。
だから、彼らはもう自分達で掴まなければ、もう幸福など得られない。
それほどまでに多くの物を、彼らはとっくに失いすぎた。
例えどれだけ自分が弱く、普遍的でありきたりな存在だとしても、何も頼らず自分達で歩かなければならない。
何もないところを道としながら、歩み生きなければならない。
ああ、だから、どれほど傲慢であろうとも、幸せの席を勝ち取らなければならない。
【もう二度と、彼女から幸福を奪わせやしない。】
そう覚悟した男の心に、後悔は、無かった。




